Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「たけき者も遂には滅びぬ」-日本の哲学 Shoganai

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる者も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ

(意訳)
祇園精舎(修行用施設)無常堂(インドのお寺?)の鐘の音は、
諸行無常の響きをもつ。
(釈迦入滅の時の白色に変わったとされる)沙羅双樹の花の色は、
盛者必衰の道理をあらわしている。
おごった者も、永遠におごりふけることはない。
ただ春の夜の夢のようにはかないもの。
猛る(強い)権力者もいつかは滅びてしまう。
まるで風の前の塵と同じようなもの。

(こういうのはあまり翻訳しないほうがいい気もします… 参考程度に)

(原文)
諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)を顕(あらわ)す。驕(おご)れる者久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。猛き人も遂には滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ。遠く異朝(いちょう)を問らふ(とぶらう)に、秦(しん)の趙高(ちょうこう)、漢の王莽(おうもう)、梁(りょう)の周伊(しゅうい)、唐の禄山(ろくざん)、これ等は皆旧主先皇(きゅうしゅせんこう)の政(まつりごと)にも従はず、楽しみを極め、諌(いさめ)をも思ひ入れず、天下の乱れん事をも悟らずして、民間の憂ふる所を知らざりしかば、久しからずして亡じ(ぼうじ)にし者どもなり。近く本朝を窺ふ(うかがう)に、承平(じょうへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎょう)の純友(すみとも)、康和(こうわ)の義親(ぎしん)、平治の信頼(しんらい)、これ等は驕れる事も猛き心も、皆執執(とりとり)なりしかども、間近くは、六波羅(ろくはら)の入道前(さきの)太政大臣(だじょうだいじん)平朝臣(たいらのあそん)清盛公と申しし人の有様、伝え承るこそ、心も言(ことば)も及ばれね。その先祖を尋(たず)ぬれば、桓武天皇第五の皇子(おうじ)、一品(いっぽん)式部卿(しきぶきょう)葛原親王(かずらはらのしんのう)九代の後胤(こういん)、讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が孫(そん)、刑部卿(けいぶきょう)忠盛(ただもりの)朝臣の嫡男(ちゃくなん)なり。かの親王の御子(みこ)、高視王無官無位にして失せ給ひぬ。その御子(おんこ)高望(たかもちの)王の時、初めて平の姓(しょう)を賜はつて、上総介(かずさのすけ)になり給ひしより以来(このかた)、忽ち(たちまち)に王氏を出でて人臣に連なる。その子鎮守府将軍良茂(よしもち)、後には国香(くにか)と改む。国香より正盛に至るまで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上(てんじょう)の仙籍(せんせき)をば未だ許されず。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/257731.html

琵琶演奏 「祇園精舎」


先日、南ドイツ新聞の記事を紹介しました。
http://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/4d4ab9fab363361c5f2c75a4baae805f

Shoganai=しょうがない=仕方ない=しようがない

これをドイツ語に無理に直すと、「Man kann nichts machen」となるんですね。直訳すると、「人は何もすることができない」となります。

しょうがないって、僕ら日本人はよく使いますよね。ある種の日本人的一般原理みたいなものだと思います。「しょうがねーなー。許してやるよ」、とか、「未曾有の大震災もしょうがない」、とか、「しょうがない、やるか」、とか、いたるところで、僕らは「Shoganai」を使っています。

ドイツ人は、こういうフレーズはあまり使いませんね。どっちかというと、「どうやってやるか」みたいな話が圧倒的に多いわけです。日本人は、逆に「どうやってやらないか」って考えるのかな?(苦笑)

Man kann nichts machenだと、どこかキリスト教的な匂いもしません? 人は神ではないので、何事もなすことはできない、と。Nobody is perfect/Niemand ist vollkommenに通じるような感じがします。けれど、「パーフェクトじゃない」という感じでもないんですよね。もっと退廃的、デカダントな感じがするんですよね。

「諦め」の思想とも言えるかもしれません。「どうせダメなんだから」という感じ? あるいは「いつかはみんな死ぬ」? どうも暗いニュアンスが感じられます。

今の日本人のメンタリティーに、この思想がどれほど入っているのかは分かりませんが、やはりどこかで、無意識に、この思想が僕らの中に残っていると思いません?? 「時分の花」という発想にもどこか通じている気がします。「永劫回帰」の否定の哲学みたいな。

閉塞する今日の日本社会。意外と、こういう「古典」から、生きるヒントって得られるような気もしますが、、、 安全神話が完璧に崩れた日本の原子力政策もしかりです。さて、どうでしょうかね。。。 

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