Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「人生をいかに楽に生きるか」というテーマ

僕は今、38歳。

平均年齢を無視すれば、人生の折り返し地点に差しかかっているように思う。

倍にすれば、76歳。それまで生きている保障はどこにもない。

そんな中、ふと、「人間はいかに生きるべきか」という問いが浮かぶ。

若い頃にも、そういう問いと真摯に向き合ってきたと思っている。

フランクルにはまった時期もあったし、ハイデッガーにはまった時期もあった。

人生の意味、生きる意味、存在の意味、そういうことを、僕も人並みに考えてはきた。

 

振り返ってみると、「いかに真面目に、いかに真剣に生きるか」、と考えてきた気がする。

チャラチャラした生き方は嫌いだったし、いつでも真剣に、本気に、ガチに生きることがいいと思ってきた。

20代で、「死を先駆して、それを意識して、どう生きるか」なんてことも考えていた(と思う)。

まー、蒼いわな、、、と。

 

この歳になって思うのは、「多くの人が、みんな、真面目に生きている」、ということだ。

正確にいうと、「想像以上に、日本の人たちは、クソ真面目に生きているな」、と。

日本人は、概して真面目で、厳格で、誠実で、頑なだと思う。

そして、真面目な人ほど、苦しみ、悩んでいる、という現実。

そういう現実を見るごとに、僕の考え方も変わってきた。

 

そして、辿りついた問いが、表題の問い。

「人はいかに楽に生きるか」

これは、僕のブログのスローガンとも重なる。

「きっと誰もが楽しく生きられる…はず」

楽しく、という文字と同じなのが、楽。

楽になる=sich besser fühlen、sich lindern.

英語だと、comfortableとか、easyとか、cosyとか、softとか、か。

なんか違うなぁ。

 

楽をする、というのは、苦労をしない、という意味と同義。

思えば、人間は、苦痛や苦悩や苦労から自由になるために、知恵をつかって進歩してきた。

移動の苦労をなくすために、車が生まれ、電車が生まれ、飛行機が生まれた。

家事等の苦労をなくすために、洗濯機が生まれ、レンジが生まれ、掃除機が生まれ、冷蔵庫が生まれた。

気候のしんどさをなくすために、扇風機が生まれ、エアコンが生まれ、快適な家が生まれた。

人間は、楽をするために、知恵を使うし、技術を向上させてきたんだと思う。

 

楽をすることは、いけないことだと思っている人も少なくない。

でも、楽をすることは、いけないことどころか、人間の知性のモチベーションになっているのだ。

楽をしたい人たちがいたからこそ、今の文明があるわけだし、様々な技術や知識があるのだ。

楽をすることは、決して悪いことではない。

 

とすれば、僕らももっと、楽をするために、知恵を使っていいはずだ。

考えてみれば、僕自身の人生も、実は、楽をするために今なにをどうしたらいいかを考えて歩んできたと思う。

今楽をする、というのではなく、将来楽をするために今何をすべきか。それを考えてきた気がする。

だから、10代~20代、決して楽ではなかった。

変な話だけど、楽をするために、苦労してきた。

みんなが楽しんで青春を謳歌している時に、誰よりも頑張って勉強をしたし、遅れを取り戻すために必死に頑張った。

でも、それとて、楽をしたいと考えていたからだとも言える。

今、楽をして、後で長期的に苦労するくらいなら、今のうちにいっぱい苦労しておいて、後で楽をしよう、と。

もちろん、苦労を求めていたわけではないので、「それなりに」頑張っただけだ。

 

今、楽をしているか。

きっと外から見たら、結構忙しいんだと思う。朝から真夜中まで仕事をしているし、仕事の内容も結構多岐にわたる。どれが本業なのかもよくわからないし、どれも簡単な仕事ではない。

でも、自分的には、結構楽をさせてもらっているようにも思う。それに、ますます、「どうやって楽をするか」ということに頭を使うようになってきている。

ドライに言えば、「いかに楽をして、目標を達成するか」ということに腐心している、という。

そんなのはダメだ、という人もいるかもしれない。

でも、日本人を見ていると、楽をすることがあたかもいけないことのように思っているように見える。

みんな、適当に生きられない。みんな、真面目に、生き過ぎている、、、

僕はテキトーな人間だから、日本にいると、なんか申し訳ない気持ちになる。

けど、世界の人たちはもっとテキトーに生きているようにも思う。

そして、いかに楽をするかということに、誠実になっている(?!)気がする。

 

所詮、僕らは、なんでか分からずに産まれてきて、そして、いずれは、どういうかたちであれ、死んでいく。

それだけでしかない。

今から120年後、きっと、今この世にいるほぼ全ての人がいなくなっている。

もちろん、120年前に存在した人は、もうほぼ誰も存在していない。

「文化伝承」をしているので、文化としては残っているけれど、人間存在としてはもう誰も存在していない。

僕らは、文化的にしか僕らの生きた証を示すことはできない。肉体的には、全員、朽ち果てる。

ならば、死ぬまで、生きればいいだけのこと。

死ぬまでの時間は、誰にも分からない。

きっと、すべての人の死が、予期せぬ仕方で訪れてくるんだろう、と思う。

とすれば、いつ死ぬか分からない中で生きているってことになるし、そうであるならば、死ぬまで、できるだけ楽に、楽しく生きた方がいい。

でも、生きる以上、食べていくための仕事をしなければならない。

仕事はそれ自体が目的ではなくて、生きるという目的のための手段でしかない。

 

生きる意味や目的なんてものは実はなくて、生きるということそれ自体が意味であり、目的なんだと考えたら?!

生きるということに執着すればいい。そして、同じ生きるなら、楽な方がいい(苦笑)。

気楽に、という言葉もある。

「楽に生きる方法」を僕らみんなで、共有し合えたら、今より少しだけマシな生き方ができるような気がするな、と。

 

つまり、

楽に生きることにとことん執着しよーぜ!

ってことで。

 

コメント一覧

kei
1さん

コメントありがとうございます。

中野さんも色々と本を出されていますね。(売れそうな本も多数ありますね!)

それでも、頑張っちゃう自分がいて、「矛盾」も感じているんですけどね。

ただ、楽をして生きる、というのは、決して悪いことではないだろう、と、今でも思っています。

でも、それを「容認」できるためのロジックもまだない、とも思いまして、、、

難しい問題です。。。
1
1
中野信子さんの努力不要論にも通じるところがあり共感がもてました。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「哲学と思想と人間学」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事