背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その29)~「諸家人名江戸方角分」

2014年05月19日 08時10分26秒 | 写楽論
 さて、一番問題なのは、三の(1)の瀬川富三郎(三代目)編「諸家人名江戸方角分」(ほうがくわけ)にある八丁堀に住む浮世絵師(死亡)の「号写楽斎 地蔵橋」の記載です。
 私の意見から言いますと、この記載もそうですが、この「諸家人名江戸方角分」という冊子自体も、いかがわしいものに思えて、仕方がありません。後世の偽作のような気がするのです。

 「諸家人名江戸方角分」の写本については、中野三敏氏の「『諸家人名江戸方角分』考」(『浮世絵芸術』49号所収 1976年)と「写楽」(中公新書 2007年)に詳しい検証と説明があります。また、「諸家人名江戸方角分」は現在、国立国会図書館が所蔵していて、近代デジタルライブラリーで閲覧できます。私は全部プリントアウトしてみましたが、見開き80枚で、序文から奥書まで計157ページの冊子です。それと、東京教育大学(現・筑波大学)図書館所蔵の「東都諸家人名録」という写本は、タイトルは違いますが、この「諸家人名 江戸方角分」を書写したもので、同じものだそうです。
 「諸家人名江戸方角分」の写本は冊子になっていますが、序文によると本来、一枚刷り大判の一覧表だったようです。しかし、実際どういう形で出版されたかは不明です。また、この原本は、現存していません。この写本は、大田南畝→(某氏)→達磨屋五一→林若樹と持ち主が転々と変わって、昭和35年に国会図書館にたどり着いたものです。
 「諸家人名江戸方角分」は、寛政・享和・文化期の江戸の文化人の住所別一覧表といったもので、総数は約1000名に上ります。諸家(文化人)というのは、編纂者の区別に従うと、学者、詩人、画家、書家、本歌師、連歌師、俳諧師、狂歌師、戯作者、浮世画、篆刻家で、それぞれ表示マークが決めてあります。これは人名の頭に付記するもので、同じ人に複数のマークが付いていることもあります。住所区分は40余りで、日本橋から始まって、江戸城を西に廻り、さらに北へ行って東部へという方向で地名を上げ、そこに人名を列記しています。
「方角分」という題名もこの表記方式から付けたものです。
 選んだ文化人は、現役のほかに故人もいます。故人にはマークが付いています。寛政期に亡くなった有名人でも、その家が残っていて、遺族が住んでいる場合には掲載しています。たとえば、蔦屋重三郎は寛政9年に死去していますが、馬喰町の先頭に、狂歌師のマークと故人のマークを付け、「唐丸」の名前で載っています。

 この写本には大田南畝(蜀山人)の手筆の奥書があり、こう書いてあります。

此書歌舞伎役者
瀬川富三郎所著


文政元年七月五日竹本氏写来
        七十翁蜀山人




 画像を見てもらうと分かりますが、蜀山人の奥書の最初の3行と年月日・署名がページをまたいでずいぶん離れて書かれてあり、蜀山人の署名の後には押印がありません。
 また、右ページには広い余白があり、蜀山人の奥書の反対側の下に達磨屋五一の方形の朱印が押されています。
 そして、朱印の左側に年月と蜀山人の署名がありますが、位置関係がどう見ても不自然です。

 蜀山人の筆跡は癖のあるものですが、最初のページに地名をずらっと二段に並べて書き込んであるところと、本文中の書き込みの数箇所も蜀山人の手筆だと判定されています。中野三敏氏は、これらを蜀山人の真筆だとしてまったく疑っていませんが、蜀山人の偽筆は相当出回っていたので、偽筆の可能性もあるかと思います。
「諸家人名江戸方角分」は大田南畝の「南畝文庫蔵書目」には載っていないとのことですが、そのことについて中野氏は著書「写楽」でこう書いています。なお、(イ)本は国立国会図書館所蔵の「諸家人名江戸方角分」の写本、(ロ)本はその再写本とされる筑波大学図書館所蔵の「東都諸家人名録」のことです。また、(ロ)本には蜀山人の奥書の写しの後に「右諸家人名録横山町三丁目 両裏ぬしより借写置もの也」と書いてあり、石塚豊芥子の蔵書印が押してあるとのこと。

「(イ)本は蜀山の手択ではあるものの、蜀山の印記なく、また『南畝文庫蔵書目』にも見えぬゆえ、一時的には蜀山の手許にあったもののすぐに離れて両国横山町三丁目の両裏ぬしか、もしくは蔵書印に明らかな如く日本橋四日市の達磨屋の手に落ちたらしい。両裏ぬしなる人物と達磨屋とが別人であることは一応その住所の違いが証明していると言えようが、さて、蜀山の手を離れてひとまずどちらに落ちついたものなのか、そこまでは今量りかねている」(中野三敏著『写楽』98ページ)

 中野三敏氏は、著書「写楽」で「江戸方角分」の内容の検証を実に詳しくしているのですが、前提となる大事な点では決めつけが激しく、信じたことは疑わないところがあり、蜀山人の奥書を絶対に真筆だと信じているわけです。(斎藤月岑の写楽について補記も、写楽斎=東洲斎写楽も間違いないと断言しています)

 中野氏の著書を読んでいると、ある部分は細かすぎるほど綿密に書いているのですが、重要な部分の検証がまったく欠落しています。私が気になるのは以下の点です。
 「諸家人名江戸方角分」の著者瀬川富三郎の名も、「江戸方角分」の成立時期を推定する年月(文政元年7月5日)もこの奥書以外にはどこにも記されていないこと。
 「諸家人名江戸方角分」は、筑波大学図書館所蔵の「東都諸家人名録」がその再写本であるとするならば、写本は一冊しかこの世に存在しないこと。もし原本が出版されたとするならば、当時の文献でこの人名録のことに触れた記述があると思うが、中野氏ほか誰からもその指摘がないこと。
 大田蜀山人の手許に竹本氏という人が作成したこの写本が文政元年7月5日に届いたとして、蜀山人は48の地名を早見表のように2ページにメモ書きし、さらに奥書を記して、綴じ直したわけです。それをなぜ間もなく手放したのか、これも分かりません。中野氏は、すぐに日本橋四日市の達磨屋の手に落ちたらしいと書いていますが、達磨屋五一が珍書屋を開くのは嘉永3年(1850年)で、五一が生まれたのは文化14年(1817年)、中野氏が「諸家人名江戸方角分」が制作されたと定めたのと同年です。この写本が蜀山人の手に入ったとき、達磨屋五一は2歳です。
 中野三敏という人は、どうしてこうもいい加減なことを書くのか私には理解不可能です。
 石塚豊芥子のことは、前に紹介しましたが、1799年生まれなので、達磨屋五一よりは一回り以上年長ですが、彼が、この写本の写本を入手するのも、ずっと後年のはずです。つまりこの写本は、15年から20年間、蜀山人の手を離れ、どこにあったのでしょうか。しかも、蜀山人の手筆の奥書があり、これほど便利で役に立つ本が、一冊しか写本されず、30年後に達磨屋五一の手に落ちたというのも不思議な話です。
「浮世絵類考」の写本の数とは雲泥の差です。

 石塚豊芥子と達磨屋五一の二人は親しい間柄だったようですし、江戸時代の珍書・希書の収集家であり、雑学にも通じています。狂歌や過去の狂歌師のことも詳しかったはずです。これはあくまでも私の推測ですが、この「諸家人名江戸方角分」という写本は、この二人の共同作だったのではないでしょうか。蜀山人の奥書も偽筆で、瀬川富三郎の名も、文政元年七月五日という日付もデタラメだったのではないでしょうか。ただし、内容は当時に即して正確で、狂歌師や浮世絵師をたくさん載せて、人名録として奇抜で面白く便利なものを作ろうしたことは確かです。


写楽論(その28)~<写楽=能役者斎藤十郎兵衛説>(4)

2014年05月18日 17時07分36秒 | 写楽論
 二は、写本の所有者は分かるのですが、朱書きの頭注をいつ、誰が、何に基づいて書いたのかは不明です。ただし、いつごろ書かれたかについて、「奈河本助本」に関しては、二つのことが考えられます。
 第一は、「奈河本助本」の本文(頭注以外の部分)が書写されたのは1831年(天保2年)以前(奈河本助がこの写本を購入したのが天保2年である)ですが、頭注も天保2年以前に書かれたとする。
 第二は、奈河本助が購入したあと、すなわち天保2年以後に、奈河本人か他の誰か(この写本の後の所有者)が書いたとする。
 私は第二の可能性が高いと考えています。内閣文庫所蔵の「奈河本助本」を閲覧したわけではないので、今のところ確言はできませんが、そう考えられる理由があるからです。
 まず、この奈河本助という歌舞伎狂言作者がどういう人物であるか、調べてみました。後年、二代目金沢竜玉(りゅうぎょく)と改名したの、その名前で人名事典に掲載されています。
奈河本助(ながわもとすけ)=金沢竜玉(2代)(?~1842)江戸時代後期の歌舞伎作者。
 初代奈河篤助に入門。師にしたがい江戸中村座へはいり,3代坂東三津五郎の庇護をうけた。文政11年(1828)市村座で二枚目作者にすすみ,のち同座で立作者となった。天保6年大坂にもどり,3代中村歌右衛門(初代金沢竜玉)より竜玉の名をゆずられた。天保13年死去。前名は奈河元助,本助。俳名は蓬たく。
 師匠の奈河篤助(初代)(1764~1842)は上方で活躍した有名な狂言作者ですが、奈河本助も上方出身で、1770年代以降の生まれかと思います。本助がいつごろ師匠とともに江戸に来たのかは未調査ですが、文政期から天保6年まではずっと江戸にいて、歌舞伎作者をしていたようです。そして、面白いことに、奈河本助という人は、古書の収集家でもあったようで、「浮世絵類考」の他の写本にもその名前が見られるのです。
 岩波文庫版「浮世絵類考」とほぼ同時期に発行された大曲駒村編「浮世絵類考」は、すでにこのブログの第18回で紹介しました。そのまえがき「翻刻に当りて」の中で、校訂者の大曲駒村が底本に用いた「松平本」について次のように書いています。

 「松平本」と云ふのは、作州津山の藩主松平確堂公の旧蔵本の事で、この書もその原本は歌舞伎作者奈河本助の手写本であることが冊尾に、

此浮世絵類考は、蜀山翁の著述にて、附録は笹屋邦教が本もて写し、追考は京伝の手書より写すよし記されたり。此本は、三馬が補を加えし本より写したりと見ゆ。蔵前の書估田中長次郎蔵せしを購得。
  天保二年辛卯四月八日        歌舞伎作者 奈河本助 (印)
 
と来歴が朱書されて居るので判る。巻頭に「松平確堂蔵書」と云ふ大きな角印の外、「歌舞伎作者奈河本助印」と云ふ長方形の印影を朱書してある。


 つまり、この松平本は、蔵前の書店田中長次郎から奈河本助が買って、それを美作津山藩主松平確堂(=松平斉民1814~91 11代将軍家斉の14男)に献上(あるいは売った)というわけです。
 これを私は以前読んで覚えていたので、「奈河本助本」のことを知って、あっと思いました。写楽についての頭注のある「奈河本助本」とこの「松平本」は、「浮世絵類考」の同系統の写本ではないかと気づいたのです。ただし、「松平本」には頭注がありません。しかし、奈河本助の印が二箇所あるということは、奈河本助が蔵前の書店田中長次郎(この人は不明です)から購入した現物の写本に間違いない。そこで、私は、ぜひ内閣文庫所蔵の「奈河本助本」を見たいと思っています。奥書に、奈河本助が天保2年に入手したという記載があるのは分かっているのですが、それが「松平本」と同じ文章かどうか、また奈河本助の押印があるかどうか、確かめたい。もし、押印があるとすれば、購入した写本を後で書写して奈河本助が2冊所持していたことが明らかになります。
 
 同じ頭注のある「達磨屋五一本」についても面白いことが分かりました。古本屋の達磨屋五一という人は大変有名ですが、奈河本助よりずっと後世の人です。人名事典にある記述を下にまとめておきます。

 達磨屋五一(だるまや-ごいち)(1817~1868) 江戸時代後期の書籍商。
 文化14年、築地に生まれる。姓は岩本姓、名は覚。日本橋の書舗・西村宗七のもとで奉公し、後に書物の仲買や露天商などを転々とする。嘉永3年、日本橋四日市に古本屋を開く。珍書・貴書をあつめて有名になり, 当時の文化人たちと親交を結ぶ。戯作者の仮名垣魯文や笠亭仙果(二代目柳亭種彦)、考証随筆家の山崎美成、蔵書家で知られる石塚豊芥子や江戸名所図会の斎藤月岑ら、当時一流の文人たちと交流があった。また江戸の随筆(60編)を集成した「燕石十種」(全6集)は、養子の活東子(本名岩本左七)が編者となっているが、五一も手持ちの資料をもとに編纂に協力したと言われる。号は無物など。慶応4年7月18日死去。52歳。達磨屋の蔵書印「待價堂」(たいかどう)のある本は、現在でも高い評価が与えられている。

 「燕石十種」第三集に渓斎英泉の「無名翁随筆」(別名「続浮世絵類考」)が収録されています。達磨屋五一は、「浮世絵類考」とも大変縁が深い人なのです。
 戻って、問題の「達磨屋五一本」の奥書については、内田千鶴子氏の「写楽・考」に、彼女が天理大学を訪ねて記録した文が載っています。

此浮世絵類考は蜀山翁の著述にて附録は笹屋邦教が本もて写し追考は京伝の手書より写すより記されたり この本は、三馬が補記を加えし本より写したりと見ゆ 蔵前の書估田中長次郎蔵せしを購得

 そのあとには、取得した年月日もこの奥書を書いた者の名前も記されてなく、達磨屋五一の印が押してあるそうです。しかし、この奥書は「松平本」にある奈河本助の奥書とほぼ完全に同じものであり、紛れもなく、奈河本助所有の「浮世絵類考」の写本を直接または間接的に書写したものです。誰が書写したのかは分かりませんが、もしかすると達磨屋五一かその店の者かもしれません。
 写楽についての頭注の「斎藤十郎平」を「斎藤十郎兵衛」に書き直したことも確かだと思います。

 以上述べたように、奈河本助が蔵前の書店田中長次郎から天保2年4月8日に購入した「浮世絵類考」の写本は、「松平本」→「奈河本助本」→「達磨屋五一」という経路で書写され伝わっていったことが推定されます。そして、奈河本助の押印のある「松平本」に写楽の頭注が書き込まれていないとするならば、この頭注は天保2年4月以降に「奈河本助本」に書き込まれたことになるわけです。それと、「奈河本助本」の奥書が奈河本助自筆のものだとするならば、頭注の筆跡と見比べる必要があります。もし同じならば、奈河本助がこの頭注の情報をおそらく歌舞伎関係者から入手して書き加えたことが明らかになるからです。奈河本助が大坂に帰るのは天保6年ですから、もし彼が頭注を書いたとすれば、天保3年(1832年)から5年(1835年)ごろになります。

「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎平というよし、栄松斎長喜老人の話なり」
 この頭注には、能役者ということが書かれていません。ということは、これを書いた人は、奈河本助であれ別の人であれ、斎藤月岑の補記を見ていないことは明らかです。天保期前半は、月岑の「増補浮世絵類考」は、まだ取り掛かったばかりで、ほとんど何も書かれていない状態だったのですから、見ることは不可能です。

 達磨屋五一が古本屋を開店したのは嘉永3年(1850年)で、石塚豊芥子や斎藤月岑と交流があったのは確かなようですが、月岑が「増補浮世絵類考」をほぼ完成させた1844年(天保15年)春以前に交流があったかどうかは不明です。これは斎藤月岑の日記を調べてみないと何とも言えません。
 また、奈河本助が石塚豊芥子や斎藤月岑と接触があったかどうかも不明です。これも斎藤月岑の日記を調べてみないと何とも言えません。「奈河本助本」の現物ないしその写本が、石塚豊芥子または斎藤月岑の目に触れた可能性もあるのではないかと思う人がいるかもしれませんが、私はそれはなかったと思います。というのも、「奈河本助本」には、奥書に「此浮世絵類考は、蜀山翁の著述にて、附録は笹屋邦教が本もて写し、追考は京伝の手書より写すよし記されたり」と明記してあるのに、月岑は、「浮世絵類考」の本文が大田蜀山人(南畝)の書いたものであったことも「類考」の成立経緯も知らなかったからです。
 月岑が参照したのは、いわゆる「酉山堂本」で、ここには前回引用したように成立経緯がはっきり書かれていなかったのです。したがって、月岑が写楽の頭注を見て、「阿州侯の士にて俗称斎藤十郎平」ということを知り、それと三馬の補記「八丁堀に住す」に基づいて、調査をして、能役者の斎藤十郎兵衛を特定したことはあり得ないことになります。
 つまり、月岑は、「奈河本助本」の頭注を書いた人とは、別の経路から「写楽が阿波藩の斎藤十郎兵衛」という情報を得たものと思われます。




写楽論(その27)~<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説(3)

2014年05月18日 16時34分05秒 | 写楽論
<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説の論拠は以下の三つです。

一、斎藤月岑編「増補浮世絵類考」にある写楽についての補記
「俗称 斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者也」

二、「浮世絵類考」の写本「達磨屋五一本」と*「奈河本助本」にある写楽の項の頭注(朱書)
「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎兵衛(*十郎平)というよし、栄松斎長喜老人の話なり」

三、瀬川富三郎(三代目)編「諸家人名 江戸方角分」の八丁堀に住む著名人のところにある記載
  浮世絵師(死亡) 号写楽斎 地蔵橋

 この写楽斎=写楽=能役者斎藤十郎兵衛を前提として、八丁堀地蔵橋に住む国学者村田春海の隣家に阿波藩の能役者斎藤与右衛門が住んでいて、与右衛門の息子が同じく能役者の斎藤十郎兵衛であることが究明された。

<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説に対し、否定的な見方をする人たちは、一の斎藤月岑の記載を疑問視していましたが、二の写本が現れてからは、急に論鋒が鈍ったようです。
 しかし、「浮世絵類考」の一と二の記載に関し、いつ、誰が、何に基づいて、それを書いたのか、ということが問題になります。

まず、一は、斎藤月岑が1833年(天保4年)夏以降1844年(天保15年)春までに書いたことは確かです。しかし、何に基づいてかはまったく不明です。写楽の作画期は1794年(寛政6年)ですから、それから40年ないし50年後にこの新事実(?)を記載したことになります。月岑が「増補浮世絵類考」を作成する際、参照した「類考」の写本については、月岑の序文があるので、以下に引用します(「ケンブリッジ大学所蔵本」)。*印には後ろに私の注を添えています。

浮世絵類考は*笹尾邦教山東京伝の編にして式亭三馬の書入あり
同附録は邦教の編にして三馬の書入あり
同追考は京伝の編とおぼしく三馬の書入あり
以上三部太田蜀山先生の蔵本にして先生の書入あり
右の三部写本にして*嵩樵子の蔵本を*一桂子のもとより借得て写し置たりとて*片岡一声子のもたりしを*天保癸巳の夏写して別冊もあり半紙数三十丁
続浮世絵類考は*癸巳冬根岸の隠士無名翁編とあり 按るに浮世絵師渓斎英泉の輯なり 右に誌る三部を一つとなし洩れたるを集て二巻とせし也。其文拙しといへども編輯の労一閲して知るべく丹志又賞すべし 此書豊島町なる*鎌倉屋豊芥の蔵本を借獲て余再び補ひて増補浮世絵類考と題す 然りといへども未全しとするに足らず 尚好士の刪潤を俟つのみ
天保甲辰春                   東京神田  斎藤月岑識


*この頃、斎藤月岑は、「浮世絵類考」が笹尾邦教と山東京伝が編纂したものだと思っていて、原撰者が大田南畝であることを知りませんでした。
*嵩樵子(すいしょうし)*一桂子*片岡一声子、三人とも不詳。名前の末尾の「子」は、「~君」にあたる呼称なので、嵩樵、一桂、片岡一声という号ないし通称だと思われます。月岑が参照した「浮世絵類考」は、嵩樵の所蔵本を一桂が持っていて、それを片岡一声が又借りして書写したものを、さらに月岑が天保4年夏に書写して、別冊も加えると、半紙三十丁(二つ折りすると60ページ)になるというものです。
*天保癸巳=天保4年
*癸巳=天保4年
*鎌倉屋豊芥=石塚豊芥子(ほうかいし)(1799~1862)
 江戸後期の雑学者。名は重兵衛,通称鎌倉屋十兵衛。豊芥子はその号で,別にからし屋,豊亭,集古堂などと号した。江戸の人。神田豊島町で鎌倉屋を名として芥子を粉にすることを業とする傍ら,山東京伝や柳亭種彦,木村黙老らと交遊し,その影響で近世以降の文芸書や演劇,遊里関係の珍籍を収集,書写し,風俗研究を志した。著書に『歌舞伎年代記続編』『歌舞伎十八番考』『岡場遊廓考』『吉原大鑑』『豊芥子日記』などがあり,その蔵書は芥子屋本として知られた。(朝日日本歴史人物事典より)

 斎藤月岑の「増補浮世絵類考」は、親しくしていた石塚豊芥子からの情報もかなり参考にしたのではないかと言われています。
 渓斎英泉の「続浮世絵類考」(「無名翁随筆」)は天保4年冬に作られたもので、石塚豊芥子がその写本を所持していて、月岑はそれを豊芥子から借りて、通読し、文章の拙いところもあるが、労作であると評しています。そして、主にこれを参考にして、「増補浮世絵類考」を書き始めたのです。

 また、斎藤月岑の「増補浮世絵類考」稿本には以下の付記があります。

浮世絵類考附録追考三つを一冊にして*杏花園先生の蔵本なりし もと類考と附録は笹屋邦教の本もて写し追考は京伝の手書の本もて写すよし記されたり かたはらひきなほせる所々先生*はた京伝と見ゆるもあり さてそが上に式亭主人の説々多く書加へ猶補ひ正されしは朱字にてこまかなりしを*こたひ其説々をも本文のつらに書ならべ真仮名もてわかちて見やすきか為にうつし物しぬ
                             *酉山堂
天保四年癸巳冬   渓斎英泉増補
*弘化元年甲辰    斎藤月岑増補


*杏花園は大田南畝の別号
*はた=また?
*こたひ=古体?
*酉山堂(ゆうざんどう)は、江戸時代後期の書肆で、主人は酉山堂保次郎といいます。この付記にあるように、月岑が書き写して参照した「浮世絵類考」の写本は、いわゆる「酉山堂本」と呼ばれるものです。「酉山堂本」は、現在横浜市図書館が所蔵していて、その複製は国立国会図書館にあります。

 ケンブリッジ大学図書館所蔵の斎藤月岑自筆の稿本「増補浮世絵類考」の写楽の項は、以下のように書かれてあります(内田千鶴子著「写楽を追え」)

○写 楽      天明寛政中の人
   俗称 斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者也
   号東洲斎

歌舞伎役者の似顔を写せしがあまりに真を画んとてあらぬ
さまに書なせしかば長く世に行れず一両年にして止む 類考
三馬云僅に半年餘行るるのみ

 五代白猿 幸四郎后京十郎と改 半四郎 菊之丞 冨十郎
 広治 助五郎 鬼治 仲蔵の類を半身に画き廻りに
 雲母を摺たるもの多し

 月岑が新たに書き加えたところ(英泉の「続浮世絵類考」には空白ないしは書かれていないこと)は、太字の部分です。



写楽論(その26)~<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説(2)

2014年05月17日 10時06分17秒 | 写楽論
 中野三敏氏は、関根正直博士の「江戸の文人村田春海」(「史話俗談」「からすかご」所収)に、寛政6,7年以降地蔵橋側に居住した春海の養女多勢子が、その家の垣隣りなる阿波藩の能楽師某の倅を養子に迎え、それが春路と称して、村田家を継いだという記事があることを発見しました。そして、「江戸切絵図」をいくつか調べた結果、その隣人の能楽師の名前が斎藤与右衛門ということを突きとめ、写楽の俗称とされている斎藤十郎兵衛と縁故関係があるのではないかと指摘しました。
 斎藤十郎兵衛については、阿波藩蜂須賀侯のお抱えで江戸住みの能役者に同姓同名の実在の人物がいて、寛政4年、文化13年、文政8年頃の三つの史料に名前が出ていることがすでに確認されていました。また、斎藤与右衛門も、代々その名跡を継いだ喜多流能楽師であることが分かっていて、寛政3年版「武鑑」に名前が見える斎藤与右衛門(北八丁堀七間町在住)は、何代目かは分からないながら、寛政半ば以降、八丁堀地蔵橋に移り住み、江戸切絵図に記載がある嘉永7年(1854年)ごろまでは村田春海の隣りにその家があったことが判明したわけです。
 
 さて、その後、昭和58年に内田千鶴子氏が斎藤与右衛門と斎藤十郎兵衛の関係を突き止めた史料を発表します(中央公論社「歴史と人物」7月号)。
「重修猿楽伝記」と「猿楽分限帳」という古文書2冊の喜多流能役者の部を調べた結果、「猿楽分限帳」に喜多七太夫支配の地謡方(ワキの演者の側で謡をうたう役)として斎藤十郎兵衛の名があり、父与右衛門という表記があることによって、二人の親子関係が判明し、また、当時の年齢から斎藤十郎兵衛の生年までが明らかになりました。

 斎藤十郎兵衛 宝暦11年(1761年)に生まれる

 写楽がこの斎藤十郎兵衛だとするならば、写楽が華々しくデビューした寛政6年(1794年)ですから、写楽が満33歳の時ということになったわけです。
 内田千鶴子氏は平成5年(1993年)、能役者斎藤十郎兵衛説を主張する単行本「写楽・考」(三一書房)を刊行します。これによって、<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説が一気に再浮上し、流れが旧来の定説に大きく傾いていく結果になりました。

 平成9年(1997年)6月、斎藤十郎兵衛の墓が発見されました。埼玉県越谷市にある法光寺という築地本願寺系の寺で、法光寺は昔はずっと築地にあったのですが、昭和63年の火災のあと、越谷市に移転したのでした。寺に残っていた過去帳から、斎藤十郎兵衛についてさらに詳しいことが分かりました。
 
 文政3年(1820年)3月7日歿、享年58歳。住所は八丁堀地蔵橋。

 寛政4年から寛政11年までは南八丁堀阿波藩屋敷内、文化4年から亡くなる文政3年までは八丁堀地蔵橋に住んでいたことも判明。過去帳には家族の法名もあり、父与右衛門、祖母、母、早世した二人の子の記載があったといいいます。

 話は少し戻りますが、<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説を根拠づける第三の資料が平成の初めに発見されました。
 それは、写楽について重要な頭注のある「浮世絵類考」の写本2冊で、一つは、現在天理大学所蔵の写本、これは「達磨屋五一本」と呼ばれるもの、もう一つは現在内閣文庫所蔵の写本で、「奈河本助本」と呼ばれるものです。どちらも、天保年間に書写されたと推定されています。前者は、江戸時代末期の古本屋主人・達磨屋五一(1817~1868)が購入して所有していた写本。後者は、歌舞伎狂言作者の奈河本助(ながわもとすけ)が天保2年(1831年)に購入して所有していた写本。ほぼ同じ内容の頭注ですが、二つとも紹介しておきます。
 
 「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎兵衛というよし、栄松斎長喜老人の話なり(改行)周一作洲」(達磨屋五一本)
 「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎平というよし、栄松斎長喜老人の話なり(改行)周一作洲」(奈河本助本)

*十郎兵衛と十郎平の違いだけです。
「周一作洲」は、周は洲の作り(書き方)の一つという意味で、式亭三馬の補記、「東周斎」は「東洲斎」のことだという注であると思われます。
 この記載には、能役者という身分は書かれておらず、士分というだけですが、浮世絵師の栄松斎長喜(えいしょうさいちょうき)の話だということに信憑性があります。


栄松斎長喜 「高島屋おひさ」(柱絵の部分図)
*写楽の「松本幸四郎の肴屋五郎兵衛」が描かれた団扇を持っている。写楽の絵とは絵柄が左右反対向きになっている。

 栄松斎長喜は、版元の蔦屋重三郎から美人画を数多く出していて、歌麿、写楽が作画していた寛政期に彼らの近くにいた絵師だったからです。また、長喜は、写楽の絵のある団扇を持った美人画を描いているほどで、写楽が誰だか知っていたことは十分考えられることです。実は、この栄松斎長喜という絵師も経歴不詳で、出身も生年・没年も分かりません。写本の頭注に、栄松斎長喜老人の話とありますが、この書き込みをした人(誰かは不明)が長喜から伝え聞いた(あるいは又聞きした)のは、文化年間(1804~18)ではないかと推定されます。




写楽論(その25)~<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説

2014年05月16日 18時44分08秒 | 写楽論
<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説の根拠は、以下のことです。
 
 第一に、時代考証家・斎藤月岑(げっしん1804~1878)が、天保15年(1844年)春までに数年間かけて再編纂した「増補浮世絵類考」の中にある写楽についての補記。
「俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者なり」
 
*「江戸八丁堀に住す」というのは式亭三馬の補記にあったものですが、俗称が斎藤十郎兵衛で、阿波侯すなわち徳島阿波藩・蜂須賀侯の能役者というのは、斎藤月岑が初めて「浮世絵類考」に書き加えたことです。月岑は、江戸時代後期の著名な考証家であり、「江戸名所図絵」「東都歳時記」「声曲類纂」「武江年表」など江戸時代の諸事万般に関して厖大な著作を残した人ですが、そんな月岑が写楽について阿波侯の能役者斎藤十郎兵衛と書いたことは信頼できるはずだと言うわけです。
 明治から昭和30年代までは、斎藤月岑がこの補記を書いたことは分かりませんでした。月岑の「増補浮世絵類考」は、明治24年(1891年)「温知叢書」第四巻(博文館)に収録され、公刊されましたが、そこにはこの補記がなく、月岑のこの増補の後に編纂された「新増補浮世絵類考」(龍田舎秋錦編、慶応4年)にはこの「阿波侯の能役者斎藤十郎兵衛」が書かれてあったので、「新増補浮世絵類考」にある補記として知られていました。
 それにしても、明治から大正にかけては「浮世絵類考」自体の研究が進んでいなかったので、写楽=能役者斎藤十郎兵衛は定説扱いされ、疑ってかかる研究者はほとんどいなかったようです。「SHARAKU」を著し、写楽を世界の三大肖像画家として激賞したドイツ人のクルトから、昭和18年に発刊された集大成本「東洲斎写楽」によって写楽を美術史上に位置づけ、写楽が描いた絵を詳しく解説した吉田暎ニまで、写楽について書いた著者のほとんど全員が、写楽=阿波侯の能役者斎藤十郎兵衛を前提にして論述していたといえます。ただ、この斎藤十郎兵衛の実在がなかなか明らかにならず、生没年も経歴も不詳で、写楽という絵師の実体はまったく摑めませんでした。
 大正時代の終わりから写楽の絵そのものの研究は進んでいくのですが、一方で浮世絵師の唯一の手引きといえる「浮世絵類考」の底本を作れという強い要請があり、「浮世絵類考」の数多くの写本の検証が進み、昭和16年になってようやく仲田勝之助の校訂編集になる岩波文庫版「浮世絵類考」が発行されます。これで、「浮世絵類考」の成立と変遷の輪郭がある程度明らかにされるのですが、岩波文庫版「浮世絵類考」は、浮世絵師についての研究の道を大きく拓いた一方で、類考の記述が疑問符だらけであることを公表することにもなり、とくに写楽に関しては、大きな疑問符を投げかけることになりました。つまり、写楽と同時代に生きて、版元の蔦屋重三郎と親しくしていた大田南畝(「浮世絵類考」の原撰者)も山東京伝も式亭三馬も写楽について俗称も経歴も明かさず、写楽が消えて約半世紀経ってから初めて、写楽=能役者斎藤十郎兵衛が書き込まれたことに対し、強い疑惑が生じることになりました。
 その後戦争をはさみ、昭和30年代に入り、<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説が否定され、写楽別人説が続々と現れ出すわけです。
 斎藤月岑が「増補浮世絵類考」に、写楽の俗称が斎藤十郎兵衛で、阿波侯の能役者と書いていたことが判明したのは、昭和38年(1963年)、「近世文芸 資料と考証」2号・3号(七人社 板坂元編)にケンブリッジ大学所蔵の斎藤月岑自筆本「増補浮世絵類考」が収録され発行されてからです。しかし、偉大な考証家の斎藤月岑がこの補記を書いたことが分かっても、その根拠がまったく分からず、疑惑は募るばかりで、その結果、写楽別人説は百花繚乱咲き乱れ、写楽は誰かという議論がオーバーヒートしていきました。
 戦前まで定説に近かった<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説は、昭和40年代にはほぼ完全に否定されるところまで行ってしまったのです。
 
 しかし、昭和50年代に入り、急に風向きが変わりました。
 そのきっかけになったのは、昭和51年、当時九州大学の助教授だった近世文学研究者の中野三敏(みつとし)氏が「諸家人名 江戸方角分(ほうがくわけ)」という冊子に、重要な記載があることを発表したことです。これが、<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説の第二の根拠になりました。(中野氏は、論文集「近世の学芸」、続いて朝日新聞のコラム、さらに「浮世絵芸術」49号に発表)

 「諸家人名 江戸方角分」は、江戸中期のいわば「住所別タレント名鑑」といった一覧表で、歌舞伎役者の三代目瀬川富三郎が編集し、文化14年ごろに刊行したものです。大田南畝のもとにあったその写し(一覧表を冊子にしたもの)が国立国会図書館に所蔵されてあり、その冊子の八丁堀に住む著名人のところに以下の記載がありました。(実際は縦書きです。画像参照のこと)

             地蔵橋
「×  
      号写楽斎
   

*「 は死亡、× は浮世絵師の表示記号。通称と俗名が空欄になっています。



 これで、写楽斎という浮世絵師が八丁堀の地蔵橋あたりに住んでいて、死亡したことが判明しました。
 もう一つ、中野三敏氏は、重要な資料を提示しました。それは、この写楽斎という浮世絵師から二人置いた前のところに、著名な国学者の村田平四郎(春海 1746~1811)の名前がありますが、実は、村田春海の家の隣りには阿波侯の能役者が住んでいた、ということを明かにする資料でした。

 *参考文献:内田千鶴子「写楽・考」(三一書房1993年)、中野三敏「『諸家人名江戸方角分』考」(『浮世絵芸術』49号所収 1976年)、中野三敏「写楽」(中公新書 2007年)