背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その19)~「浮世絵類考」(2)

2014年05月07日 00時55分11秒 | 写楽論
 浮世絵と浮世絵師に関し、寛政期に編まれた一種の事典が「浮世絵類考」です。編纂者は、安永・天明期から寛政期にかけて文化人のリーダー格であった文人・大田南畝(なんぽ 1749~1823 四方赤良、蜀山人ほか多くの別号がある)でした。
 南畝は、寛政7年から寛政12年(1800年)までに、代表的な絵師30数名を選択し、紹介文を付けて、本文を完成しました。これが「浮世絵考証」と呼ばれるものです。
 寛政12年(1800年)5月末、笹屋邦教(新七)作成の系譜「古今大和絵浮世絵始系」(版元鱗形屋から刊行)を南畝が書写して、付録として補綴します。笹屋邦教は「江戸・本銀町(ほんしろがねちょう)、縫箔(ぬいはく)屋主人」とありますが、経歴不詳。縫箔とは着物の模様に刺繍や金箔・銀箔の貼り込みをする職業です。
 享和2年(1802年)、戯作者で当時ベストセラー作家であった山東京伝(浮世絵師でもあり、画号は北尾政演)が「浮世絵類考追考」を書きます。これは、京伝が手書きして綴った私家版と言えるもので、「浮世絵類考」を参照しながら、さらに初期の浮世絵師を付け加えて文章を書き、菱川氏および英氏の系図も作成しました。同年10月に、京伝は「浮世絵類考追考」を脱稿します。この「追考」は、出版されずに京伝の家に保管されていて、文化13年(1816年)京伝が亡くなった後に、大田南畝のもとへと届けられたようです。
 文政元年(1818年)、南畝が、「類考」の本文と笹屋邦教の「付録」に、京伝の手書きの「追考」を加え、奥書を書いて、三部作として完成しました。
 これが、「浮世絵類考」の原本です。この本は出版されず、写本のみによって流布します。(原本そのものは、現在未発見)
 写楽についての記載は、本文中にのみあり(笹屋の付録にも京伝の「追考」にも写楽の名前はありません)、南畝が書いたとされる次の一文です(写本によって表記が多少異なります)
是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止む
 文頭の「是また」というのは、写楽の前に国政の項があり、「歌舞伎役者の似顔をうつす事をよくす」という記述に続くため、加えられた語句です。国政(歌川国政)は写楽の後輩ですが、絵師の配列は、必ずしも年代順になっていません。国政の師匠の豊国があとに出てきたりします。
「あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば」という部分の解釈が問題です。まず、「真」と漢字の読みは、「しん」なのか「まこと」なのか、どちらにせよ、その意味は、「ありのまま」「偽りのないほんとうの姿」ということだと思います。「あらぬさま」の意味は、「違ったように」から一歩進めて、「とんでもない様子に」といった感じでしょう。つまり、現代語に直せば、「あまりにもありのままの顔を描こうとして、とんでもない様子に描いてしまったので」ということだと思います。
「ありのままの顔」を描こうとしたのは写楽の作画上の意図で、「とんでもない様子」というのは、役者や贔屓筋やファンにとっての絵を見た時の印象なのでしょう。
 さて、原本の「浮世絵類考」は、いろいろな人が南畝から借りて、筆写し始めます。大名の殿様から命令された家来や南畝が親しくしている文化人たちで、一字一句正確に写して、余計な書き込みを入れなかった人もいたでしょうが、多くの人は、筆写しながら、字を変えたり、間違えたり、さらには、自分のコメントをその時(あるいは後で)、余白に加えたりしました。その写本をまた別の人が借りて、筆写して、また同じことをしていくわけで、時期を経ながらあちこちにたくさんの写本が生まれていきました。
 現在、「浮世絵類考」は、国内外に120種以上の写本、異本が存在しているそうです。また、本の題名も「浮世絵画師名」「浮世絵師考」「浮世絵師姓名考」など、勝手に変えてしまったものもあるといいます。


「浮世絵類考」写本の一つ(国立国会図書館所蔵)
*南畝の本文に三馬の補記があるものです。

 南畝が生きている間に、原本を南畝自身から借りて筆写した人に、加藤曳尾庵(えいびあん)という元水戸藩士で開業医になった人物がいます。南畝とは知り合いです。文化12年(1815年)、曳尾庵は写本に加筆し、写楽について「筆力雅趣ありて賞すべし」とコメントを加えます。このいわゆる「曳尾庵本」は、京伝の追考のない(三馬の補記もない)写本で、南畝の原撰本に準拠しています。
 その後、文政4年ごろまでに、滑稽本「浮世風呂」「浮世床」を書いて人気作家になった式亭三馬(1776~1822)が三部作の原本に書き込みを入れます。これが三馬の「按記」(三馬按ズルニ……で書いた補記)と呼ばれるものです。「按(あん)ズル」とは、この場合「考える」「調べる」といった意味で、硬い言葉で言えば「考証する」ということなのでしょう。
 写楽については、「三馬按、写楽号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス。僅ニ半年余行ハルゝノミ」と書き加えます。号は東洲斎が正しく、「東周斎」の周は誤字です。
 三馬は、写楽が江戸の八丁堀に住んでいること(文政4年時点です)、そして、写楽の絵が刊行されたのは、「一両年」(本文)ではなく「わずか半年あまりにすぎなかった」ということを明示します。
 文政5年(1822年)1月、三馬、46歳で死去。
 文政6年(1823年)4月、大田南畝、75歳で死去。


写楽論(その18)~「浮世絵類考」

2014年05月06日 00時00分20秒 | 写楽論
 浮世絵の研究が始まる明治半ばから、研究が盛んになる大正時代を経て、昭和10年代の研究の集大成期に至るまで、写楽に関しては、「浮世絵類考」の補記の内容から一歩も踏み出せなかったと言っても良いでしょう。
 そして、「写楽は、阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛といい、江戸八丁堀に住んでいた」ということは専門家から一般人までほとんどの人がずっと信じて疑わないことでした。したがって、その研究(というより探索)は、この斎藤十郎兵衛という人物の実在を突き止め、この人物の生年没年、出自や経歴を明らかにすることに集中しました。
 なかでも、いちばん熱心だったのは著名な人類学者の鳥居龍蔵(1870~1953)で、同じ阿波(徳島)出身ということもあって、大正の末頃から斎藤十郎兵衛の探索に乗り出しました。地元の資料や墓石などを調査して、何度かの誤認にも挫けず、ようやく斎藤十郎兵衛が実在していたことを突き止めます。昭和6年12月号の雑誌「武蔵野」に掲載された論文「写楽は絵を捨てた後どうしたか」の中で、鳥居博士は、文政8年以前でない能番組(江戸蜂須賀邸で催された)に斎藤十郎兵衛が喜多流の能楽「巴」のワキ役およびその他の役を勤めているという記述があることを発表しました。ほぼ同時期に徳島の森敬介という学者が斎藤十郎兵衛の出演している能番組があったという報告をします。これで、斎藤十郎兵衛が実在する能役者だったことが確かめられたのでした。
 
 一方、唯一の文献である「浮世絵類考」の検証も進んでいきました。この本は、原本が出来てからずっと刊行されたことがなく、手書きの写本によって普及していきました。明治22年になって初めて、増補された時期が最も新しい写本が単行本(「戯作者略伝」との合本)になり、畏三堂から出版されます。「新増補浮世絵類考」と題され、慶應4年に龍田舎秋錦が斎藤月岑編「増補浮世絵類考」を再編集したものです。
 その後、違った写本が幾度か刊行されましたが、ようやく底本に近い「浮世絵類考」が出版されたのは昭和16年のことでした。その時、2種類の「浮世絵類考」が出版されます。
 一つは、大曲駒村編の限定版「浮世絵類考」で、もう一つは仲田勝之助編の岩波文庫版「浮世絵類考」です。
 前者は、文政4年に大田南畝が編纂を終えた時の原本(三部作)に最も近い形のもので、後者は、原本とそれに書き加えられた重要な補記をすべて掲載し、活字の級数と頭注でその区別が分かるようにした総合版といったものでした。前者は、発行部数が300部だったので、あまり普及しなかったようです。後者は、岩波文庫なので大変普及し、戦後になっても再版されました。(40年ほど絶版になっていたようですが、1991年に復刊しています)
 大曲駒村編の「浮世絵類考」は、国立国会図書館のデジタルライブラリーにあるので、私は全ページをプリントアウトし、熟読しました。岩波文庫の「浮世絵類考」は復刊本を買って、ざっと読んでみました。
 それぞれの本で、写楽の項目に書かれていることを以下に記しておきましょう。(新字体にしておきます)

 
 大曲駒村編「浮世絵類考」

   写  楽
是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止む
 三馬按、写楽号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス。僅ニ半年余行ハルゝノミ



 岩波文庫「浮世絵類考」

   写 楽 斎  【曳】東洲斎写楽
     【新】俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿波侯の能役者也。
これは歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止ム。
【曳】しかしながら筆力雅趣ありて賞すべし。
 【三】三馬按、写楽号東周斎、江戸八丁堀に住す、はつか半年余行はるゝ而已。
 【無】五代目白猿 幸四郎(後京十郎と改) 半四郎 菊之丞 富十郎 広次 助五郎 鬼治 仲蔵の類を半身に画たるを出せし也。
【新】回り雲母を摺たるもの多し、俗に雲母絵と云。


 *【曳】=加藤曳尾庵による写本。通称「曳尾庵本」
  【三】=式亭三馬による補記
  【無】=渓斎英泉による「無名庵随筆」。通称「続浮世絵類考」
  【新】=龍田舎錦秋編「新増補浮世絵類考」


写楽論(その17)~先人たちの写楽研究について

2014年05月05日 23時01分39秒 | 写楽論
 写楽に関する研究は、これまで主に三つの方面からなされてきました。

 第一は、残された写楽の版画(これに加えて数点の版下絵と肉筆画)の、絵そのものの分析と解明です。美術史学的な検証が行われ、作画上の特徴がいろいろと指摘されてきました。
 第二は、歌舞伎関係からの研究です。写楽の絵の大部分は、扮装した歌舞伎役者の上半身または全身を描いた役者絵なので、着物に描かれた紋(余白に屋号や俳号が書かれている絵もあります)と容貌から、その役者が誰かを判定し、さらに衣裳や小道具、役者の表情や容姿から、歌舞伎の演目と役名、そしてどの場面での役者の様子を描いたのかを特定していきました。
 第三は、写楽という絵師は誰なのかという人物の解明に関する研究です。これは、書物や口伝といった文献史料に基づいて行われてきました。その周辺をめぐる研究として、写楽の絵が出された当時の出版状況や写楽の絵に対する評価、版元の蔦屋重三郎についての研究が加わっていきました。

 第一と第二の方面からの研究は、美術研究者や歌舞伎研究者の多くが携わり、かなり詳しい調査が行われてきたので、成果も上がり、現在、ほぼ出尽くした感があります。とはいえ、まだ判定できていないことや疑問の余地も残されています。

 これまでに私がざっと読んだ著書ないし論文(戦前のものに限る)は、以下の通りです。発行が古い順に並べ、簡単な私のコメントも加えておきます。



 ユリウス・クルト「写楽」(ドイツ語版原書:明治43年初版 大正11年再版 日本語版:平成6年発行 アダチ版画)
*学術的考察とイマジネーション豊かな叙述とが一体化した読み応えのある著書でした。苦悩する能役者の写楽が描かれている章が圧巻。だだし、訳文が直訳調で読みにくく、誤訳も多い印象を受けました。日本美術研究家の山口桂三郎が序文を書いていますが、前半に訂正すべき事項が3箇所ほどあります。

 橋口五葉編「浮世風俗 やまと錦絵――錦絵全盛時代 中巻」(大正7年 日本風俗絵刊行会) 写楽の画風および図版の解説。
*日本画家の目から見た写楽観は、言いえて妙。橋口五葉は、漱石の本の装丁者としても有名ですが、大正期はじめに浮世絵の研究をして、歌麿風の木版美人画を制作し、傑作を何点も残した画家です。


橋口五葉・画 「手拭い持てる女」

 野口米次郎「六代浮世絵師」(大正8年 岩波書店)所収の『驚異の大写楽』*詩人らしい独特な文章で、写楽を賛美するこうした文章も一読に値するものです。学者の味わいのない生硬な文章より、魅力的です。

 藤懸静也「浮世絵」(大正13年 雄山閣)の『写楽』の章
*これぞ学者の文章。ただし、藤懸静也という碩学は、尊敬に値する美術史家です。

 仲田勝之助「写楽」(大正14年 アルス美術叢書)
*写楽について1冊の本として書かれた、日本で最初のものです。仲田勝之助は、学者というよりジャーナリストで、興味本位で書いている面が目立ちます。

 藤懸静也「松方浮世絵版画集解説」(大正14年 太陽出版社) 写楽の絵4点の解説。
*大正7年、松方幸次郎がフランスの宝石商アンリ・ヴェヴェールの浮世絵コレクションを一括購入し、約8000点が里帰りしました。その中に写楽の絵が70数枚あったといいます。数年後、松方コレクション100点の展覧会が、日本橋の高島屋で催され、その際に画集と目録解説書が作られました。藤懸静也がそれぞれの出品浮世絵について学者らしい解説を書いています。

 渡辺庄三郎校・井上和雄編「浮世絵師伝」(昭和6年 渡辺版画店)の『写楽』の項。
*この本は、浮世絵師事典としては画期的なものだと思いました。写楽のところなど百科事典の記述のようです。

 高見沢版「浮世絵十五大家集 第一冊 歌麿 写楽 北斎」(昭和15年 高見沢木版社)所収の井上和雄「写楽の輪郭」
*井上和雄という在野の浮世絵研究者は、雑誌「浮世絵」の編集をしたり、渡辺庄三郎主催の浮世絵研究会を支援したり、大変功績のあった人です。写楽の絵の年代考証と役名の特定は、彼の研究によるところが多いと思われます。

 吉田暎二「東洲斎寫楽」(昭和18年 北光書房)
*写楽研究の集大成本です。昭和32年に復刊されています。歌舞伎と浮世絵の研究をリンクさせた第一人者だったと思います。

 これで、私も第一、第二の方面からの写楽研究の概要と研究者たちの努力の跡がつかめました。
 しかし、第三の方面からの研究は、写楽について、写楽と同時代ないしはその時代に近い頃の文献史料がほとんどないために、進展もなく、成果を得られない状態が続いてきました。それについては、次回に述べたいと思います。


写楽論(その16)~フェノロサと小林文七と岡倉天心

2014年05月04日 04時36分36秒 | 写楽論
 写楽も含めて浮世絵に対する再認識と正しい評価への端緒を開いた人物は、日本人ではなく、米国人のアーネスト・フェノロサ(1853~1908)でした。そう言って間違いないと思います。
 フェノロサは、明治11年(1878年)に来日し、東京帝国大学で講義をした、明治政府のお雇い外国人の一人です。岡倉天心も坪内逍遥も彼の講義を聴き、影響を受けた日本人でした。とくに、岡倉天心(1863~1913)は、フェノロサの通訳として彼に同行し、関西の古い寺や神社を回って、美術品の調査にあたりました。フェノロサも岡倉天心も明治政府の文部行政にかかわり、日本の美術振興に貢献した人物で、とくに指導者のフェノロサは、日本の美術全般に対し、日本人の目を見開かせてくれた啓蒙思想家で、日本美術界の大恩人と呼ばれています。東京美術学校(今の東京芸術大学)の創立に尽力したのもこの二人です。


アーネスト・F・フェノロサ

 私はもちろんフェノロサの名前も、また彼が日本で何をしたのかくらいのおおよそ知ってはいたのですが、彼が書いた文章も講演筆記もまったく読んだことがありませんでした。
 先日、フェノロサが緒論を書き、浮世絵の解説を口述した「浮世絵展覧会目録」(1898年=明治31年4月発行)を通読してみました(英文の和訳です)。そして、彼の浮世絵に対する愛着と造詣の深さに驚きました。
 この100ページほどの冊子は、浅草の画商で浮世絵の蒐集家でもあった小林文七(1861~1923)が、上野で浮世絵の展覧会を開いた時に作ったものです。小林は、かねてから親交の深かったフェノロサに、展覧会の出品作241点の時代考証を依頼し、作品を年代順に並べて、絵師の流派別分類からその画風、一点ごとの絵の解説まで口述してもらい、それをまとめたのでした。フェノロサはこの頃、すでに米国に帰国し、ボストン美術館の東洋部長に就いて、収蔵品(浮世絵は1万点収集されていたとのこと)の整理にあたっていたのですが、小林がフェノロサを日本に招聘したようです。フェノロサは、ニューヨークで世界初の浮世絵展覧会(1896年)が開かれた時、その監修と目録作成をしていました。
 この小林文七という人もたいした人物で、浅草・駒形で画商を営むかたわら、上野で浮世絵の展覧会を開いたり(明治25年11月に日本初の浮世絵展、明治31年に肉筆画の浮世絵展)、蓬枢閣という出版社を作って美術書を出版したり(飯島虚心の大著「葛飾北斎伝」、フェノロサの大著「An Outline of the History of Ukiyo-ye」など)、芸術家や作家のパトロンになったり、明治の美術界をリードした民間の大プロデューサーでした。浮世絵を含め収集した美術品を海外に売ったりもしました。とくにフェノロサには、ギブ・アンド・テイクで多くの美術品を献呈したようです。


飯島虚心「葛飾北斎伝」復刻版

 小林文七は大正12年3月63歳で亡くなりますが、彼の死後、9月1日に関東大震災が起り、土蔵に保管してあった小林の厖大な浮世絵コレクションがすべて焼けてしまいました。地震が起こった時、暑い日の昼時だったので、土蔵の小窓を開けておいたのが燃え落ちた原因だったそうです。写楽の貴重な版下絵9点(相撲絵の下絵)が灰になってしまったのは、この時でした。現在はその写真が残っているだけです。
 さて、「浮世絵展覧会目録」の話ですが、緒論でフェノロサは、浮世絵がこの20年間に海外流出した状況と日本人の浮世絵認識の低さを嘆き、浮世絵こそ日本の驚嘆すべき特殊で独立した平民美術であると評価します。そして、多色摺り木版印刷の世界に類のない技術の高さと浮世絵の審美的優秀さを賞賛し、また日本人にとっては浮世絵が考古的価値を有するものだと述べます。

「浮世絵は他に記述せられざる事実の無双の倉庫なり。風俗、衣服、結髪法、模様の流行、室内の装飾、市街の景況、また過去の人心が田舎の風景に対する感情は、完全なる浮世絵の蒐集によりて知るを得べし」

 そして、フェノロサは、まさにこの細かい社会風俗的な差異と美的傾向の変化を精密に比較検討することこそ、浮世絵の製作年代を特定する決め手になると力説します。それを彼が実行して、それぞれの作品の年代を特定したのがこの目録だったわけです。フェノロサの年代特定は、享保3年、明和2年、宝暦7年、寛政元年といったように非常に厳密なものです。ここには、フェノロサの考証学的美術研究の方法論が示されていて、日本の美術研究者は彼の方法論をその後見習っていくことになります。
 フェノロサは、春信、清長、北斎を高く評価していて、写楽はあまり好みでなかったようです。写楽の役者絵はこの展覧会ではなぜか1点しか出品されていなかったのですが、フェノロサの解説を引用しておきます。(よく写楽の本に引用されていますが……)

「第百九十一番 写楽板物 演劇図 一面 寛政六年頃
写楽は寛政間に出でたる荒怪なる天才なり。其人物は醜陋なる甚しければ、必ずやただ少数の感動を惹きしなるべく、米国の蒐集家は之を嫌忌すと雖も、仏国の其々蒐集家は写楽を頌して浮世絵最大家の一人と為すに躊躇せず。写楽の作は醜陋を神とし祭れるにて、従て又衰頽中最も衰頽せるものなり」



 展示された絵が何であったかは分かりませんが、写楽の絵についての一般論を述べています。また、もとの英語は分かりませんが、文中の「荒怪なる天才」=strange genius,「其人物は醜陋なると甚しければ」=because his portrait is too ugly(or indecent) だったのではないかと思われますが、「醜陋を神とし祭れるにて」と「衰頽中最も衰頽せる」は、誤解招くようなひどい訳文です。訳語が大袈裟すぎるので、これを引用する写楽研究者は、ぜひ注釈も加えてもらいたいと思います。梅原猛氏などは大変な曲解をしています。あの人は、明治時代の誤訳の多さを知らないのでしょうか。
 要するに、フェノロサの口述は、「写楽は人物を醜悪に描きすぎたので、きっと少数の人たちしか感動しなかったのだろう。(中略)写楽の作品はその醜悪さにこだわったため、すぐに衰微してしまったのだと思う」といったことなのでしょう。
 フェノロサは、写楽の絵を寛政6年と特定しています。女形役者の髪形や笄(こうがい)を見て、決めたのではないかと思いますが、すごいことだと感心しました。写楽の作画期を寛政6年から7年と特定したのは、フェノロサだったわけです。浮世絵研究の第一歩は、フェノロサから始まったと言えると思います。
 それと、写楽の絵は、明治半ばには、アメリカ人は好まず、フランス人が好み、最大の画家の一人だと評価していたことが分かります。
 フェノロサと岡倉天心は、明治18年(1882年)から翌年にかけて、美術学校設立のために、欧米視察を行っています。フランスではいわゆるジャポニスム(日本趣味)の真っ最中で、フェノロサはフランスで浮世絵の収集家や愛好者が多いことを知り、また天心は、フランスの画家たちが浮世絵を賛美していることを知って、勇気付けられたとのことです。天心は、帰国後、日本美術そして日本文化の復興へ向けて、本格的な活動を始めます。


岡倉天心

 ただし、岡倉天心は、浮世絵の版画技術と美しさは認めたものの、その享楽性を好まず、日本美術に高い精神性と理想を求めました。「東洋の理想」(The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan)(原書英文 1903年 ロンドンにて発行)では、こう書いています。

「かれら(江戸庶民)の唯一の表現であった浮世絵は、色彩と描画においては熟練の域に達したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いている。歌麿、俊満、清信、春信、清長、豊国、北斎などの、活気と変通に富むあの魅力的な色刷の木版画は、奈良時代以来連綿としてその進化をつづけてきている日本芸術の発展の主幹の経路からは外れているものである」(講談社学術文庫より)

写楽論(その15)~雑感(2)

2014年05月03日 23時04分31秒 | 写楽論

写楽 大谷鬼次の江戸兵衛(1794年)
*写楽の絵の中では最も有名なものの一つで、悪役です。

 写楽の絵が世に現れてから220年が経ちました。そして、写楽の絵が、日本人や世界の多くの人に愛好され始めてから、およそ100年になります。
 日本で写楽の絵の記念切手が初めて発行されたのが1956年ですから、それから60年になりますが、インターネットで調べてみると、写楽の記念切手は、全部で18種類もあるんですね。驚きました。浮世絵師の中ではいちばん多い。次が歌麿の記念切手で、14種類(2枚は同じ絵)です。ほかの浮世絵師はせいぜい一人3,4種類です。
 また、これまでに写楽の絵をあしらった商品は、文房具からTシャツまで数多くありますし、インターネットのアイコンにも使えわれています。おそらく、世界の画家の中で、写楽の利用度がいちばん高いのではないでしょうか。ダビンチの「モナリザ」や、ルノワールやピカソやロートレックの絵も思い浮かびますが、写楽の方がたくさん使われているように思います。
 浮世絵の複製も今でも世界中に出回っています。その中でも、写楽は人気が高いようです。私はおととい神保町の古本屋を回って、写楽について書かれた本を数冊買ってきましたが、原書房という浮世絵関係専門店へ行ったところ、外国人の方が5人いて、お土産用の浮世絵を探していました。写楽の絵を見ている人もいました。写楽の絵の複製はいちばん種類も多く、50種類以上はあったと思います。一枚3000円くらいで売っていました。
 ついでに、手塚書房という歌舞伎関係の専門店へも行って、江戸時代の役者のことが書いてある本を2冊買ってきました。
 写楽の絵について、今私が最も関心を持っているのは、第一期の大首絵28枚に描かれた役者たちと出演した舞台での役名(演目と劇場も含まれる)です。写楽の役者絵の中ではいちばん有名な「鰕蔵の竹村定之進」に関し、美術評論家や浮世絵研究者の解説に疑問を抱いたことは、前に書きましたが、まだその疑問につきまとわれています。疑りだすときりがなく、あの絵はほんとうに竹村定之進なのかという疑問も起りはじめました。
 それで、写楽の大首絵の役者と役名は、これまでの写楽研究で、いったいどんな人たちが何をもとに、またどういう経緯で特定していったかについて調べているわけです。つまり、写楽研究史みたいなことです。その辺のところをできるだけ知りたいと思っているのですが、と同時に、江戸時代の浮世絵がどういう経緯をたどって現在に至ったかについても興味があります。明治以降の浮世絵の運命とその評価の変遷のようなことですが、なかでも写楽の絵は、そのアップ・ダウン(実際にはダウン・アップ)が極端に激しい。評価の差がこれほど大きな画家はほかにはいないと思います。
 肖像画家ではフランス人のモジリアーニ(1884-1920)が思い浮かびますが、彼の場合は亡くなって10年後くらいから評価が上がって、戦後は、彼の人生の悲劇性もあって最大級の評価になりましたが、写楽とは時代的にも無視されていた期間の長さも比較になりません。


モジリアーニ 黒いネクタイをした女(1917年)

 ほかに、ノルウェー人のムンク(1863~1944)がいますが、近年、彼の絵の落札額がべらぼうに高いようです(なんと90億円!)。あの有名な「叫び」は、描かれてから約60年後にその評価が急上昇した絵ですが、彼もモジリアーニと同じく現代の画家なので、写楽とは比較になりません。


ムンク 叫び(1893年)

 油絵画家と版画家との違いもあります。写楽は、最初に書いたように、18世紀末の画家で、評価され始めるまでに100年ほどの忘却期があり、再認識されてからは、100年間、その評価に変動もなく、最大級の評価を維持し続けている画家です。