「僕」という存在はいったい何なのか。
「私」と呼んでいるところのその存在はいったい何なのか。
その「僕」「私」と呼んでいるその存在は、当の本人にとっては、それをやめることができない存在だ。
「僕」という存在は、僕でしかなく、他人と交換することができない。
その「僕」が今、ここに存在している。
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この「僕」という人間には、名前が付いている。
問題なのは、その「名前」ではない。
名前が付けられている当のその本人(つまり自分)の存在が問題なのだ。
この「僕」と呼んでいるところのその存在はいったい何なのか?
この問いを分かってくれる人はいるだろうか?
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他人の存在については、よく分からない。その人になることはできないので、想像でしかその存在に触れることができない。
自分しか、自分を身体的に動かすことはできないし、自分という入れ物から外に出ることもできない。
自分の身体は、いわば「入れ物」であって、その入れ物を動かしている当のその存在はいったい何なのか?
脳科学者たちは、「脳だ」と言う。脳がその「私」や「あなた」を構成している、と言う。でも、その「脳だ」と言っているところのそのあなたの存在は何なのか?、と問いたいのである。
人間の身体のどの部分が、「私」という存在を規定しているかどうかは問題ではない。私というこの存在をどう脳が「認知」しているかどうかも問題ではない。
脳が動かしているというのは「説明」であって、その存在の「理解」ではない。
この世界の只中で、今、世界の中心にいるところの「自分自身」そのものは、いったい何なのか。
この問いを、人に伝えるのはとても難しい。
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僕の中では、僕が世界の中心にあり、常に自分の行動や思考の主体となっている。いつでも、この「僕」は、この世界のすべてを構成する「おおもと」で、他の人間(「他者」)は、言い方は悪いけど、自分の世界に登場する「脇役」である。あるいは、自分の世界の「登場人物」であり、その中心にはいない。
同様に、きっと別の人からすれば、僕が「脇役」であり「風景」であり、その人の世界の「登場人物」となっているのだろう。その人には、その人の世界があり、その世界の中心を生き、まぎれもないその当の人間であって、それ以外の何物でもない存在なのだろう(推測でしかないが…)。
でも、その他者と僕との関係は、常に「非対称」である。僕の世界では、僕が完全なる主人であり、主体であり、常に目覚めた存在として、この生を生きている当の主人公である。
この「僕」とは、いったいどこからやってきて、どこに向かっていくのだろう?
僕という存在の入れ物(存在者)であるこの肉体が滅びる時、この僕という存在はどこに向かうのだろう?
僕は宗教家でないので、「生まれ変わり」も信じないし、「黄泉の世界」があるとも思わないし、「天国」も「地獄」もないと思っている。終われば終わるのだろう。
けれど、それでも、ふと思う。この今のこの「僕」の存在は、どうなってしまうのだろうか?、と。
この目覚めた生は、一度きりなのだろうか? 死んだ後に、またどこかの誰かとして、また「存在」するのだろうか。別の生命体として、存在するのだろうか? しないのだろうか。
もし二度と存在しないとしたら、この「僕」は、いったいどうなるのだろうか?(なんか、死への恐怖に近いものがある気がする…)
アジアの思想では、「輪廻転生」という考え方があり、「業」という概念があり、前世や来世を想定する。そういうのがあればいいなって思うけど、これも「想像」の域を出るものではない。それに、それを信じるほど、僕は純粋でもない。
最も問題となるのは、この「僕」という存在はいったい何なのか(現実的な存在者であるというその事実はいったい何なのか)、ということに尽きる。もちろん、それは単に「自己同一性(Identity)」(属性)を問うという存在的な問いではない。
そうではなく、自分が自分であるというその感覚、この世のあらゆるものに触れ、感じ、喜び、泣く等の「自分自身」が今ここにいるという感覚を得ている当の存在とはいったい何なのか? この「僕」「私」という存在は、どこからどうやってきて、この存在はこれからどうなっていくのだろうか。肉体の死後、いつかまたこの「僕」は、どこかで、また「僕」として存在するのだろうか。それとも、もう二度と存在することはないのだろうか。
この「僕」という存在への問いは、ハイデッガーの『存在と時間』やその他の存在論を読んでも、まだまだよく分からない。ハイデッガーが問うた「存在者の存在の意味」が、僕の存在への問いと同じかどうかも、やっぱりよく分からない。
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きっと、「僕」が今日死んでも、この「世界」は何も変わることなく、明日を迎え、今日と変わらない世界が続くのだろう。
でも、そこに「僕」という(ちっぽけな)存在はいない(かどうかも分からない)。
恐らく、数人の人は泣いてくれるだろうが、そこにもう僕という存在はいない(かどうかも分からない)。
「僕」という人間が肉体的に死んだ後、その僕の「存在」は、またどこかで誰か(何か)になって、また存在するのだろうか。今のこの「僕」の「記憶」はなくとも、また、僕の「存在」は、どこかで誰かになって(誰かの肉体を借りて)存在することになるのだろうか。
他の人間の存在については分からない(問えない)。というのも、他の人間(他者)が僕と同じような存在であり、僕と同じように存在しているかどうかも、きっと永遠に分からないだろうから…。
この問いは、僕が小学生の頃からず~っとぐるぐると堂々巡りをしている問いだ。
きっと、僕の肉体の死を迎えるその時まで、この問いはぐるぐると頭の中をまわっているのだろう。
僕という人間の存在は、いったいどんな存在で、どこから来て、どこへと向かうのだろう?
こんなことが問える僕は、きっと平和なのだろう。
平和な状態じゃなければ、こんな「のんきなこと」を考える余裕もないだろうから。
(存在を問う)僕に、「平和なヤツだな」と思う人もいるかもしれない。
けれど、もし日本がまた戦争をしでかし、自分の生死が問題となる時、きっと、多くの人がこの「存在への問い」を抱くのではないだろうか、とも思う。(ひょっとしたら、そんなことを考える間もなく、死んでいくのかもしれないが…)
あるいは、自分が「不治の病」を宣告された時、やはりこの存在への問いが大問題になるかもしれない。「ガンです。余命1年です」と告げられた時、やはりこの「存在への問い」と向き合わざるを得ないのではないか。
他の誰でもない自分が「死」に直面した時、その自分はいったい何をどう考えるのか。
普段から、たま~にでも、こういうことを考えてみるのも悪くないかもしれない。
…
本ブログは主にラーメンのブログだけど、たま~にこういうわけのわからない記事が登場するのが、一つの売りであります\(^o^)/ (そんなブログだから、gooブログ事務局からもカテゴライズされないんだろうな…😢)
僕も書いていて、よく分からなくなりました、、、とさ。
<私的存在論②につづく>(かも)
この本は面白かったです。
これ、キンドルだと無料で読めるはずです…!