Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

現代ロック悲観論 -Is Rock Dead?!

 

今、音楽業界が悲鳴を上げている、という声を聞いて久しい。

さらに少し前には、「ゴーストライター事件」があって、大騒ぎだった。

音楽業界は、どのジャンルにおいても「瀕死状態」になっている、といっても過言ではなくなってきた。もちろん、依然として、マーケットとしては巨大ビジネスになっているし、世界的に見ても、日本の音楽マーケットは決して脆弱ではない。3000億円以上のお金が動いている。

しかし、かつての音楽業界と比べれば、かなり厳しい状況になってきていることは疑いえないし、その危機感は皆に共有されていると思う。

http://blogos.com/article/68693/ 

僕は基本的に「ロック」が好きなので、ロックに限定して語っても、かなり厳しい状況が続いている。

今でも、一部では、華やかな世界があって、今も「武道館即日ソールドアウト」というバンドもいなくはないし、実際に売れているバンドもいるし、テレビに登場する若手もいなくもない。音楽を生業にして生活している人もまだまだ多い(そもそも、音楽で食べていけるという状況があるだけ、凄いことなんだけれども…)。

しかし、そのロック活動で、「社会」が動くことはなくなった。

ロックの言葉や音が、社会全体に響くことも今は本当にない。かつては、ロック界での成功は、「オピニオンリーダー」への登竜門であった。バンドマンは、ただ演奏して、客との一体感を創発するだけでなく、若者の思想形成に大きな影響を与え、また社会に何かを訴えることができた。社会も、彼らの言葉を若者の言葉としてパラフレーズしていた。

今、最も無力さを感じているのは、かつての全盛期を知るバンドマンや音楽関係者たちではないだろうか

かつては、ロックは大きなカウンターカルチャーだった。バンドマンの言葉が、若者たちのみならず、多くの人の心に響き、それに影響された人々からバンドマンは尊敬されていた。「演奏の達人」というよりも、「なんとなく偉大なアーチスト」というイメージが付加されていた。X JAPANのYOSHIKIはまさにその典型だと思う。自分がその当事者だけれど、僕は、YOSHIKIを、ドラマーとかバンドのリーダーとかそういう目線ではなく、一人の凄いアーチストとして見ていた。「この人なら、社会を変えるんじゃないのか?」という素朴な期待もあった。

あの当時、そういうバンドマンに魅了されていた人たち(僕ら)は、「音楽そのもののクオリティー」に感動していただけではなかった。バンドマンの言葉や思想、生き方や生き様から、多くのことを学ぼうとしていた。バンドマンは、若者たちの「手本」になっていたし、「目標」、「指標」となり得た。そういう時代がたしかにあった。YOSHIKIに憧れ、YOSHIKIみたいな「人間」になりたい、とみんなが思った。僕はZI:KILL時代のTUSKに、自分のモデルを見出した。TUSKのファッション、見た目、雰囲気だけでなく、彼の思想、哲学、考え方、視点なども全部自分の中に取り込んだ。「言葉へのこだわり」、「言葉への信頼」もまた、彼から受け継いだものだった。このように、バンドマンは、若者の生き方に作用し、若者の生き方の基盤を作る役割をもっていた。

今も、そういう役割が全くないわけではない。神聖かまってちゃんやSEKAI NO OWARIなんかは、若者たちの代弁者として大成功を収めているように思う。歌詞を読むと、とても若者らしい、叫びとなっている。特に内面的な描写がうまく、きっと今の若者たちが彼らの音楽に酔い、興奮し、熱狂しているのだろう。

けれど、その力は、全体的に見ればやはり相対化され、ネット社会ゆえにカリスマ性がはがされ、どんなバンドマンもツイッターで「つぶやいて」いる。かつてのバンドマンは、沈黙していたからこそ、謎があり、ミステリアスであり、人の関心を向けさせることができた。その存在が遠かった。遠いゆえに、追いかけたくなるし、近づきたくなるし、また誰もが、近づけないことを知っていたし、それを楽しんでいた。D'ERLANGERのサイファがまさにそういう存在だった。Twitterでつぶやくサイファなんて、今でも誰も想像できない(苦笑)。

今のバンドマンには、そういう「遠さ」、「近づきがたさ」がない。

どんなバンドマンも、日々Twitterでつぶやいている。そして、それをファンも楽しんでいる。その存在は、とても近いように錯覚する。近いゆえに、追う必要もないし、さらに近づこうと努力することもない。待っていれば、バンドマンの声が、画面上で「表示」されるようになっている。

バンドマンの「言葉」は、鮮烈な「爆音」と共に、その効力を発揮する。彼らの言葉は、音楽と共に、オーディエンスの心に突き刺さる。逆に言えば、音がないところでは、彼らの言葉は響かない。昨今のSNSの波及は、バンドマンから音を奪い、ありのままの人間の姿を露呈させた。そうすると、カリスマ的であったバンドマンは、「普通の人」になってしまう。普通の人の音楽、それが今の時代のバンドマンの音楽なんだと思う。だから、彼らを自分の人生のモデルや指標にする必要はなくなった。せいぜいのところ、「技術があって、それを自分のものにしたい」というプレイヤー的な憧れでしかないだろう。

かつてのロックは、人間性と共にあった。ロックは生き方であり、常に人間性がちらついていた。しかし、今のロックは、人間性(精神)がはぎとられ、ただの「ミュージシャン」になってしまった。あるいは、「プレイヤー」に成り下がってしまった。「巧けりゃいいだろう」、という安易な考えが、音楽業界全体を包み込んでいる。(というよりは、「巧い」ということ以上の価値が、どのバンドにも付加されなくなった、というべきか)

一部の、高い精神性を求めるバンドマンにとっては、今のこの現状は、きっと大きなジレンマとなっているに違いない。音楽で精神性を追求したいという欲求がありながら、現実にはその精神性は求められていない。高尚であろうと思えば思うほどに、それが今の時代にそぐわない現実に直面してしまう。「世の中に毒を吐きたい」と思っても、その毒を受け止める土壌がない。Twitter等のSNSでそれをやれば、途端に炎上してしまう。そのリスクは極めて大きい。

知性が求められない今のシーン。その代わりに、高度な技術が求められる今のシーン。

3月に学生からこんな話を聞いた。

「3月は卒業ライブのシーズン。昔は、この時期にライブハウスを押さえるのはとても難しかった。たくさんの若者が、卒業をライブハウスで祝おうとしていた。けれど、今は3月のこのシーズンでも、ライブハウスが空いているんです。その理由をライブハウスの人に聴きました。今の若者が好むバンドの演奏が難しすぎて、普通の高校生には無理なレベルなんですって。高校生たちが憧れるバンドの演奏レベルが高すぎて、コピーができない。それで、バンドを諦める人も多いんですって!」

この話を聞いて、僕は驚いた。

しかし、それはそれですごくよく分かる。今の若手現役バンドマンたちは、それこそこのブログでもずっと指摘してきたことだけど、小さい頃からレッスンを受けている。小学生の時からギターやベースやドラムのレッスンを受け続けている。親世代がバンド世代だから、自分の子どもにロックを学ばせたい、と思うのだろう。そうすると、もう高校生の段階で、とんでもないスキルを身につけていることになる。そして、バンド活動を始め、メジャーデビューする頃には当時のベテランバンドをはるかに凌駕するほどの腕前を兼ね備えている状態になる。

音楽の幅も広がった。今の時代、あらゆる音楽を、PC/ネット上で、いくらでも聴くことができる。だから、今のバンドマンの音楽を聴くと、あらゆる音楽が昇華されて、より複雑で、高度で、バリエーションの豊富な楽曲が奏でられている。マキシマム・ザ・ホルモンの楽曲なんかは、もう、とんでもないくらいに複雑で、多様で、しかも高度なことをやっている。

音楽文化として考えれば、これこそが「進化」なのかもしれない。

だけど、それと同時に、失ってしまったものもある。それが、「精神性」だったり、「神秘性」だったり、「オーラ(アウラ)」だったり、「言葉」だったりする。つまりは、「知性」や「感性」といった精神科学的な概念である。これらを今の時代になお保持し続けているのが、DIR EN GREYかもしれない。彼らの演奏スキル自体は、音楽業界でそれほど高く評価されているとは言い難い(十分に巧いけど…)。彼らのファンは、ただただ彼らの音世界に浸り、そこに高い知性を感じ、自分自身の人生と重ねあわせ、身体を震わせている。(とはいえ、彼らももうベテランの領域にいるし、若者たちのオピニオンリーダーではない)

正直、ここまで「ロックの権威」が崩れるとは思ってもみなかった。幼少期、僕は、ロックで世界を変えることができる、と思い、そう信じていた。それに、実際に、ロックの影響力は強く、社会に向けて、大勢の人に向けて、自分たちのメッセージを発信することができたし、それを受け止めてくれる人も多かった。

…ただ、このことは、音楽業界、音楽シーンが衰退したということだけでなくて、自分たちが歳をとってしまった、ということにもよるのかもしれない。どこでも言われているけれど、大人になれば、ロックは自分たちの生活から消えていく。自分たちの生活を維持するために、働かなければならないし、ライブに行く暇があったら、積もり積もった仕事を片づけなければならない。家庭をもてば、バンドだ、ライブだなんて言えなくなる。「バンギャ」と呼ばれる少女たちも、結婚し、出産すれば、「お母さん」となり、一人の人間の命を全力で守らなければならない。家政も任される。ふとした時に、かつて大好きだったバンドのCDを取り出して、思い出に浸ることはあっても、新たなバンドに開眼されることはほとんどない

今後、再び、ロックの精神が世の中に響くことはあるのだろうか。

悲観的に考えると、もうロックがこの日本という国で、一つの大きなムーブメントになることはないかもしれない。「趣味」、「娯楽」の「一つ」でしかないものになっていくのかもしれない。それはそれで仕方ないことなのかな、とも。

そして、今の時代、もう若者たちは、「代弁者」など求めていないのかもしれない。自分たちでネット上ですぐに発信することができるから。

もしロックが単なる娯楽になり、演奏技術(スキル・テクニック)の競い合いで優劣がつき、「優等生」の文芸活動に成り下がった(?)ならば、その時こそ、ロックが本当の意味で「死んだ」ということなのだろう。

IS ROCK DEAD?! 

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