背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

映画女優、入江たか子(その4)~伝記(1)

2012年07月13日 18時17分51秒 | 映画女優入江たか子
 入江たか子は、1911年(明治44年)2月7日、東京市四谷区に生れた。本名は東坊城英子(ひがしぼうじょうひでこ)。華族の家柄で、父は東坊城徳長(よしなが)といい、子爵で貴族院議員。母の実家は京都の料亭であった。
 東坊城家は、菅原道真の末裔で高辻家の流れをくみ、鎌倉時代の五条長経の二男東坊城茂長を祖とする公家であった。家業は紀伝道(歴史と漢文の研究)で、文章(もんじょう)博士などに任じ、天皇の侍読を務めたり、改元した新年号の出典などを記述した文書を作成していた。代々京都の公家町(現在は京都御苑)の一角(御所の西南側)に在住し、菩提寺は浄福寺(京都市上京区にある)である。
 たか子(以下本名ではなく芸名で記述)の父・徳長(1869年~1922年)は、講書始で明治天皇に「論語」を講じたことでも著名な大学頭・任長(ただなが)の子で、東坊城家第23代当主である。明治17年華族に列せられ子爵になった。結婚後、東京市四谷に居を構え、宮中に出仕、御歌所に参候し、明治天皇御製の歌の編纂に携わり、御歌会始の奉行なども務めた。先祖の菅原道真を祀る大田神社(滋賀県高島市新旭町にある)の奉賛会の会長にも就任している。明治44年、たか子が生れた年に貴族院議員に選任され、以後大正11年に亡くなるまで貴族院議員を務め、政界の名士として活躍した。
 母・君子は、京都円山公園にある料亭平野家(ひらのや)の娘で、紫小町と言われたほどの美人であった。平野家は江戸時代に京の味「いもぼう」(芋の煮付け)で有名になった老舗であった。平野家は現在も円山公園内にあって繁昌している。君子が東坊城徳長に嫁いだのは、明治30年頃か(あるいはその2、3年前)と思われる。第一子・敏子が明治31年に出生しているからである。敏子は、入江たか子とは13歳違ういちばん上の姉である。
 たか子には、この姉のほかに、兄三人と、もう一人の姉がいた。9歳年長の長兄・政長、次兄・光長、三兄・恭長(やすなが)である。下二人の兄は長兄とは一歳ずつ違う年子であった。次姉・宣子はたか子より4歳年長であった。たか子の後に、3歳年下の弟・元長が生れる。
 東坊城家は子宝に恵まれたわけである。四男三女の七人いて、たか子は六番目であった。
 たか子が物心ついた時、長姉・敏子はすでに家を離れていた。というのは、敏子は、15歳の時から大正天皇の皇后付きの女官として仕え、宮内省の官舎に住んでいたからである。彼女は、早百合局の名を賜り、宮中一の美女と謳われていた。(後に目黒雅叙園の創設者である細川力蔵に嫁ぐ。)


6歳(満5歳)の頃の入江たか子(「映画スター全種4」より)

 1917年(大正6年)、たか子は四ッ谷第三尋常小学校に入学する。
 1922年(大正11年)年8月、父・徳長(53歳)が死去。たか子11歳、小学6年の時だった。この時、長兄・政長はシカゴ大学に留学中、次兄・光長は日本美術学校で洋画を勉強していて、三兄・恭長は慶應義塾大学の予科に在学していた。母・君子は東坊城家の大黒柱であった夫を亡くし、四谷の家を畳んで、千駄ヶ谷へ転居する。が、遺産を食いつぶす生活で、次第に家計は逼迫していった。

*参考文献 「映画女優 入江たか子」(昭和32年 学風書院)
      「映画スター全集 4」(昭和4年 平凡社)
      「日本映画俳優全集 女優編」(1980年12月31日号 キネマ旬報社)ほか


       

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 映画女優、入江たか子(その3... | トップ | 映画女優、入江たか子(その5... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
橋本夏子 (世良 康雄)
2015-03-30 17:36:31
橋本夏子と葉室光子派は、MRA対抗策は?私の事を御存知?

mixi RAMBO日記
Gree RAMBO日記
返信する

コメントを投稿

映画女優入江たか子」カテゴリの最新記事