現在、僕は、いわゆる「ゆとり教育」を受けて育った学生を相手にしています。
経験的には、ゆとり教育以前の学生とさほど違いはないように思います。数年前に、「ゆとり教育は学力低下を引き起こす」なんていう批判がありましたが、それは、批判する人が、いわゆる教育を過信し過ぎていたからではないか、と思っています。
表面的な教育のアプローチを変えたところで、子どもはそんなに変わることはないんです。学校教育のシステムの変更で、子どもの学力が大幅に変わると信じているとしたら、それは、あまりにも狭い視点でしか、物事を捉えていない、ということです。
管理教育だろうと、系統学習だろうと、ゆとり教育だろうと、グローバル教育だろうと、そんなに大きな違いはなくて、日々のインタラクティブな学校での生活そのものの方が、子どもたちの育ちや学びに大きな影響を与えているんです。
言わずもがな、ですが。
さて。
先日、職場で僕が尊敬するM先生と話をしていて、面白い話を聴きました。
「今の学生たちは、昔と違って、みんなで一緒に何かをすることができなくなっている。チームワークを大事にしない。付き合う友達も、2,3人程度の小さなグループになっている。自分とは違う人間をその中に入れなくなっている。だから、グループで何かをやらせても、うまくいかない。みんな、内向きになっていて、外の世界に飛び出ない。すぐに出る言葉は、「めんどうくさい」。昔の学生は、「みんなひとつに」というスローガンを掲げて、一致団結できた。それは学力が高い学生でも、低い学生でもそうだった。けれど、今の学生は、みんながバラバラになっちゃっていて、とてもひとつになれない」
ほー。。。
このM先生の言葉は、僕的に、目からうろこでした。
たしかに、そうだ、とも思いました。
グループが小規模化されていて、みんなひとつになれない。だから、何をやっても、盛り上がらない。ゆとり世代は、オタク世代でもありますから、そうなんでしょうけど、趣味や嗜好が多様化していて、自分の趣味や嗜好でないものには、全く興味を示せない。
先日、学園祭があったんですが、軽音部の部長がつぶやいていました。
「ライブをやっても、人が全然見に来てくれない。誰も聴きに来てくれない…」
昔は、ライブをやってみんなでひとつになって盛り上がる、ということは当たり前に行われていました。が、今は、学園祭の無料ライブであっても、しかも、同じ学生がやっても、人が見に来てくれない。これもまた、趣味の細分化、グループの細分化と深く関わっていそうです。
内向きBOYS&GIRLS。
そんな言葉が思い浮かびました。
僕も、日に日に、学生たちの内向きさに気づかされています。
まず、どんな講義をやっても、ゼミをやっても、僕に質問しにくる学生がいないんです。相談やおしゃべりをしには来ますが、「議論されたこと」について、質問しに来たり、対話を求めたりする学生が、もう限りなくゼロになっています。
昔も、そんなに多くはなかったですが、ゼロではなかったように思います。でも、今はゼロです。
人に興味がないのかな、と思います。人=他人。他人に関心をもてない人たちだらけなのかな、と。しかも、僕は一応、「教員」という立場です。先生です。先生が話す事柄について、疑問に思ったり、異議をぶつけたり、対話を挑んだり、そういうことが全くといっていいほどに、できなくなっているように思います。(しかも、一応、教育や福祉の実践者を養成する場所でさえ、そうなんですからね、、、)
これは、愚痴というよりは、驚きというか、発見というか。。。
僕なんかは、昔から「先生」が大好きで、色々と質問をするのが好きでした。知らない話が聴けることが楽しくて、質問がなくても、無理やり作って、話に行ってました。そこには、もちろん、「僕を認めてほしい」という承認欲求もあったと思います。先生よりいい意見を言って、褒めてもらいたい、という邪心もあったと思います。
今の学生たちは、認めてもらう努力をしないままで、認めてもらおうとしています。今も、学生を褒めれば、嬉しそうな顔をします。褒められることは望んでいるんです。けれど、褒められる努力や行動をしないんです。
少しフォローすれば、今の学生は、言われたことはしっかりやるんです。真面目です。素直です。けれど、一歩、外に足を踏み出せない。内へ内へと篭ろうとする。それは、ブログやmixiが廃れ、LINEにみんなが集まったかのように。
皮肉です。ゆとり教育、あるいは、新学力観では、「自ら考え、自ら学び、自ら動く人間」を育てようとしていたんですから。
けど、本質的には、人間は、「そうでないところのもの」を目指す存在です。(サルトル風に言うと)
ゆとり教育こそが、もしかしたら、自ら考えず、自ら学ばず、自ら動かない人間を作ってしまったのかも?!、とも。
それでも、僕は、地道に、「自ら動く人間」を育てていこうと思います。
どう動いてもいい。とにかく動いて、自分の足で歩いて、自分の頭で考えて、何が正しいのかを自分で見つけられる人間を育てたいなぁ、と。
そして、そういう自分の考えを表に出しても、それが受け入れられる社会を大切にしていきたいなぁ、と。
多分、その部分は、ずっと一貫していると思います。