「日活の社史と現勢」(昭和5年11月発行)は信頼のできる資料であるが、その「現代劇監督部」に東坊城恭長の紹介文が掲載されている。
東坊城恭長 (現代劇監督部)京都公家出、家門は子爵、慶大文科に学ぶ。小笠原を経て大正12年末入社、俳優として立ち二枚目を演ず。後脚本部を経て昭和2年監督に昇進し『旅藝人』以下新鮮な映画を続々表す27歳。
文中、「慶大文科に学ぶ」とあるが、「慶大文科出」となっていない。他の人物の学歴の表記では卒業した場合にはほとんどが「出」となっている。これは、恭長が中退したからである。また、「小笠原」とあるのは「小笠原プロダクション」。
「日本映画監督全集」(キネマ旬報社)の岸松雄による「東坊城恭長」には次のようにある。
慶応義塾大学文科卒業後、小笠原プロに入社、『泥棒日記』『海賊船』に出演し、そののち23年12月日活俳優部に入社。『青春の歌』でデビュー。
「慶応義塾大学文科卒業後」とあるが、正しくは「慶応義塾大学予科(文科)中退後」である。また、映画タイトルの『海賊船』は『海賊島』が正しい。
学歴が気になるが、恭長が慶応義塾大学予科の文科(当時、予科には文科と理科があった)に進学したのは1921年(大正10年)4月である。予科というのは今でいう教養課程で、1920年の大学令によって慶應義塾大学部は正式に私立大学となり、文学部、経済学部、法学部、医学部の4学部を設置し、3年制の予科を付設した。恭長がどこの小・中学校を卒業して慶應義塾大学予科に入ったかは不明である。小学6年、中学4年を経て16歳で大学予科に入るので、1904年9月生れの恭長は、1921年に慶應義塾大学予科に入学したことになる。
入江たか子著「映画女優」によると1922年8月父徳長が死んだ時、「恭長は十九才で慶応の予科に行き、文学に進みたがって、本ばかり読んでいた」とある。年齢は数えで表しているので、数えで「十九才」は、満17歳(9月の誕生日に18歳)である。恭長は予科2年生で、あと一年予科にいて文学部へ進学するつもりだったと思われる。
が、父の死後、東坊城家の家計は窮迫し、1923年9月に関東大震災に見舞われ財産を失ったために、恭長は自活の道を考え、慶応義塾大学予科を3年生の半ばで中退した。中退したことは、たか子の「映画女優」にもはっきり書いてある。
恭長の日活入社の時期を、「日活の社史と現勢」では「大正12年末」、岸松雄は「23年12月」としているが、大正12年=1923年なので、両者はほぼ一致する。
それが、入江たか子著「映画女優」によると、「兄恭長の日活入り」と題する章に、次の文がある。
その後恭長は映画ファンで同じ華族仲間だというので小笠原長生子爵の御曹子、小笠原明峰氏主宰の小笠原プロに手つだっていたのがきっかけで日活に入ることになった。
「華胃界の新人 子爵東坊城政長氏の令弟 恭長君が映画俳優に」
読売新聞にこんな意味の三面記事が出た。大正14年(?大正13年が正しい)10月12日のことであった。
そして、その日の夜、10時頃には、恭長はもう東京駅の下り列車の待合室に来ていた。日活撮影所のある京都へ旅立つべく……。そして母と光長と私が見送りに行った。
恭長の日活デビュー作『青春の歌』は大正13年(1924年)12月5日公開であったから、この映画がクランクインしたのは、その年の10月中だったと思われる。恭長の日活京都撮影所入りが大正13年の10月半ばだとすれば、時期がぴったり合うわけだ。
しかし、恭長の日活入社の時期を大正12年12月とすると、京都へ行くまでの約10ヵ月間、何をしていたのかが分らない。入社の契約だけ結んで、俳優以外のほかの仕事をやっていたのであろうか。たとえば、小笠原プロの製作に携わっていたとか……。
問題は、次の二点である。一つは、恭長が小笠原明峰の設立したプロダクションに、いつから関わり何を手伝っていたのかということ。恭長が小笠原プロ製作の『泥棒日記』と『海賊島』に出演したと岸松雄は書いているが、何を根拠にそうしたコメントを加えたのであろうか。もう一つは、何がきっかけで恭長が日活に入ることになったのかということである。この辺の事情がよく分からない。
東坊城恭長 (現代劇監督部)京都公家出、家門は子爵、慶大文科に学ぶ。小笠原を経て大正12年末入社、俳優として立ち二枚目を演ず。後脚本部を経て昭和2年監督に昇進し『旅藝人』以下新鮮な映画を続々表す27歳。
文中、「慶大文科に学ぶ」とあるが、「慶大文科出」となっていない。他の人物の学歴の表記では卒業した場合にはほとんどが「出」となっている。これは、恭長が中退したからである。また、「小笠原」とあるのは「小笠原プロダクション」。
「日本映画監督全集」(キネマ旬報社)の岸松雄による「東坊城恭長」には次のようにある。
慶応義塾大学文科卒業後、小笠原プロに入社、『泥棒日記』『海賊船』に出演し、そののち23年12月日活俳優部に入社。『青春の歌』でデビュー。
「慶応義塾大学文科卒業後」とあるが、正しくは「慶応義塾大学予科(文科)中退後」である。また、映画タイトルの『海賊船』は『海賊島』が正しい。
学歴が気になるが、恭長が慶応義塾大学予科の文科(当時、予科には文科と理科があった)に進学したのは1921年(大正10年)4月である。予科というのは今でいう教養課程で、1920年の大学令によって慶應義塾大学部は正式に私立大学となり、文学部、経済学部、法学部、医学部の4学部を設置し、3年制の予科を付設した。恭長がどこの小・中学校を卒業して慶應義塾大学予科に入ったかは不明である。小学6年、中学4年を経て16歳で大学予科に入るので、1904年9月生れの恭長は、1921年に慶應義塾大学予科に入学したことになる。
入江たか子著「映画女優」によると1922年8月父徳長が死んだ時、「恭長は十九才で慶応の予科に行き、文学に進みたがって、本ばかり読んでいた」とある。年齢は数えで表しているので、数えで「十九才」は、満17歳(9月の誕生日に18歳)である。恭長は予科2年生で、あと一年予科にいて文学部へ進学するつもりだったと思われる。
が、父の死後、東坊城家の家計は窮迫し、1923年9月に関東大震災に見舞われ財産を失ったために、恭長は自活の道を考え、慶応義塾大学予科を3年生の半ばで中退した。中退したことは、たか子の「映画女優」にもはっきり書いてある。
恭長の日活入社の時期を、「日活の社史と現勢」では「大正12年末」、岸松雄は「23年12月」としているが、大正12年=1923年なので、両者はほぼ一致する。
それが、入江たか子著「映画女優」によると、「兄恭長の日活入り」と題する章に、次の文がある。
その後恭長は映画ファンで同じ華族仲間だというので小笠原長生子爵の御曹子、小笠原明峰氏主宰の小笠原プロに手つだっていたのがきっかけで日活に入ることになった。
「華胃界の新人 子爵東坊城政長氏の令弟 恭長君が映画俳優に」
読売新聞にこんな意味の三面記事が出た。大正14年(?大正13年が正しい)10月12日のことであった。
そして、その日の夜、10時頃には、恭長はもう東京駅の下り列車の待合室に来ていた。日活撮影所のある京都へ旅立つべく……。そして母と光長と私が見送りに行った。
恭長の日活デビュー作『青春の歌』は大正13年(1924年)12月5日公開であったから、この映画がクランクインしたのは、その年の10月中だったと思われる。恭長の日活京都撮影所入りが大正13年の10月半ばだとすれば、時期がぴったり合うわけだ。
しかし、恭長の日活入社の時期を大正12年12月とすると、京都へ行くまでの約10ヵ月間、何をしていたのかが分らない。入社の契約だけ結んで、俳優以外のほかの仕事をやっていたのであろうか。たとえば、小笠原プロの製作に携わっていたとか……。
問題は、次の二点である。一つは、恭長が小笠原明峰の設立したプロダクションに、いつから関わり何を手伝っていたのかということ。恭長が小笠原プロ製作の『泥棒日記』と『海賊島』に出演したと岸松雄は書いているが、何を根拠にそうしたコメントを加えたのであろうか。もう一つは、何がきっかけで恭長が日活に入ることになったのかということである。この辺の事情がよく分からない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます