マジックマガジン
(マジックマガジン社発行)
約40年前、1975~1976年(昭和50~51年)に出回った、青年向け月刊誌。
創刊は1975年8月。当初は隔月誌だったが、第3号から月刊化となり、
その後、1976年6月の第9号まで発刊。以降は休刊となっているから、
かなりの短命に終わった「マイナー雑誌」といえよう。
「マジック」とはいっても、別に、手品ファン向けの専門誌…という訳ではない。
クロスワードなどのパズルゲームやクイズなど、「紙媒体」のゲームや遊びを
メインに掲載。それらに加えて、漫画や劇画、コラムなども、あれこれと載っており、
若者向けに作られた、いわゆる娯楽雑誌の類である。
ただ、普通の雑誌とはちょっと違っていて、この雑誌の毎号の「付属品」として、
「マジック・ペン」という名の、一本の怪しげな「サインペン」が添付されていた。
その使い方はといえば、パズルやクイズの「空欄部分」をマジック・ペンでなぞると、
特殊印刷による「見えないインク」で書かれた箇所に、文字やマークが浮き上がり、
読者はゲームをさらに楽しめる…といった趣向である。いわば、「隠し絵」的な手法。
また、漫画の「ふき出し」の一部が空欄だと、そこをマジック・ペンでなぞって、
何らかのセリフが浮き出る…といった仕掛けもある。
つまり、雑誌タイトルの「マジック」というのは、決して「手品」の意ではなく、
「マジック・ペン」を使って楽しむ雑誌…という意味で使われている。
立ち読みではなく、実際に雑誌を買った人のみ、最後まで楽しめる内容となっているのだ。
ところで、当ブログが、40年も昔に創刊されて、たった1年ほどで廃刊となった
マイナー雑誌を、わざわざ皆さんに紹介するのには、それなりの訳がある。
実は、この「マジックマガジン」誌、かの「田山幸憲」プロと、深い関わりがあるのだ。
今さら説明するまでも無く、田山さんは「東大中退」の経歴を持つ異色のパチプロで、
さらに「文筆家」としても広く名を知られた、今や伝説的な存在である。
私もそうであるように、氏の名著「パチプロ日記」に感化された人間は、非常に多い。
一軒のパチ屋をネグラにする、「ジグマ」生活に裏打ちされた「9割」必勝法。それが、
「タテの比較」と「パターン認識」。この二本柱をベースにしたのが、「田山理論」である。
池袋、溝の口、桜新町、青葉台、用賀…舞台は様々に変遷したものの、その店々で
田山さんが発信した、ジグマとしての「生の立ち回り」は、読んでいて臨場感タップリ。
変に飾り立てる事もなく、簡潔で人間味溢れた文体が、多くのファンを虜にした。
また、著者である田山さん自身の、朴訥で実直な人間性を、心から慕う人も多かった。
だが、2001年7月4日(ナナシーの日)、舌癌との闘病中、心不全で逝去。享年54歳。
ところで、件の「マジックマガジン」誌が世に出た「1975年」といえば、私はまだ4歳。
もちろん、パチンコの「遊技」とは無縁で、日々、幼稚園で「お遊戯」をしていた頃だ。
したがって、このテの娯楽雑誌の存在など、全くもって知る由もない。
そんな私が同誌を知った契機は、他ならぬ田山さんにまつわる、一冊の「書籍」だった。
それは、白夜書房から1997年に出た、「田山幸憲パチプロ日記Before」という劇画。
(同社の「漫画パチンカー」連載の同タイトル作品を、単行本化したもの。全3巻)
(C)田山幸憲、橋野健志郎、伊賀和洋、白夜書房
東大在学時から退学までのパチンコとの付き合いや、様々な人間関係、さらにその後の
「パチプロデビュー」といった、若き田山さんの「泥臭い青春期」を描いた秀作である。
ネグラのS店(池袋・山楽)で出会ったプロ達(不敗のノッポ、あと番のキザ助etc)に
まつわるエピソードも、実にリアルで面白い。原作者、田山さんの波乱万丈な生き様を、
橋野氏の優れた脚本と、伊賀氏の迫力ある劇画でまとめ上げている。
この劇画の第2巻の巻末において、原作の田山さん自身が、「雑感」の題で
特別寄稿をしており、その中で、件の「マジックマガジン」にも言及している。
それによると、田山さんが「文筆家」としてデビューしたのは、昭和40年代後半で、
28歳くらいの時。スポーツ紙で「食べどころ・飲みどころ」の連載を書いていた知人が、
その「アト釜」を田山さんに依頼。当時、プロ生活に行き詰まりを感じていた田山さんは、
「渡りに船」と承諾したものの、やがて担当者から、「パチプロなら、パチンコの事を
書いて欲しい」と頼まれて、「儲けのテクニック」というパチンコ記事の新連載を開始。
その連載の終了から少しして、「マジックマガジン」誌の編集者が田山さんのもとを
訪れて、同誌への連載を依頼。この連載記事は1年ほど続いたものの、やがて、
編集者は独立し、自ら編集プロダクションを設立。その際、パチンコ単行本の執筆を
田山さんに依頼したことで、名著「パチプロ告白記」の執筆、出版に至った…。
とまぁ、こんな感じである。
この辺のエピソードは、劇画「パチプロ日記」(小池書院、全4巻)の第2巻にも出ている。
ただ、劇画では「儲けのテクニック」を見た「友成」という編集者が、いきなり田山さんに
単行本の執筆を依頼…という形になっている。しかし、実際には、その「友成」氏が
独立前、編集部にいた頃の「マジックマガジン」誌で、田山さんが連載を1年続けていて、
それが、単行本出版の「布石」となっていたのだ。
実際、マジックマガジンに掲載された記事は、再構成や加筆・修正がなされたものの、
その大半が、単行本「パチプロ告白記」に収録されている。いわば、数編の連載記事が、
単行本全体の「ベース」になっている感じだ。
なお、上記は、1974年~1977年頃の話。まだ、上皿付き・手打ち台の時代だが、
電動ハンドル台も、徐々に増えてきた辺りである。デジパチやハネモノはまだ無く、
天下穴にセンター役物、両オトシとヘソ、そして両サイドといった、シンプルな構成の
チューリップ台が中心。「プロ」が狙っていた箇所は、ブッコミや天釘の中2本がメイン。
それから、2000年(平成12年)に出た田山さんの著書、「パチプロけもの道」(幻冬舎)の
「まえがき」にも、やはり「マジックマガジン」に関する同様のくだりがある。
(C)幻冬舎
コチラは、例の「パチプロ告白記」(1978年)と、その9年後に出版された
「続・パチプロ告白記」(1987年)の二冊(共に三恵書房)を一つにまとめる形で、
再構成及び加筆・修正の上、出版されたもの。
「~告白記」と「続~」は、共にプレミア価値が高く、なかなか手に入らなったので、
それを合体した体裁の「~けもの道」(文庫版)が出た時は、非常に嬉しかった。
(但し、クギに関する解説など、時代にそぐわない部分は、そぎ落とされている)
こんな感じで、田山さん関連の書籍を通じて、「マジックマガジン」誌の存在を知った私。
当然ながら、「マジックマガジンってのは、一体どんな雑誌だろう?田山さんの連載は、
どんな内容だったんだろうか?」と、強く興味が湧いたのだった。
しかし、40年も昔のマイナー誌。「現物」にお目見えする機会など、これまで全く無かった。
だがそんな折、ひょんなことから、雑誌の現物と接する機会に恵まれたのだった。
さっそく、雑誌の「目次」に目を通してみると…
(マジックマガジン第7号、目次より)
あった、あった。40年前の、貴重な田山さんの連載コーナーの「見出し」である。
タイトルは、単行本のタイトル同様、「パチプロ告白記」となっている。
単行本は、この雑誌の連載終了後に出版された訳だから、本のタイトルも、
コチラの連載が元であることが判る。
ただ、タイトルの右横にある著者の欄には、激しい違和感を覚えた。
田山…幸…巻?
「巻」?
「まき」?「けん」?「かん」?
ご存知の通り、田山プロの下の名前は「幸憲」(ゆきのり)なので、
ここに出てくる「幸巻」というのは、どうもシックリこない。
これは、単なる「誤植」だろうか…。
確かに、幸憲の「憲」の字は、「けん」とも読める。
一方の「巻」も、「席巻」(せっけん)、「巻雲」(けんうん)など、「けん」と読ませることがある。
だから、写植の段階で、「憲」と「巻」を取り違えてしまった可能性も、
あながち無い訳ではない。
そう思いつつも、何となくソワソワした気持ちで、肝心の
「本文」が書かれたページを確認したところ…
(マジックマガジン第7号より)
うーん、やっぱり、コチラも「幸巻」になっている。
(著者、作者でなく、「告白する人」というのが面白い)
目次だけなら、単なる誤植もあろうが、本文もこうだと、そう思えなくなってくる。
そこで念の為、マジックマガジン誌の「全号」について、記事内容をチェックした。
(第3号)1975.11 (第4号)1975.12
(第5号)1976.新春 (第6号)1976.3
(第7号)1976.4
(第8号)1976.5 (第9号)1976.6
★1975~1976年当時、「マジックマガジン」誌で連載した
「パチプロ告白記」のタイトル(全7回)
その1(第3号)…無題(パチプロとしての心得、クギの見方などを解説)
その2(第4号)…「平均四千個出す「不敗のノッポ」」
その3(第5号)…「木枯らし寒し、パチプロ稼業」(同業者の「マサ」が病死した事など)
その4(第6号)…「腕を上げれば、必ずもうかるパチプロ稼業」(オトシ部分のクギ解説など)
その5(第7号)…「祭事に無縁のプロパチ稼業」(プロ同士の「忘年会」がお流れになった話)
その6(第8号)…「クギの分らないプロ、あと番のキザ助」
その7(第9号)…「ある日、1通の結婚式への招待状が届いた。」
(店で顔なじみの椎橋クンが結婚した話。いわゆる「ゴキ釘」の解説も。)
(第10号以降は休刊)
すると、どうだろう。
創刊号と第2号では、まだ田山さんの記事は載っていなかったが、
連載が開始された第3号から、休刊直前の第9号までの「全7回」、
すべてが「田山幸巻」名義になっているではないか。
これで、誤植の線は完全に消えた。
そして、これらの事実をもって、私は「確信」した。
1975~1976年、「マジックマガジン」誌で「パチプロ告白記」の連載を持っていた
田山さんは、自身の本名ではなく「ペンネーム」を使っていたのだと…。
実際、それを示唆するような既述が、記事中にあったので、引用して紹介。
「キミが、人様の前で 堂々と己の本名を名乗れるのは、すばらしいことだ。それは、
とりもなおさず、レッキとした 表街道を歩んでいるが為だろう。もちろん、このオレ様に
したって、幸いにも今日まで、これと言った悪事を働いていないおかげで、約それに
等しいふるまいができる。ところが、パチプロと呼ばれる人種の大多数は、あれや
これやの事情によって、我が身の詳細はもとより、その名さえ人に明かしたがらない
ものなのである。」
(マジックマガジン第7号、田山幸巻「パチプロ告白記」より)
これは、田山さんが池袋S店で出会った、「天国さん」というプロのエピソードを語る際、
サワリで書いた導入部である。この後、天国さんと仲の良かった田山さんが、ある時、
調子に乗って彼の「本名」をしつこく詮索したら、こっ酷く叱りつけられた…と続く。
これら一連の文で、私がピンと来たのは、「このオレ様にしたって(中略)、
約それに等しいふるまいができる」という部分。
「約それに等しい」の「約」という一文字に、田山さんの心情を、
何となくだが読み取れる。
つまり、「(自分の)本名を名乗る」というテーマがある中、他ならぬ田山さん自身が、
本名とはちょっと違うペンネームを使っていた為、「それに等しいふるまい」とは言えず、
「約それに等しい」という微妙な言葉を、選ばざるを得なかったのではないか。
別に、読者の大半は、田山さんの本名も知らないだろうし、気にもしていない筈だから、
そんな言葉の気づかいなど、不要だったかもしれない。だが、根が正直な田山さんは、
小さな嘘や誤魔化しも嫌で、「約」というキーワードを、わざわざ入れた気がするのだ。
まぁ、それはともかく、70年代半ば、マジックマガジン誌での連載があった当時、
田山さんの名義は「田山幸憲」ではなく、「田山幸巻」というペンネームだった事が、
今さらながら判明した。「田山史」における、一大発見かもしれない。
それでは、なぜ、「憲」の代わりに、「巻」という字を採用したのだろうか。
そもそも、なぜ田山さんは連載当時、こうしたペンネームを使ったのだろう。
やはり、「パチプロの告白」という、世間的には卑下たようなテーマを、
他人に見られたくない、田山さんなりの「負い目」があったのか。
…と、幾ら私が考えた所で、真相は、本人である田山さん以外、判らないだろう。
過去の著作を振り返っても、私の知る限り、この「ペンネーム」の存在について
言及した部分は、何処にもなかったと思う。
もしかすると、マジックマガジン誌への寄稿前、「儲けのテクニック」をスポーツ紙に
連載していた頃から、「田山幸巻」のペンネームを使っていた可能性もある。
今後、そのスポーツ紙の「現物」と接する機会があれば、ぜひ確認してみたい。
因みに、「幸巻」をどう読むかについては、正直、私もよく判らない。
「ゆきまき」「こうけん」「こうかん」など、色々と候補はあろうが、やはり真相は、
田山さん本人以外、知る由もないだろう。その田山さんも、鬼籍に入って久しい。
或いは、本名である「幸憲」は、音読みで「こうけん」となるから、
「幸巻」を「こうけん」と読ませたのかもしれないが…何の確証もない。
この点について、生前、田山さんと近しかった人達(スエイ編集長、モデルオノ氏、
安田プロなど)なら、何か情報をお持ちかも知れない。今後、さらなる情報が
出てくる事を期待したい。
では、今回はこの辺で。
※※過日、「平成28年熊本地震・災害義援金」を、日本赤十字社の口座宛に送りました。
微力ではありますが、今の自分に出来る事を、精一杯やっていきたいと思います。