背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その24)~鬼次の顔(2)

2014年05月12日 23時24分22秒 | 写楽論
 もう一人、勝川春艶(しゅんえん)という絵師が、鬼次を描いています。春艶については「浮世絵類考」(新増補版も含めて)に名前もなく、井上和雄編「浮世絵師伝」(昭和6年)には、「生没年不詳 春章の門人 作画期:寛政 勝川を称す。役者絵あり」と書いてあるだけです。春艶の落款のある役者絵が数点現存しているそうです。その絵の中に、写楽が描いた役者と同時期、同じ役のものがあり、画風も春英と写楽のどちらにも似ているので、注目してよい絵師だと思うのですが、寛政6年の前後1年ほど作画活動をして、消えてしまった謎の絵師です。


春艶 大谷鬼次

 これは鬼次の江戸兵衛(写楽の描いた有名な絵と同じ)と言われています。団扇を大きな拡大鏡で覗いているような絵ですが、団扇絵と呼ばれるものです。浮世絵には、扇や団扇に貼るために描かれた絵があり、勝川派の祖である春章は扇に貼る役者絵を描き始めて、流行させた人です。この絵は、落款に「春艶画」とあり、その下に版元の商標、山印に「叶中」とあります。集英社の画集(春章の巻)には、上総屋という版元名が書いてあります。よく調べてみないと分かりませんが、二流の小さな版元ではないかと思います。
 鬼次の顔の描き方は、パターンが決まっていて、眉毛を逆「八の字」にして、より目にして、口を長い「への字」形に結び、顎にえらを張らせて描くといったもので、このパターンは春英が最初に描き始めたと思われます。写楽も歌舞伎堂も豊国も国政もみんなこのパターンに倣っています。
 春艶のこの鬼次の絵で目立つのは、左手の指です。勝川派の役者大首絵の特色の一つは、手の指を画面のどこかに配して、顔とのバランスをとることなのですが、春艶もそれに倣っています。春艶は、勝川一門で、多分春英の弟弟子だと思いますが、春英の影響を受けていることは確かです。前回取り上げた春英の絵を見ると分かるのですが、春英も画面に巧みに指を描いています。指を4本、離して描いて、人差し指を剃り返しています。指の大きさは小さめです。
 写楽の絵の特徴は、顔の描き方もありますが、手の指(とくに人差し指と小指)を巧みに描いて、絵のどこかに配置し、絵にアクセントを付けたことです。これは、写楽が、春好と春英の描き方を真似たものだと思いますが、写楽はもっと意識的に、かつ大胆に描いています。写楽の絵をよく見ると、指のしぐさというか、感情を手の指で表しているものがたくさんあり、これが顔の表情と連動して、役者絵の表現力を高めていることが分かります。
 とくに写楽の江戸兵衛は、顔も無気味ですが、懐から突き出した両手はトカゲの手のように奇形で、今にも襲いかかってきそうな迫力があります。この江戸兵衛という男は、伊達の与作の下僕(奴一平)から300両を奪い取る悪党なのですが、まるで殺人鬼のようなインパクトがあります。


写楽 大谷鬼次の江戸兵衛

 春艶の大首絵をもう1点掲げておきます。前回掲げた春英の3人の大首絵と同じ形式です。


春艶 中山富三郎(女形)と高麗蔵(左)と森田勘弥(右)

 これは、寛政6年5月桐座の「敵討乗合話」の役者3人と言われています。中山富三郎の宮城野は写楽も大首絵を描いていますが、顔の描き方が大変似ています。この中山富三郎という女形は、あだ名が「ぐにゃ富」といい、ぐにゃぐにゃしているので、そんなあだ名が付いたそうです。
 彼女(彼)の顔の特徴は、面長で目が小さく、鼻の下が短く、顎が長いことです。この顔は一度見ると忘れません。下に写楽の絵と春英の絵を掲げますが、春英の絵の方が少しだけ古く、寛政6年の春に描かれたものです。なぜそれが分かるかと言うと、版元の商標が蔦屋重三郎(通称蔦重=つたじゅう)になっているからです。蔦重は、写楽を売り出す前の半年間ほど、春英に役者絵を描かせて出版していた時期があったのです。


写楽 中山富三郎の宮城野


春英 中山富三郎、高麗蔵、半五郎

 春英は、現代では写楽の評価の大きさに比べ、過小評価されている絵師で、まったく写楽の蔭に隠れてしまっていますが、当時は若手ナンバーワンの絵師で、役者絵では、師匠の春章(寛政4年に死去)や兄弟子の春好をすでに追い越して、人気実力ともにトップクラスにあった人でした。春艶はもちろん、写楽も春英の影響を受けていたことは間違いありません。鬼次の顔もそうですが、中山富三郎の顔を見ても、写楽が真似ようとしたことが見て取れます。
 これは私の意見ですが、写楽という絵師は、春英を含め勝川派の絵師たちに比べて、デッサン力も色彩感覚も劣っていたように思います。写楽は器用に真似られないために、かえって自分の個性を発揮できたのではないでしょうか。写楽が描いた役者の手の出し方を見ると、肩から上腕部・下腕部のラインが、着物で隠れているとはいえ、しっかりイメージされていないことが分かります。要するに、下手なんです。評論家は、写楽が意識的にデフォルメしたなどと言いますが、下手だから結果的にデフォルメしてしまったと言った方が正しいかと思います。現代の画家のようにデッサン力があって、自らの表現手法としてデフォルメするのとは違います。鬼次の江戸兵衛を見ても、ぐにゃ富の宮城野を見ても、肩の付け根から手の先までの腕の立体構成がまったく素人並みです。修業を積んだプロの絵師なら、この程度のデッサンの基礎はできていますから、写楽は修業の浅い絵師だったように思えてなりません。



写楽論(その23)~鬼次の顔

2014年05月11日 04時52分00秒 | 写楽論
 「浮世絵類考」の話から脱線してしまいましたが、もう少しだけ大谷鬼次について書きます。
 これは前々回に書いたことの訂正ですが、まず鬼次は、鬼治と書くこともあって、どちらも通用していたようです。広次と広治も、同じです。また、写楽の絵には、道化方の大谷徳次(広次の弟子)を描いた絵がありますが、徳次と徳治、どちらでもいいようです。最近私は、早稲田大学演劇博物館のデジタルライブラリーで歌舞伎の番付をよく見るようになったのですが、江戸時代、漢字の当て方はかなりいい加減で、読みが同じなら違う字を当てて、通っていたことが分かりました。
 それと、英泉の「无名翁随筆」で書き加えられた「鬼次 仲蔵」のところは、「鬼次仲蔵」と間を空けずに表記すれば正しいことが分かりました。初代仲蔵と区別するために、鬼次の二代目仲蔵は、通称「鬼次仲蔵」と言って、仲蔵の前に鬼次をかぶせて呼んでいたそうなのです。これは「歌舞伎俳優名跡便覧」に書いてありました。
 また、これは細かいことですが、「新増補浮世絵類考」(龍田舎秋錦編 慶応4年)では、仲蔵の名を富十郎の後に移し変えて、「富十郎 仲蔵 広治 助五郎 鬼治」の順に書いています。編者が仲蔵を初代と勘違いして、こんな偉い役者を末尾に置くのはいけないと配慮して仲蔵を移動したのでしょうが、余計なことしてしまったわけです。写楽は初代仲蔵の絵は描いていません。
 さて、鬼次について、歌舞伎研究家の河竹繁俊は「歌舞伎名優伝」(昭和31年)の「中村仲蔵」の項でわずか5行しか割いていません。引用しますと、
「二世仲蔵をついだのは、三世大谷広次の門弟で、養子にもなった永助であった。永助は春次から鬼次をつぎ、ついで二世中村仲蔵を名のったが、襲名後三年めの寛政八年(1796)に三十八歳で歿して、注目すべき俳優ではなかった」
 最後の「注目すべき俳優ではなかった」というコメントは、著者の河竹繁俊が注目する気がなかっただけで、悪役として人気があった役者であることは確かだったと思います。そうでなければ仲蔵を襲名するわけがありません。
 そこで私は、写楽が描いた絵のほかに、鬼次を描いた絵がないかと思って、インターネットで紹介されている世界中の美術館の所蔵データから鬼次の役者絵を探してみました。鬼次は、いわば一流の看板役者でもなく、とくに鬼次時代の役者絵はないかもしれないと思っていたのですが、ありました。
 写楽の前に、まず勝川春英が鬼次を描いていました。2枚ありましたので、掲げておきます。

 
春英 三代目大谷鬼次

 左の絵はミネアポリス美術館にあるものですが、「Otani Oniji III as Niki Bennosuke 1792」と明示されています。着物にある定紋(○十)と顔付きから見て、鬼次であることは確かです。しかし、仁木弁之介(?)という役名と1792年は、信用できない気もします。役名と制作年代は、推定が誤っていることが多々あるからです。とはいえ、写楽が描いた寛政6年(1794)より以前の絵であることは間違いないと思います。
 右の絵はシカゴ美術館所蔵ですが、The Actor Otani Oniji III in an Unidentified Role in the Play Yukimi-zuki Eiga Hachi no Ki (?), Performed at the Nakamura Theater (?) in the Eleventh Month, 1787 (?)という注釈がついています。1787年11月中村座で上演された「雪視月栄花鉢木」の役だと推定していますが、疑問符だらけなので、不確かなようです。鬼次と師匠の広次は、定紋が同じなので、顔を良く見て、判定しないといけないのですが、右側の絵は若い頃の広次なのかもしれません。



 春英の絵をもう一枚、これは立命館大学が本の画像(「浮世絵大成」の役者絵)だけ持っているものですが、右側下の役者の顔を良く見ると、鬼次にそっくりです。データでは大谷広次になっていますが、顔の特徴から鬼次に間違いありません(女形は岩井半四郎、左下は市川男女蔵です。制作年代は不明)。
 ついでに、この絵の顔の部分と写楽の江戸兵衛の顔の部分図(モノクロにして左右反転)と仲蔵襲名後の部分図を並べて、比較してみましょう。

  

 それぞれ、鬼次の顔の特徴をよくつかんで描いていますが、写楽が描いたとされる仲蔵(一番右側)の絵は、どうもニセっぽい気がして仕方がありません。春英の似顔は写実的で生気があります。写楽の江戸兵衛は、相手をバカにしたような憎々しさがあり、何度見ても見飽きません。それに比べると仲蔵の顔の表情は生きていません。
 
 さて、これまで私が調べた限りでは、鬼次の役者絵は、まず春英が描いて、それから写楽と豊国が同時期に描いて(豊国は全身像です)、仲蔵襲名後は、写楽のほかに、歌舞伎堂艶鏡(写楽の亜流で、役者の中村重助と言われている謎の絵師です)と豊国と歌川国政が大首絵を描きます。その3枚を並べておきますが、前回掲げた写楽の仲蔵の絵と見比べると、何かが分かってくるような気がします。


歌舞伎堂艶鏡 二代目仲蔵

 
豊国 二代目仲蔵


国政 二代目仲蔵

*上の三枚の絵は寛政8年(1796)に、鬼次仲蔵が「菅原伝授手習鑑」で大役松王丸を演じた時の大首絵です。歌舞伎堂艶境の絵は、体が直立していて動きがなく、迫力が伝わってきません。
豊国の絵は華やかで、歌舞伎の楽しさが伝わってきます。国政の絵は、黒を基調にしたシックな絵で、構図も面白く感じます。



写楽論(その22)~東洲と魚楽

2014年05月09日 04時41分25秒 | 写楽論
 広次、鬼次という二人の役者を調べていると、こんなことが分かりました。
(参考書:津田類「江戸の役者たち」、国立劇場調査記録課編「歌舞伎俳優名跡便覧」)

 広次と鬼次は、大谷一門で、元祖は大谷広右衛門(1666~1721)である。
 広右衛門は江戸歌舞伎の敵役の開祖と呼ばれた。
 大谷広次(初代1696~1747)は、広右衛門の実子で、修業に励み、後年、二代団十郎、宗十郎、彦三郎と並び、立役四天王と称されるほどの実力派の人気役者になった。その弟子が大谷鬼次(初代)で、師の広次の死後、二代目を継ぐ。この二代目広次(1717~57)が鬼次時代に使っていた俳名は、東洲である(広次になってからの俳名は十町)。

 ここで私は、えっと思いました。東洲斎写楽の東洲と同じではないか!

 写楽が描いた大谷広次(1746~1802)は、三代目。でっぷりとして凄味のある敵役である。彼は二代目広次の弟子になり、春次と名乗り、次に二代目鬼次になり、宝暦3年(1753)に広次を継ぐ。俳名は本州(鬼次時代)、十町(広次時代)。屋号は丸屋、定紋は○に十。
 三代目広次の代で、大谷一門の襲名系統、春次→鬼次→広次(→広右衛門)が成立する。
 
写楽「三代目大谷広次の奴土佐又平」と「三代目大谷鬼次の川島治部五郎」
*広次と鬼次は、師弟関係にあります。

 写楽が描いた大谷鬼次(1761~1796)は、三代目広次の弟子で、子役時代は永助といい、春次(二代目)を名乗って、天明7年(1787)11月、27歳の時に鬼次(三代目)を継ぐ。そして、俳名を初代鬼次と同じく、東洲とする。
 ここでまた私は驚いたわけです。鬼次は、写楽が活躍を開始した頃、俳名が東洲だった!

 鬼次は、敵役で人気を博した役者である。天明8年正月の中村座の役者一覧では、敵役の部に鬼次の名があり、「此度より師匠の旧名鬼次と改名」とある。


写楽「鬼次の江戸兵衛」(部分図) 

 写楽が描いた傑作「江戸兵衛」によって、鬼次は永遠不滅の人物になったと言えるでしょう。
この絵を見ても分かるように、師匠の広次とはタイプが違い、シャープでいかにも個性的な憎まれ役にふさわしい顔付きです。
 鬼次は、中村座で活躍した後、河原崎座へ移る。これは中村座が寛政5年、経営破綻で休座したからで、中村座の控櫓は都座だが、鬼次は河原崎座へ招かれたのだろう。寛永5年から6年にかけ、敵役として、その人気はピークにあったと思う。30代半ば、実力がめきめき付いてきたにちがいない。寛政6年(1794)正月、河原崎座の曽我狂言では鬼王を演じている。豊国が描いたその時の舞台絵(三枚組の劇場図)では、二代目門之助の曽我十郎と岩井半四郎の月小夜を相手に熱演している。当時の歌舞伎の舞台と客席の様子がよく分かるので、掲載しておきます。


豊国 寛永6年正月の河原崎座


上の図の部分拡大図。鬼次、半四郎、門之助
 
 鬼次は、普通なら師匠の名を継ぎ、四代目広次となるところだが、この路線を外れ、なんと稀代の名優中村仲蔵(1736~1790)の名跡を継ぐ。寛永6年11月の顔見世興行から、二代目仲蔵を名乗る。これは異例なことで、実力と人気がなければ襲名できないと言える。屋号は栄屋、俳名も秀鶴と改める。
 しかし、二年後の寛永8年、36歳で死去。


写楽「二代目仲蔵の百姓つち蔵実は惟高親王」
*写楽が第三期に発表した鬼次改め二代目仲蔵の大首絵(間判)。

 写楽の第三期の10点の大首絵には、すべて屋号と俳名が書いてあるのですが、5人の役者に誤字があり、これは写楽研究者も理解に苦しむところです。江戸時代のこの頃の漢字表記はかなりいい加減で、一部ひらがなにしたり、読みが同じ違う漢字を代用したりすることがあるのですが、写楽の大首絵は、間違い方が尋常ではないようです。仲蔵も屋号は写楽の絵にある「堺屋」ではなく「栄屋」が正しいとのことです。ほかに、納子(訥子)、路孝(路考)、天王子屋(天王寺屋)、橘屋(立花屋)。( )内が正しい字です。
 なぜ、写楽は大首絵にわざわざ屋号と俳名を書いたのか(第1期の大首絵にはありません)、それも不思議ですが、これほど漢字を間違えるのは、歌舞伎を知らない絵師が描いたとしか思えないわけです。第3期の大首絵は、人物の描き方が平板で立体感がなく、緊張感も迫力もなく、第1期の大首絵の傑作群と比べて、数段劣るとしか思えません。これは、専門家だけでなく、ほとんどすべての人が絵を見て、感じることです。落款も、東洲斎写楽ではなく、すべて写楽になっていますが、第1期の絵を描いた写楽とは、別人が描いたのではないかという説があります。その説は私ももっともだと思います。第1期の東洲斎写楽を初代として、第2期あるいは第3期以降、二代目写楽が描いたとしたほうが良いのはないか、というのが現在の私の考えです。

 それはともかく、写楽は、鬼次と二代目仲蔵を6点(二人像を含め、版下絵を除く)も描いています。大判2点、細判3点、間判1点です。6点以上描いた役者は、八百蔵10点、宗十郎9点、中山富三郎9点、高麗蔵8点、菊之丞7点、半四郎7点、鰕蔵6点です。広次は3点です。
東洲斎写楽と、俳名を東洲という鬼次との間には、なにか深いつながりがあったのではないか、と勘ぐりたくなります。

 それと、もう一つ、助五郎という役者を調べていて、気がついたことがあります。初代も二代目も、俳名が魚楽というのです。魚楽と写楽、なんだか似ているなあと思って、初代中村助五郎(1711~1763)を調べてみると、彼は二代目大谷広次と名コンビだったことが分かりました。「助・広次」とか、俳名を呼んで「魚楽・十町」と、並び称されていたそうです。どちらも敵役が得意な個性的な役者だったらしく、寛延2年(1749)の曽我狂言で、助五郎が股野五郎、広次が河津三郎に扮して、舞台で相撲をとって以来、二人とも有名になったとのことです。後年、式亭三馬は、二人を浅草寺の仁王にたとえたそうです。
そこで、二代目助五郎(1745~1806)なのですが、前回書いたように英泉が写楽の描いた役者名に挙げているのに、写楽の絵が現存していない。吉田暎二が助五郎だとしている版下絵(彦三郎、喜代太郎との3人像)が1点あるだけです。英泉は、多分年寄りから広次と助五郎は名コンビだったと話を聞いて、写楽の絵も時代も確かめもせずに、助五郎の名前も入れてしまったのではないか。一応私はそう考えてみたのですが、どうも納得がいかない。だいたいこの二代目助五郎という役者が今のところよく分からないのです。


勝川春童 二代目助五郎(部分図)

 二代目助五郎は、初代の子で、ずっと助次を名乗っていたが、宝暦13年(1763)11月、森田座で二代目助五郎を継ぐ。先代の父の死後だった。屋号は仙石屋、俳名は魚楽。男ぶりが良く、敵役を得意とした。それからの経緯が分からず、寛政10年、中村座の頭取(兼敵役)になる。享和3年(1803)、養子に3代目を継がせ、引退。文化3年(1806)、62歳で死去。

 写楽と俳名が魚楽の二代目助五郎も、何か関係があるような気がしますが、おいおい調べていきたいと思っています。


写楽論(その21)~「浮世絵類考」(4)

2014年05月08日 08時21分32秒 | 写楽論
 さて、天保4年(1833年)、「浮世絵類考」の大増補版が出来ます。浮世絵師・渓斎英泉(1790~1848)が大和絵と錦絵の変遷といった概説を書いて巻頭に置き、新たに浮世絵師(合計86名)を加えて本文を大幅に増補し、本の題名も「无名翁随筆」と変えて、上下二巻本を完成させます。无名翁(むめいおう=無名翁)とは英泉の別号です。これが「続浮世絵類考」とも呼ばれるものです。この本は、現在、良い写本が見当たらず、国立国会図書館蔵の「燕石十種」に収録されたものがあるだけだそうです。(「燕石十種」は、江戸時代末期に日本橋の古本屋・達磨屋五一の養子・活東子(本名岩本佐七)が父の協力を得て、江戸期の随筆の珍書奇書を編纂した10巻の全集)
「无名翁随筆」は、「浮世絵類考」の原型がほとんど小さく埋もれてしまったような本です。ざっと目を通しましたが、巻頭に英泉が長々と「大和絵師浮世絵考」という概説と、もう一つ、こっちは短いですけど、「吾妻錦絵之考」という概説を書いて、やっと絵師の項目別紹介が始まるので、正直、読んでいてうんざりしました。
 英泉はめったに役者絵を描かなかったということですが、彼は明らかに、役者絵を見下げています。概説の中で、「近頃俳優の面を似せ画き、女児の弄(び)ものとなせしより一端の興画、大和絵師の永く汚名の基となる嘆(わ)しきかな。今俳優の似画、戯場の繁盛に随(い)て浮世絵師の名、是より汚れ、愚俗の為に廃せられしは彼党の罪ならずや」と書いています。
 写楽のところは、「五代目白猿 幸四郎(後京十郎と改) 半四郎 菊之丞 富十郎 広次 助五郎 鬼治 仲蔵の類を半身に畫たるを出せし也」と付け加えていますが、歌舞伎嫌いを標榜している英泉が、なぜ9人も役者名を並べたのか不思議です。役者絵の得意なほかの絵師には、役者名があっても、一人か二人です。それと英泉は、写楽の絵を自分の目で見て、描かれた役者も覚えていたんでしょうか。きっと、役者絵に詳しい年寄りに聞いたのだと思います。英泉が生まれたのは寛政2年(1790年)で、写楽の絵が出回った時は、5歳かそこらだったわけで、この本を書き上げた天保4年(1833年)は写楽登場から三十数年後です。役者も多分全員死んでいます。

 美術評論家の瀬木慎一が、天保期(天保末から弘化の初め)に写楽が再評価され、彼の役者絵は再版された可能性があると言っています。つまり、写楽の絵は異版が多く、その理由として天保期に再版されたという説でした。この時期に再版されたということは疑問ですが、写楽が再評価されてきたということはあり得ます。写楽が消え、歌麿が死んで、浮世絵界は豊国とその一派が支配するわけですが、1825年に総帥の豊国が死んだあと、絵師仲間や業界で、忘れられていた写楽がまた注目されてきた。豊国の絵はうまくて、俗受けはするけど、何か足りない。しかも、歌川派の粗製濫造です。写楽の絵を見たことのある浮世絵のプロは、写楽の絵にインパクトを感じて、少なからず影響を受けていたはずです。豊国の絵も国政や国貞(三代目豊国)の絵も写楽の真似をしていることをプロは見破っていたと思います。英泉は、そうした写楽再認識の気運を肌で感じて、写楽のところに何か補足を書かなければならないと思った。が、何も知らないから困って、描かれた役者の名前だけ、だらだらと書いた。この補記の書き方には問題がありますが、英泉が補記を書く必要性を感じて、二行にわたって長々と書き加えたことには意味があります。

 それにしてもずいぶん役者を並べたものです。
 まず、五代目白猿というのは、五代目団十郎。写楽が描いた時は名跡を息子(六代目団十郎)に譲って蝦蔵と名乗っていました。一度引退して、六代目が早世するとまた復帰して、俳号の白猿を芸名に使いました。だから、五代目(後白猿)とすべきです。それとも当時は、後世まで名の轟いた五代目のことを五代目白猿と呼んでいたのでしょうか。英泉がこれを書いた頃は、七代目団十郎が息子に団十郎の名を継がせた直後です。そして、七代目団十郎が最後の名として白猿(二代目)を名乗るのはずっと後年のことです。
 幸四郎(のち京十郎と改名)は、四代目幸四郎のことですが、英泉の時代は、五代目幸四郎(鼻高幸四郎で、写楽が似顔絵を描いた頃は三代目市川高麗蔵)の晩年です。
次に続く半四郎は四代目、菊之丞は三代目ですが、この二人は何代目と言わなくても、江戸中期の代表する女形なので、問題ありません。
 しかし、以下の5人の役者名が問題です。写楽が描いた役者を挙げていると思われますが、富十郎は初代中村富十郎のはずで、二代目富十郎が登場するのはずっと後年なので該当しません。初代中村富十郎(1719~86)は写楽が絵を描いた寛永6年(1794年)には故人で、写楽が彼の半身像を描いたというのはおかしいわけです。写楽の二枚組の追善絵(いわゆる死絵)に二代目門之助を描いたものがあり、右側の絵の方に描かれた女形(全身像です)は富十郎にちがいないと写楽研究家の吉田暎二が主張してから、その説が一般化しているようですが、本当は疑問符がつきます。


写楽 間判(寛政6年11月)
*左下の女形が、富十郎だとされていますが、中村野塩、小佐川常世という説もあります。

 英泉が書いたこの富十郎というのは、宗十郎あるいは富三郎(中山と瀬川の二人います)の間違いなのではないか、と私は思っています。
 広次は三代目大谷広次(1746~1802)、助五郎は二代目中村助五郎(1745~1806)のはずですが、現存する写楽の絵では広次の絵が二点ありますが半身像は見当たらず、また助五郎を描いた絵は、版下絵(1枚あります)を除いて、1枚もありません。
 鬼治(鬼次が正しく、本来は広次の前名)は、写楽が描いたあの有名な大首絵「江戸兵衛」の鬼次で三代目大谷鬼次(1761~96)です。この役者については、今度詳しく調べてみたいと思うですが、写楽が「江戸兵衛」を描いた当時(寛政6年5月)、鬼次は、34歳(数え)。その頃悪役として大変人気があったらしく、同じ「恋女房染分手綱」で、江戸兵衛のほかにもう一役、大敵(おおがたき)の鷲塚官太夫を演じています。寛政6年11月に彼は、名人と謳われた中村仲蔵を襲名し、二代目仲蔵を名乗りますが、襲名後間もなく死んでいます。没年は寛政8年(1796年)、享年36歳です。英泉の補記にある、「鬼治 仲蔵」は、「鬼次(後に仲蔵)」と書くべきところだったと思われます。この仲蔵は、落語にも出て来る名人の初代仲蔵(1736~1790)ではないはずです。
 英泉の補記は、このように非常にいい加減で、「~の類(たぐい)」という言葉もひっかかるし、実際写楽の絵を見て、役者を確かめて名前を書いたのではないことが分かります。
 長々と書きましたが、江戸時代中期の歌舞伎役者をいろいろ調べていて、面白いことを発見したので、それを次回に書いてみたいと思います。


写楽論(その20)~「浮世絵類考」(3)

2014年05月07日 23時38分23秒 | 写楽論
 今回は、大曲駒村編「浮世絵類考」を全編読んだ私の感想を書いてみたいと思います。
 この「浮世絵類考」は、昭和16年9月発行、小島烏水・序文、大曲駒村・校訂。限定300部の和綴の稀少本で国立国会図書館所蔵。大田南畝の原撰本に近く、笹屋邦教の付録、京伝の「追考」、三馬の補記が加えられたものです。
 本文を読んで感じたのは、南畝のコメントがずいぶん主観的であることです。好き嫌いがはっきりしていますし、絵師によってはバッサリ一刀両断みたいな文があって、面白く感じました。一筆斎文調は、「男女風俗、歌舞伎役者絵ともに拙き方也」で終わりです。歌舞伎堂(艶鏡)などは「役者の似顔のみ画きたれ共、甚(だ)つたなければ、半年ばかりにて行われず」です。蜀山人先生は、役者絵そのものがお好みじゃなかったようです。鈴木春信のところに、わざと、「春信一生歌舞伎役者の絵をかかずして曰く、我は大和絵師なり、何ぞ河原もの容を画くにたへんやと、其志かくの如し」と書いたことに、南畝の浮世絵観が表れていると思いました。役者絵を多く描いた勝川春章は、長々とエピソードまで書いていますけど、やや侮蔑的な書き方です。春好、春英は、横っちょに加えて、弟子で終わり。まあ、それに比べれば、写楽はましなほうでしょう。写楽の前にある国政についてのコメントは「歌舞伎役者の似顔をうつす事をよくす」で終わりです。南畝は、古い絵師については、敬意を表してかなり詳しく調べて書いていますが、同時代の若い絵師には関心がなさそうで、コメントも投げやりです。誰か若いヤツがあとで書き足せばいいんじゃないかと思ったのかもしれません。もしかすると後ろの方に挙げた絵師のコメントは、南畝自身のものではなく、人から聞いたことを書きとめただけのような気もします。それと、親しい友人の関係者には気を遣って、持ち上げて書いています。親しくしていた山東京伝(北尾政演)の師匠の北尾重政は、「近来錦絵の名手也」といった褒めようです。


石崎融思 「大田南畝肖像」(部分)(個人蔵)

「写楽論」を展開する上で大切だと思うことは、写楽のコメントのところばかりを重箱の隅をつつくように論じていないで、まず、太田南畝という当代一流の傑物(相当風変わりで偏屈なオジサンのようです)の浮世絵観やコメントの傾向の分析から出発しないとダメだと思います。南畝と蔦屋重三郎は友人というか、南畝は蔦重には吉原でずいぶん接待されて恩義があるわけですから、写楽のことを悪く書くわけにはいきません。だから、役者絵を描いている他の絵師に比べて、非常に好意的、同情的なコメントになっていると思います。それを写楽ファンの学者や評論家は、逆に受け取っています。みなさん、「類考」はちゃんと読んでいるとは思いますが、写楽を崇め奉っているからではないでしょうか。「あまりに真を画んとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず」というコメントは、簡潔に写楽の本質をついていると思います。他の絵師のコメントには、もっとそっけないものです。
 それから、三馬の補記ですが、南畝の意を汲んで、抜けているところを一生懸命補っているように感じられます。筆がすべって、どうでもいいようなコメントもありますけど。京伝の「追考」は、古い浮世絵師だけ詳しく書いて、途中で投げちゃっています。京伝は、晩年(といっても40代)、考証癖が出て、偉そうな文章になっています。先日、京伝の黄表紙を三つほど読みましたが、若い頃の文章は才気と独創力に満ち溢れています。が、「追考」は、個性のない詰まらない文章でした。京伝がいちばん同時代の絵師たちを知っているはずなのに、同時代の絵師については、写楽を含め、ノーコメントなのはどうしてなのでしょうか。三馬が補記を書いたいろいろな絵師の名を見ると、京伝が採り上げた絵師とダブっていないので、もしかすると南畝が三馬と京伝の二人に「類考」の補足を依頼して、割り当てを決めたのかもしれません。
 三馬は南畝を敬愛していたためか、この頃(文政年間の初めで、三馬はすでにベストセラー作家になっています)、忙しい上に病気がちだったのに、「類考」の補記を引き受けたのだと思います。この執筆も自ら買って出たのではないでしょうか。人に聞いたり、自分で調べたりして、几帳面に書いています。大先輩二人(京伝は死んだが、南畝は生存中)のあとに書き継ぐわけですから、いい加減に書くはずがない。「類考」は私家版で、写本で普及し始めたようですが、いつ出版されて世に出回るかも分からないし、まともな本ですから、三馬だってインチキなことは書けない。三馬が町の風説を信じ込んで、検証もせずに適当に書いたみたいことを言う学者がいますが(雑誌「太陽」の写楽特集号に由良哲次の文章がある)、そんなことはないと思います。写楽に関する三馬のコメントの「号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス、僅ニ半年余行ハルルノミ」は、三馬が確かだと思ったことを書いたはずです。
 写楽が登場した寛政6年、三馬は18歳、黄表紙の処女作を書いた頃のようです。父が版木師で、地本問屋に奉公に出された三馬は、出版業界のことは身をもって体験していた。三馬は、自分が扱っている本の売れっ子作家のようにいつか自分もなりたいと志していた人で、若い頃から、草双紙や浮世絵のことは、裏情報も含め、かなりよく知っていたはずです。同業人の知り合いも多かったと思う。写楽の正体も本当は知っていた可能性もあります。写楽に関しては、正体を明かしてはならない事情があって、関係者には緘口令がしかれていたのかもしれません。だから、三馬は、漠然と住んでいる場所だけ「江戸八丁堀」と書いた。東周斎の誤字は、「類考」を写した人が間違えたのかもしれません。
 三馬は、享和2年(1802年)発行の黄表紙「稗史億説年代記(くさぞうしこじつけねんだいき)」(三馬の自作自画)の巻頭「倭画巧名盡(やまとえのなづくし)」に古今の浮世絵師の流派別分布図を載せ(拙宅の書庫に有朋堂文庫「黄表紙十種」があり、そこに載っていたので見てみました)、孤島に写楽の名を記しているほどで、写楽を知っていたことは間違いありません。三馬がこの黄表紙を書いた享和2年は、山東京伝が「追考」を書き上げたのと同じ年で、写楽が消えたと言われる寛政7年(1795年)正月から約7年後のものです。


「倭画巧名盡(やまとえのなづくし)」の下段の図

 「寫樂」(旧字)の島は、真ん中の大きな島(昔の絵師たち)の右側に離れてあります。孤島なのは流派に属せず、独立して一家を成した絵師だということです。タイトルの下に、歌麿と北斎の島もあり、同じく孤島になっています。これで、三馬は、写楽のことを歌麿や北斎と同等の絵師として認めていたことが分かります。