(C)ごま書房
皆さんは、城南電機の宮路社長(故・宮路年雄さん)を覚えているだろうか。
「日本一の安売り王」として、かつて名を馳せた名物社長の宮路さん。
がなるような独特のダミ声と関西弁、白髪頭でいつも笑顔、ネクタイにスーツ姿、片手にはヴィトンの大きなアタッシュケース。体は小柄だったが、その存在感は大きかった。
本業は、都内で家電販売チェーン「城南電機」を手がけるヤリ手の経営者だが、「パチンコ オレ流の勝ち方」(ごま書房、1993年11月)というパチンコ本を出版する程のパチンコフリークとしても知られた(月に50万稼ぐと豪語。その腕前やヒキの強さはTV等で証明済み)。テレビや雑誌などメディアにも盛んに顔を出し、まさに90年代「時の人」として話題を振りまいた。
「オレ流~」を読んだ方ならご存じだろうが、あの本は、いわゆる専門誌的なパチンコ必勝法ではなく、自身の商売手法をパチンコにそのまま置き換えて、いわば「パチンコ心得」とでもいうべき内容が、ズラッと書かれている(「勝つ日もあり、負ける日もあるのが、パチンコと金儲けの道理と心得よ」など)。
どちらかというと、「メンタル」に重きを置いた本だが、さすが経営者というか、ホール側の視点でパチンコを捉える記載も多い。非常に「道理」にかなったというか、筋の通った文章が並ぶ。いま読み返しても、自己啓発の良いきっかけになるだろう。まぁ、中には若干「?」な部分もあるが(「食い物屋が目の前にあるパチンコ屋を選べ」とか…ただ、これとて「食事をすぐ取れる環境で打つことで、集中力を途切れさせない」という、宮路社長独自の必勝理論なのだが…)。
★宮路年雄(みやじ としお)…1928年(昭和3年)和歌山県出身。和歌山県立工業学校卒。国鉄職員などを経て、1961年に家電卸専門の信光電機を創業。1968年に、同社の小売部門である「城南電機・1号店」を東京・世田谷区祖師谷に開店。最盛期には、祖師谷、渋谷、新宿、自由が丘、三鷹、西永福と、都内で6店舗を展開。値引きの利く現金取引を強みに、これぞと思った商品を一気大量に買い叩く手法で、年商百数十億円を叩き出した。コメ不足時に米を安売りするなど、家電以外でも何かと話題になった。数千万円入りのアタッシュケース(ヴィトン製)を常に持ち歩く事でも知られ、「歩く現金輸送車」とも呼ばれた。ただ、それが災いして、強盗や置引きの被害にあう事も多数。愛車は高級外車のロールスロイス。1998年病没(享年69歳)。氏の没後、ほどなくして城南電機も全店舗が閉鎖。宮路社長あってこその城南電機だったことが分かる。
「城南電機」と聞くと、私なんぞは、都内各店舗の近くにあったパチンコ店とセットで記憶が蘇る。
渋谷店は宮益坂の通りの角地にあったが、近くに「たんぽぽ」や「ジャンボ」といったパチ屋があった。新宿店は西口ヨドバシカメラがあるエリア(新宿郵便局近く)にあって(跡地は現在「三田製麺所・新宿西口店」)、近くのスロ屋「NASA」や「マーブル」、それにパチ屋の「アラジン」を思い出す。また、小田急・祖師ヶ谷大蔵駅北口の城南電機1号店そばでは、当時「ヨコハマ」というパチ屋が営業しており、ここは宮路社長も足繁く通う馴染みの店であった(南口には、「東朋会館」というホールもあった)。上述した渋谷店近くのパチ屋にも、宮路社長はたびたび足を運んでいたという。
(C)ごま書房
(この表紙は、小田急・祖師ヶ谷大蔵駅北口「ヨコハマ」店内で撮影されたもの。左上にチラッと見える「無制限」の頭上札も懐かしい。ちなみに社長が打っている台は、大一の連チャン確変機「エスケープ2」である。「二万円負けたら、その日はあきらめよ」…そう思っていても、なかなか実践は難しい。)
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JR渋谷駅・宮益坂の通り沿いにあった「城南電機・渋谷店」跡地(右角の建物)。跡地は現在、音楽専門学校「東京スクールオブミュージック(TSM)渋谷」になっている。因みに、この学校の副校長は、私が80~90年代にハマったガールズバンド「プリンセス・プリンセス」(つい最近再結成で話題になった)のベーシスト・渡辺敦子さん。宮路社長とプリプリには、意外な接点があった(笑)。
・在りし日の城南電機・渋谷店(1993年)
宮路社長というと、私は本業である家電販売店よりも、’90年代(特に1993年~1996年)に各局が放映したパチンコ番組に幾度も登場する「名物ゲスト」というイメージが強い。宮路さんが出てくると、そのコーナーが明るく華やぐような感じもした。いわば、「パチンコ・お爺ちゃんアイドル」といったところだ。
その中でも、社長がもっとも存在感を示した番組が、テレ東系のバラエティ「浅草橋ヤング洋品店」(浅ヤン)であろう。
当時、同番組内では「パチンコ対決企画」をたびたびオンエアしており、その出場者には、必ずと言ってよいほど「宮路社長」の名があった。コーナー進行の浅草キッドが、宮路社長を絶妙に「いじる」のも、見ていて楽しかった。
しかも、社長の凄いところは、出場したほぼ全ての回で、出玉チャンプとなり優勝している事だ。まさに「金のあるところに、金は集まる」という商売の鉄則通り、宮路社長は、確かなパチンコの腕(手打ち時代からのファン)に加えて、類まれな「パチンコ運」も持ち合わせていたと思わずにはいられない。また、社長はテレ朝の情報バラエティ「興味!しんしん丸」のパチンコ対決(1995年)でも、見事に優勝している。
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1993年に行われた「浅ヤン・闇のパチンコワールドカップ」出場時の宮路社長。ロケ地は東京・JR福生駅前の「巨人ホール」(閉店)。コーナー司会は浅草キッド。社長は、京楽の連チャン機「遊ぶんジャー」(3・7で確変)で立て続けに連チャンさせ、並み居る他の強豪を抑えて優勝に輝く。同大会の出場者は他に、神保美佳(パチンコライター)、セブン先生(必勝G誌)、大崎一万発(同)、ベンツ小林(パチプロ)、サトヤン(ベテラン釘師)など(敬称略、後は忘れた…)。左に映る男性も出場者だが、名前は失念。確か、SANKYO「フィーバーガールズI」のキャラクター「オーロラ五人娘」を、「江口寿史先生が描く、僕の女神様です」といって崇めていた、オタクだったと記憶する。
(C)テレビ東京
同じく1993年に行われた、「闇のパチンコワールドカップ2」に出場した時の宮路社長。この時は、王子のパチンコ店「アイランド」(閉店)で西陣の「春夏秋冬」を135連させた、話題の石川さんに挑戦するという対決企画だった。ロケ地は東京・文京区本郷の「ニューときわ」(閉店)。他の出場者は、ベンツ小林、大崎一万発、釘師サトヤンの3名。対戦機種は当然「春夏秋冬」で、深夜のホールを借り切ってのロケとなった。この回の社長もヒキが強く、石川さんとの間でデッドヒートを繰り広げる。最後に社長が競り勝つ展開で、見事に優勝。足元にドル箱を重ね、愛用のアタッシュケースに足を乗せるポーズは、「財宝に囲まれたミイラ」(司会の水道橋博士が第1回パチンコワールドカップ時に命名)と表現された。社長に負けた4名は。罰ゲームとして城南電機の商品を強制的に買わされた。
「浅ヤン」以外でも、宮路社長は当時のメディアに積極的に登場した。ダウンタウンの人気番組「ガキの使い~」などにも出演して、その存在感を示した。北野武氏の映画「みんな~やってるか!」にも出演を果たす。会社の為に自らが「宣伝マン」となって、各所でアピールしまくっていた訳だ。「俺は損する事はやらん」と豪語していた社長、こうしたメディア戦略も全て「計算のうち」だったのだろう。
(自社広告ポスターにモデルとして出演した宮路社長。ガンマン姿で「正義は、安い。」のキャッチフレーズ。文字のみの手書き広告(これも城南電機の名物)とは一味違った「新しさ」を感じる。
ケンミン「焼ビーフン」のCMに出演した宮路社長(1995年1月)。CMはワイドショー風の作りになっており、商品の良さについて城南電機・渋谷店の社長室で「激白」。社長が他社のCMに出るというのも非常に珍しいが、これも宮路社長の懐の深さとユーモアセンスがなせる技だろう。普段ギッシリ万札が詰まっているアタッシュケースを開けると、中には焼きビーフンの袋が一杯入っていた、というオチで(笑)、最後は「バンザーイ!」で強引に締める(笑)。
(C)プランニングオフィスワダ、P.A.S
1995年4月発売のスーパーファミコンソフト「宮路社長のパチンコファン勝利宣言2」。宮路社長は「全面サポート」という形で作品に携わった。ゲーム内では、プレイヤーに必勝法を教えるアドバイザー役として出演。なお、このゲームに出てくる台は、全て実機をモデルにした「架空台」だが、実機で通用した攻略が使えるのがウリだった。
(ゲームに登場するパチンコ台)
「CR花三昧」(←CR花満開)
「CR三冠王」(←CR球界王EX)
「CR画廊」(←CR名画)
「プリティーバニー」(←キューティーバニー)
「猪鹿蝶」(←春一番)
「花乱舞」(←花百景)
「スーパースター」(←アメリカンドリーム)
「エクセレントキング」(←エキサイトジャック)
(権利モノ「プリティーバニー」は、本家キューティーバニーの「最終ラウンドアタッカー9個(以上)入れ」が通用した。)
パチンコ解析ICカード「攻略君」(パチスロVerは「パチスロ君」)の広告に出た宮路社長。「わしもびっくり!!」(笑)。まぁ、この商品自体(機種名や回転数などのデータを入力すると、あと何回転で当るかとか、連チャンするとかハマるとかを教えてくれる)の信ぴょう性は、ハッキリ言って「??」だったが。「城南電機」ではなく「城南電気」とする時点で、そもそも怪しい。まぁ、それはおいといて(笑)、それよりも、社長が当時「お気に入り」と自分で言っていた、「フィーバクイーンII」に座っているところが面白い。しかも新メラ(セル)だし。
当時流行った個性派ミュージシャン、スキャットマン・ジョンと宮路社長のツーショット(1995年12月)。城南電機・渋谷店でプロモーションビデオの撮影が行われた。軽快なスキャットに合わせてノリノリの社長が印象的。スキャットマン・ジョン氏は、残念ながら1999年に逝去。
1997年の深夜パチンコバラエティ「銀玉っ娘クラブ」に出演した際の宮路社長。B級アイドルが水着でパチンコを打って勝負するという、お色気系の「おフザケ番組」だが、社長は「パチンコお助けマン」としてゲスト出演。持ち玉のなくなったギャルに、罰ゲームのクジを引かせて追加玉をプレゼントするチョイ役だったが、若いギャル(←死語)達に囲まれた社長は、まんざらでもなかった様子(笑)。そういえば、パチンコ未体験の女子大生達にパチンコを教える対決企画でも、嬉しそうにはしゃいでたな…。
なお、番組ロケ地は上野「サイバースパーク」と赤坂「エスパス」の二店舗。司会は北野誠と藤田陽子。出場者は中本なおみ、真中希、桜井亜紀、山崎由香、吉田忍(知ってる人いるのか…?)。対戦台は「CRフィーバーピストル大名JX」(SANKYO)と「CR華観月Z」(京楽)。
(こんな感じw)
宮路社長の生き様には色々な評価があると思うが、私自身は、TVのパチンコ番組や雑誌等を通じて、社長には存分に楽しませてもらった一人だ。ロールスロイスでロケ現場に乗り付ける、豪快な社長。アタッシュケースに札束がギッシリなのに、「パチンコは一日二万まで」というお茶目な社長。そのカバンを浅草キッドに隠されて、子供のようにオロオロする社長。TVの前で簡単に大当りさせて、ワッハッハと笑う社長。当然のようにいつも優勝して、笑顔でガッツポーズを決める社長…間違いなく、90年代パチンコシーンを彩ってくれた、「主役」の一人であろう。
既に鬼籍に入って久しいが、あらためて宮路社長のご冥福をお祈りします。