写真は、五島市福江の石田城址の台場である。
現在では、埋め立てられて陸地が増えているが、江戸時代はここから先は海で、異国船からの海防目的もあって築城された城跡らしい構えだ。
完成したのが文久三年(1863)というから、維新までほんのわずかの幕末期である。
私は、子供のころから馴染みのあるこの台場のことを思い出すにつけ、近年こういうことを想像するようになった。
約15年をかけての、海防目的をかねての城郭建設の意味合いは、当時を生きた五島家の家中(藩士)たちはじゅうぶんに理解していただろう。
秀吉時代以来藩主同士が代々の交友関係にあった平戸松浦家や大村藩からの情報や、長崎奉行所周辺からの情報で、五島家の家中(藩士)たちは本州にある藩士たちより時の情勢を知っていたのではなかろうか。
また、海側からその建築の様子を見ることがあった漁師や海運業の人たちも、何がなんのためにつくられているかを聞き及んだに違いない。
大工職や左官職や指物師などの技術者をはじめ、工事に関わった農漁村の人たちも、築城の目的や砲台場の様子や役割を盛んに身の回りの人たちに語ったに違いない。
漁師たちのなかには、怪しい異国の船影を見たものもいたかもしれない。
(2011年11月14日に公開した記事を修正しました)