「診察券もあったみたいで、そこに書いてあった名前はAだったんだって。だから、たぶん、本名はAさんだと思うよ」
「そうなんだ。名前、使い分けていたの・・・」
片足を引きずったおじさんは二つの名前を使い分けていた。
セカンドハーベスト{まだ食べれるが売れない食べ物を集め、それを配っている団体、二週目と四週目の土曜日は同じ場所で食べ物を配っている}の方のカードには偽名を使い、やはり病院の診察券には本名を使っていたのだろう。
山谷はそうしたことをする人は路上生活者である。
ドヤに入り、生活保護を受けている人では有り得ないことである。
だから、私は彼に名前を聞いたことがなかった。
以前、生まれた場所を聞いただけで怒り出すおじさんも居たくらいだった。
いろんなものを抱え、いろんなものから逃れ、どこにも居場所が無くなり、生きるために山谷にあのおじさんもたどり着いたのだろう。
私は彼には必ず声を掛けていた。
何を話す訳でもないが、彼の隣に座って話すことも度々した。
艱難辛苦を乗り越え、刻み込まれた顔の皺が穏やかな笑顔に深みを与えていた。
私はその笑顔に魅了された。
彼特有に懸命に生きた人生の表情が優しく何度も私を見詰めた。
彼は私の神さまであった。
「忘れられない。決して忘れられない。あなたのために祈っている」と私は隅田川を見ながら呟いた。
私にはもう会えないのが信じられない。
しかし、きっとあなたがまた姿を変えて、私の前に現れてくれるだろう。
私に愛を授けに来てくれるだろう。
いま、私はこの別れが愛となっていくのを感じている。
私がもっともっと愛情深くあれるように、この別れはしてくれている。
だから、私はあなたに感謝してもしきれないである。
「ありがとう」