僕は、講義の時に「しゃべるな」「寝るな」としつこく言います。
しゃべるのは、真面目に聴いている学生の「迷惑」になるから。
これを放置している先生は、「職務放棄」しているに等しい。
人が話している時に、べちゃべちゃとおしゃべりする学生を容認すると、それはまわりに伝播して、収拾がつかなくなります(そういう講義を色々と見てきました)。
だから、何度も何度も、繰り返し(嫌われてもいいから)しつこく言います。
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講義中に学生が「寝ること」を容認するかどうか。
色んな人に聴くと、容認する先生としない先生がいることが分かります。
「寝るのはしょうがない」
「寝ているだけなら、誰にも迷惑をかけないから、しゃべられるよりまし」
「寝ている学生を起こすと、嫌われるから、黙って見てみぬふりをする」
という先生もいれば、、、
「講義中に寝るのはけしからん!」
「大講義室の一番後ろまで行って、叱る!」
「一人が寝だすと、みんな寝だす。だから、注意する」
「怒ることはしないけど、とりあえず指摘はする」
という先生もいます。
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僕のスタンスは、「基本的に寝るな」「ずっと寝ている学生は許さない」です。
ちょっとうとうとするのは仕方ないと思いますし、そこまで厳密でもないです。見逃しも多いです。
でも、ず~っと寝ている学生を放置するのは、無責任かな、と考えますし、隣りの学生からすれば、「隣の子が寝ているから、私も眠くなってきた💤」ってことにもなりかねません。
眠さも伝播します。
ただ、僕の場合、それだけじゃなくて、教育や保育にかかわる講義がほとんどなので、放置できない特別な理由があるんです。
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それは、「寝ちゃいけない時に寝ない力」を身につけてもらわなければ困る、という理由です。
どんな時でも、人間なので、眠くなる時は来ます。僕もいつも眠いです(苦笑)。
でも、教育や保育の世界では、「眠い時でも、起きてなきゃダメ」な場面が多いんです。
特に乳幼児とのかかわりにおいては、ちょっとした油断が大事故につながります。
乳幼児は少し目を離したすきに、大けがをしたり死んでしまったりします。
「ぼーっとしている」、が許されない世界なんです。
モノを扱う仕事なら、その商品が壊れても、とりあえず弁償すれば終わります。
でも、ヒト(特に乳児)を扱う仕事だと、ヒトが死んだら、生き返させることはできません。死んだら終わりなんです。死ななかったとしても、目を離した(油断した)その一瞬で、倒れて、失明するかもしれないし、骨折するかもしれない。車にひかれるかもしれないし、穴に落ちるかもしれないし、水たまりに入って窒息するかもしれない。
人は必ず眠くなるんです。でも、眠い時でも「寝ない力」があれば、油断せずに、目を離さないでいられます。(中には、ナルコレプシーの人もいると思いますが、その場合、それに早く気づいて、内服薬をもらうとか、あるいは保育じゃない世界にいくとか、考えるのが妥当かと思います。子どもの命にかかわることなので、そのままでいい、ということには決してなりません。)
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保育は「感情労働」と言われます。
感情を自分で厳しくコントロールする力が問われているのです。
例えば、、、
「好き」だから、その子を贔屓するのはダメ。
「嫌い」だから、その子を排除するのは絶対にダメ。
「眠い」から、寝るのも合うとなら、
「元気」だから、テンションが上がり過ぎるのもダメ。
「痛い」と思っても、笑わなきゃダメだし、
「気持ちいい」からといって、暴走してもダメ。
「激怒した」としても、その怒りをむき出しにしてはダメだし、
「喜んだ」としても、その喜びも抑制しなければいけない。
「苦しい」と思っても、その表情を子どもに見せちゃいけないし、
「哀しみ」に打ちひしがれても、笑ってなければいけない。
こんな感じで、あらゆる感情を規制して、コントロールして、目の前の子どもに集中しなければいけないんです。
だから、保育は「感情労働」の一つと考えられているんです。
この「感情労働」は、アメリカの社会学者のアーリー・ラッセル・ホックシールド(Arlie Russell Hochschild)が提唱した概念です。
この動画で、だいたい「感情労働」が何か、その問題性はどこにあるのかが分かると思います。
保育と感情労働については、本も出ています。
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そんな保育者養成の先生の立場からすると、やはり「寝たいから寝る」を許しちゃいけないって思うんです。
感情のコントロールって、すぐにできるものじゃなくて、日々のトレーニングが必要だと思うんです。(表面的にごまかすのではなく、自分自身の感情を常にコントロールできるように、準備をしておく、という感じかな?!)
僕自身、仕事モードの時は、「眠くならない身体」になっています。
で、休日モードの時は、「すぐに眠くなる身体」になっています(最近は老化のためか、眠くなりませんが…)
究極的には、、、
「煩悩のコントロール」ってことで、「厳しい修行」が必要になると思うんですけどね。
「冷たい」を「温かい」と感じるように、
「まずい」を「おいしい」と感じるように、
「嫌いなもの(人)」を「好きなもの(人)」と捉えられるように…。
僕は、「美味しいラーメン」「話題のラーメン」を否定して、「不味いラーメン」「不人気のラーメン」を肯定する力を、この20年で培ってきたと思っています。
また、「ヘタクソなバンド演奏」から音楽の本質を見いだし、「技巧派のバンド演奏」の弱点を見いだそうとしています。
感情の統制、セルフコントロールは、教育や保育にかかわるすべての人に、そして「親たち」に、絶対に必要な力(コンピテンシー)なんです。
これができるようになると、人生がぐっとより濃いものになっていきます。
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ここで本題(苦笑)。
福祉の基本的態度を示した「バイステックの七原則」には、、、
統制された情緒的関与
Controlled Emotional Involvement
というワードがあります。
この言葉は、文字通り、「コントロールされたエモーショナルな関わり(関係、参画)」のことです。
If the caseworker cannot control his own emotion, he cannot hold nonjudgemental attitude toward the client.
"もしケースワーカーが自分の感情をコントロールできなかったら、その人はクライエントに対して非審判的な態度を保つことができないだろう"
(この記事の)上に書いたことを一言で表すなら、まさにこの「統制された情緒的関与」なんです。
眠たいけど、寝ない。
しゃべりたいけど、しゃべらない。
怒りたいけど、怒らない。
嬉しいけど、喜ばない。
嫌いだけど、それでも愛する。
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こう書くと、人間味がない気もしなくもありません。
けれど、ここで求められているのは、「ロボット」になることではないし、「お役所的対応をすること」でもありません。この言葉にもあるように、あくまでも「エモーショナルな関わり」なんです。ただ、それがコントロールされているんです。
誰に?
他の誰かじゃなくて、様々な感情をコントロールする主体(=理性的な私、道徳的な私)に、です。
👿「寝たいなぁ」→👼「寝ちゃダメだ」
👿「しゃべりたいなぁ」→👼「今はしゃべる時じゃない」
👿「サボりたいなぁ」→👼「サボって損するのは自分だ」
👿「楽したいなぁ」→👼「ウサギとカメを思い出せ」
👿「あの人、キライ」→👼「キライな人間にもいいところは必ずある」
👿「あの人、好き」→👼「見た目や外見やうわべの優しさに騙されてないか?」
👿「誰かと一緒にいないと寂しい」→👼「一人になる勇気をもってみれば?」
みたいな。(なんか自問自答みたい…)
そういう理性的で道徳的な私をつくることこそ、教員養成や保育士養成の最大のミッションです。
言われたことに充実に従う能力ではなく、自分自身で自分自身のことを決める能力、つまり自律の力こそ、学生時代に身に着けなければならないんです。
この能力(自律の力)は、学生時代に完成するというよりは、一生涯かけて培っていくものだとも思います。もうすぐ48になる僕でも、なかなかコントロールされた情緒的な関与というのは、難しいんです。
東洋的に言えば、厳しい修行を重ねて、最後の最後で到達できるのが、本来の統制された情緒的関与だと思います。それは、「無」の心であり、「慈悲」の心であり、「涅槃」の世界であります。
このコントロールされた情緒的な関与で最も大事なのは、子どもの最善の利益になっているかどうか、子どもの幸福につながるかどうか、子どもの未来にとって意味あることかどうか、などです。
つまりは、「子どもファーストになっているかどうか」。
でも、それは、「お客様ファースト」ではありません(いちいちこういうことを書かなきゃいけないのが嫌になりますが…)。お客様ファーストは、結局は「利益ファースト」なんです。自分が得られるお金がファーストだ、つまりは、自分ファーストなんです。利己的なんです。
それに対して、「子どもファースト」は、子ども自身の利益をファーストに考えるということであり、その子ども自身が成長できるかどうか、その子どもの得になっているかどうか、いや、その子どもの未来にとって適切なことなのかどうかをファーストで考える、つまりは、他人ファーストなんです。利他的なんです。(究極の利他は、やはり無であり、無心であり、無我なんですけど…)
…
話を最初に戻しましょう。
だから、僕は、講義中の「おしゃべり」も「寝ること」も(意図的に)注意します。
基本的に僕は「自由人」なので、他人の自由も許容できるタイプの人間ですが、この二点は許容しません。してあげたいけど、しません。嫌われることになるかもしれないけれど、嫌われてもいいから、認めません。(嫌われたくないという感情はありますが、それをコントロールして、「子どものために全集中できる人間づくり」に集中します。集中力のトレーニング、でもありますね)
僕がすべきなのは、学生たちに「自由」を与えることではなく、「自由に生きること」を教え伝えることだと思っています。
自由というのは、「寝たいから寝る」じゃないんです。「眠くても、それをコントロールして、自分自身を目覚めさせること」こそが、自由なんです。「しゃべりたいからしゃべる」じゃなくて、「しゃべりたいけど、それをコントロールして、黙って目の前のことに集中すること(=聴くこと)」が自由なんです。
感情に流されることが自由なのではなくて、その感情を自由自在にコントロールできることが、本当の自由なんです。いや、本当の自由のための基盤なんです。
だからこそ、「バイスティックの七原則」はずっとずっと大切にされ続けているのでしょう。
【保育士試験】バイステックの7原則を7分で説明!
<了>
この本は、いずれ是非読んでもらいたいですね。
ソーシャルワークの技法もまたしっかりと押さえておきたいものです。
ケースワークの技、これもとても大事な観点です。