カルカッタより愛を込めて・・・。

今月のアピア40のライブは3月21日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

あぶない、あぶない。

2012-02-13 12:54:41 | Weblog

 土曜日、あんとホームセンターに行った。

 このホームセンターに行くとあんはペット用の台車に乗る。

 この乗っている姿が可愛く、たまに「可愛い」と言われる。

 そこで内心「でれぇ」っとしてしまう。

 それでも、長い間乗っているとまだ微妙に怖いらしく、小刻みにブルブル震え始めた。

 だから、声を掛け、「大丈夫だよ」と言い、身体を撫でてあげる。

 そこで運良くあんの獣医さんに会った。

 あんは獣医さんが会う度におやつをくれるとっても優しい人と認識しているらしく、会うととても喜ぶのである。

 獣医さんに会い、喜んだあんはもう震えることはなかった。

 ここぞと思い、いろんなところを歩き回り、あんをいろんなものに慣れてもらおうと試みることが出来た。

 レジの近くにワインを置いてあり、そこに男性が一人販売員としていた。

 あんと近くを通ると、その彼はあんを見て、「ほんとうに綺麗ですね」と微笑み言ってくれた。

 あまりに褒めるのでその彼の顔を見返すこともままならず、お辞儀をしてレジに向かった。

 そして、また帰りにワインのコーナーの横を通ると、その彼は「ほんとうに綺麗ですね」と言った。

 今度はしっかりとその彼の目を見て、お辞儀をした。

 あんのことをそんなに褒めてくれるのなら、ワインの一本でも買って帰ろうかと思ったくらいだった。

 あぶない、あぶない、セールスのプロの技か、またはただの柴犬好きなのか、どうか分からなかったが買うつもりもない高いワインを買っても良いかなと思うほど、心を嬉しくなっていた。
 
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節分の日に。

2012-02-10 13:13:00 | Weblog

 先週の金曜日はドキドキしたことがあったとブログに書いたが、その内容はまだ書いていない。

 実は多摩川でこんなことがあった。

 あんはあいちゃんとたくさん遊んでいた。

 そこにマロン{パピオン}が来た。

 あんに「マロンが来たよ」と言うと「どこ!どこ!」と探し始め、見つけるともうダッシュで走っていった。

 マロンのおじいちゃんはあんのことが大好きで、ほんとうに可愛がってくれる。

 だが、それをマロンはいつも嫉妬している。

 マロンはあいちゃんとは遊べないので、あいちゃんとあいちゃんのお母さんは帰る準備をしていた。

 あんはほんとうに楽しそうだった。

 そこに突然節分を知らせる花火の空砲が鳴り、あんは怖がり、行き成り帰る方向へもうダッシュした。

 「あん!待て!」と言うとしばらくして止まり、自分の方を向いた。

 そこに間髪をいれずにもう一度花火の空砲があがり、あんは全速力で走り始めた。

 多摩川の沿線を信号のところまで見えたが、あっと言う間にあんの姿は見えなかった。

 とりあえず、あんは沿線道路を無事通ったことを確認してから、家に電話し、「あんが花火の音に怖がって帰っていったから家の前で待ってて」と母親に話した。

 あんは家に帰るだろうと、そう思えた。

 帰る道あんがどこかで怖がって隠れていないか、少しあたりを見渡しながら家に急いで向かった。。

 すると、家からすぐに電話が掛かってきた。

 あんがもうダッシュで帰ってきて、一目散に家のなかに入ってきたと連絡があった。

 多摩川からいつも10分以上は掛けて帰る道をあんは3分も掛けずに沿線道路や線路も一人で越えて帰っていった。

 もうドキドキだった。

 今思い出しても怖い思いがするくらい。

 だけど、あんは神さまに助けられた。

 あんの首輪には犬の鑑札とカルカッタでもらったマリアさまのメダイをつけてある。

 きっとマリアさまが助けてくれたのだろうと思う。

 息せき切って家に帰ると尻尾の垂れたままのあんが「怖かったよ~」と言う顔をしながら、自分を迎えてくれた。

 ほんとうに良く帰ってくれたと思う。
 
 あんはえらいと母親は何度も言っていた。

 それでも、自分のドキドキはなかなか治まらなかった。

 それから、昨日、あいちゃんとあいちゃんのお母さんに多摩川で会った。

 あいちゃんのお母さんの花火が鳴ったその状況を見ていたので、あんのことを凄く心配してくれて、あの日、自転車で来ていたから、急いで帰って探したけど、跡形もなかったと話してくれた。

 あんには「花火より、車や電車の方が怖いんだよ」と言ってくれた。

 あんは何だか分かったような分からないような顔して、あいちゃんのお母さんの傍にいた。

 それから、サン{パピオン}とサンのお母さんにも会った。

 サンのお母さんもあんが花火に脅えて逃げたことを知っていて、「良かったね!あんちゃん、ちゃんと帰れたんだね!」とあんに頭を撫でてくれた。

 それから、あんにおやつをくれた。

 サンも音に怖がって沿線道路を渡ってしまったことがあったけど、もう今は音に怖がっても、そんなに遠くには行かなくなったと話してくれた。

 あんもそうなってくれたら良いんだけどと思った。

 先週の金曜はあんはしばらく尻尾が垂れたままだった。

 一時過ぎにまた花火が鳴った。

 あんは怖がり、風呂場の前に狭いところに逃げていった。

 「大丈夫だよ!」と言って見に行くと身体をブルブル振るわせ脅えていた。

 久しぶりに見るブルブルに、あんはほんとうに怖いんだなと思った。

 そこをチャンスと思い、ヨーグルトを手に持って、あんにあげた。

 脅えているときは何も食べないあんだがヨーグルトは食べた。

 そして、「おいで」と言って呼ぶと、尻尾を垂らしたままだが来た。

 そこでヨーグルトをあげた。

 あんは美味しそうに食べた。

 こうして花火の音にもいつか慣れることを願うのだが、さて、どうだろうか。

 先のことは分からないが、あんは確実に成長している。

 以前は多摩川で花火の音を聞き、それで多摩川が長い間きらいになってしまったが、今はそうではない。

 今日も多摩川に行って走ってきた。

 穴掘りゴールデンは今日も自分の顔が入るくらいの穴を掘り続けていた。

 
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まったくちっぽけなサッティヤーグラハ。その3。

2012-02-09 13:10:04 | Weblog

 「洗われないもの。その2」

 それから、ほんとうに注意深く慎重に自分のうちを観るようにした。

 三年ぐらい掛かったが、自分の育ってきた過程やあらゆる思考から心のなかに浮かぶ感情を書き出してきた。

 それは自分を深める、自分を受け止め、受け容れる、自分になる作業であった。

 この日々のことはまたいつか書くことにし、話しを元に戻す。

 洗われることのないコップや急須を見下しの気持ちで内心恨みを増しながら洗っていたことの事実を知った後は、これを喜びを持って行うように試みた。

 マザーが言う「何をするのにも喜びを持って行いなさい」とその言葉に従うように自分の心と身体を試してみた。

 それからも、洗われないものを洗った、汚れを落とした。

 それでも、たまに浮かび上がる怒りがあった。

 その怒りに気付き、マザーの言葉を思い出し、そうできない自分がいることを一人告解し、祈り許しを請い、そして、笑い、マザーに少し話しかけ、また食器を洗った。

 自分には怒りに関する面白いことがある。

 それは怒りを感知すると、左の頭の表皮がしびれるのである。

 ロジャースと研究をしていたジェンドリンの言うフエルトセンスのようも思っていたが、これは怖いと思った時に鳥肌が立つ感じに似ているのではっきりとは決められないでいる。

 ただ孫悟空の頭の環に近いように思う。

 それはお釈迦さまに孫悟空が悪いことをするとその環を締め付けられるのと同じように、自分の場合はしびれさせる。

 ただ自分の場合は孫悟空が感じるような痛みは伴わない。

 またそのしびれは警報のようにあり、自分の悪、怒り、恨みを止めようとし、助けてくれているとも言える。

 このしびれはマザーのところに行って帰ってきてから、気付いたら感じるようになったものである。

 他人を叱ったり、見下したり、恨みの感情を生んだ時に左脳の上の表皮にしびれるようになった。

 何かの意味がそこには必ずあることを疑いなく感じている。

 それを罰にするのか、贈り物にするのかは自分に問われているのであろう。

 愛の贈り物として受け容れたいと切に願っている。

 {つづく}
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まったくちっぽけなサッティヤーグラハ。 その2。

2012-02-08 12:54:39 | Weblog

 大事な副題を書き忘れていた。

 ガンディーは自伝の副題に「真実をわたしの実験の対象として」とまず書いた。

 その意味は自伝を読んで行けば、なるほどと思えるだろう。

 さて、それとはかなり違うようなものになりえるが、そうした自己に向けての実験を自分もしてみようと試みる。


 「洗われないもの」

 今の仕事場には主婦が多いが、10年以上に前になるが仕事をし始めた頃、案外汚れているところが多いなと思うことがあった。

 流しに洗われずにあるコップや急須、水が減っても足されることのないポット、汚れたままのタオルなど、気になってしょうがなかった。

 そうしたものを目にするたびに、自分は片付けるのだが、こう思っていた。

 「なんでこんなことも出来ないのか・・・」

 明らかにそう出来ない人を見下し馬鹿にすることで、そうしたものを片付けていた。

 これではそうするたびに見下した感情からの恨みを蓄えていた。

 それから、何年も経ってからである。

 これは違う。

 人を見下し馬鹿にして、行う行いに愛などあり得ないと・・・。

 自分には愛がなく、憎しみしかないのか、と激しく自問した。

 気が付けば、それまでのカルカッタでボランティアしていた時も同じようだった。

 「あなたたちがこのうじ虫に足を蝕まれた人を抱きしめることなど出来ないでしょう・・・」とそう出来ない人たちを見下すことによって、愛ではない思い見下しを基点に行動してきた激しい愚かに気が付き愕然とした。

 良く思い出せば、それまでの自分の口癖は「馬鹿」と良く言っていた。

 馬鹿と言う人が馬鹿なんだとは良く言ったものである。

 その言葉を知り得た頃から何ら成長のない自分を嘆いた。

 何が愛だ、何がマザーだ、そんなものを口にする資格などまったくない男であることを知ったのであった。

 {つづく}

 
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まったくちっぽけなサッティヤーグラハ。

2012-02-07 13:00:48 | Weblog

{サッティヤーグラハ(真理の把握)は決して報復を支持しません。
破壊が良いことではなく、改心が良いことだと信じるからです。
サッティヤーグラヒ(真理の信奉者)の武器は愛です。

 そして揺らぐことのない確かさがその愛から生まれるのです。
隣人愛がなければ、つまり、人が溢れんばかりの隣人愛で満たされていなければ、アヒンサー(不殺生、非暴力)の実践は不可能です。
殴られても、花束をもらったように受け取ることができるような心で敵対者と接する人にのみ、それはできることです。}

{その場限りの、単に外見だけの穏やかな話しぶりではない。
生まれながらの穏やかさと敵に対する善行である。

これらは、サッティヤーグラハ運動者のどのような行為にも示さなくてはならない。}


 ガンディーの自叙伝には副題として訳者により、「真理の実験」や「真理へと近づくさまざまな実験」とある。

 自分はガンディーも敬愛してやまない。

 なので、自分が日々行うサッティヤーグラハを少しずつ書いてみたいと思う。

 だけど、これが名目にも書いたように「まったくちっぽけなサッティヤーグラハ」である。

 サッティヤーグラハをガンディーが述べているものを前に少し出してみたが、これを読んだだけでも、もうなんてことを言うんだと尻込みや自分のあまりの不甲斐なさや弱さに苦笑いしてしまうのだが、それでも、その居心地の良くないところを書き出していこうと思っている。

 これは自分自身の実験でもある。

 他の誰でもない、確固たる自分になると言う実験でもあるからだ。

 たぶん、長くなるので書けるときに書けるだけと言う、あえて、これと言って何も決めずに書き出して行こうと思っている。

 それは日々の日記のようにである。

 「殴られても花束をもらったように受け取る・・・」とはマザーの「あなたのなかの最良のものを」や「Humility」の祈りとなんら変わりないようにも思えてしまう。

 あなたも始めてみませんか。

 今は無理でも次の呼吸から、どうぞ。

 {つづく}

 
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県立東高根森林公園。

2012-02-06 12:51:53 | Weblog

 昨日は午後、あんとミニに乗って東高根森林公園に行った。

 前から行って見たいと思っていたが、これはなかなかの場所で散歩するのにとても気持ちが良かった。

 この公園には弥生時代の集落があったようで貝塚なども発見されており、それが集落跡などが保存されてある。

 犬と散歩する人たちも多かった。

 それはそのはず、森林とそこに流れる小川がほんとうに気持ちが良い。

 カワセミもいた。

 そのカワセミをベストショットで撮ろうとする人たちもいた。

 その両方を見るのも面白い、その両方のドラマを想像しながら、あんと静かにゆっくりと彼らの後ろを通り過ぎた。

 カワセミは昨日の午前中にも三沢川で見た。

 ここでも一人のカメラマンがいたことを思い出した。

 天敵がいないのだろうか、三沢川のカワセミも森林公園のカワセミもモデルさんのように「撮るなら撮って」と構えていたような気がした。

 あんは颯爽の初めて歩く道の感じを確かめながら、クンクンして、またに飛び跳ね、後ろを振り返り、「楽しい!」って身体で表現していた。

 午後3時に家を出てきたので、15分くらいで着いたが、少し伸びた日だがやはりすぐに暮れてきた。

 すぐにと思うのは、楽しいからだろうと思う、それと山の木々が早くあたりを暗くする。

 またゆっくりと来ようとあんに言って、ミニにあんを乗せる。

 楽しいとなかなか帰りたがらないが、お腹が空いていたこともあり、素直だった。

 あんは運転する自分の左太ももに顔を乗せ、どうにか乗り心地の良くないミニのなかでも良い子にしている。

 また一つ素敵な発見した。

 また今度は春を探しに森林公園に行ってみよう。

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豚軟骨の赤ワインとトマト煮。

2012-02-05 14:28:55 | Weblog

 今日は日曜日の休日、実にのんびりと過ごしている。

 もうあんと午前中に天神山の自然遊歩道を散歩してきた。

 あんは大はしゃぎで枯葉の上を走り回っていた。

 帰ってきてから、お風呂場であんの足を洗ってから、お風呂掃除をし、その間の部屋の押入れを整理した。

 それが終わってから、畑にあるシークァサーの肥やしになればと炭をまき、近くの石が気になったので拾った。

 石を一つ拾うと近くにある石まで気になり、手が止まらなくなり、終いにはバケツを持ってきて、石を拾い始めた。

 石拾いは畑が良くなるように祈りと願いのうちに行われた。

 そして、それは小学生の頃、おばあちゃんの畑仕事の手伝いをしていた思い出が土に触れた手の感触から、勢い良く芽生えるように思いだされ、その土の感触を楽しんだ。

 これで今年こそシークァサーが花咲くことを期待する。

 今年で九年目、木も大きくなったし、大人になっただろ、と伝えといた。

 それから、豚軟骨の赤ワインとトマト煮を圧力釜に煮込みながら、お風呂にゆっくりと入る。

 今ちょっと味見したら、なかなか味だった。

 これから、ゆでたまごとじゃがいもも足してみようと思う。

 そしたら、バケットと買って、ワインも飲んじゃおうかな。

 いやいや、もう少し我慢。

 これから、あんとミニに乗って、高津区の公園に散歩に行こうと思っている。

 昼寝から目覚めたあんも、そろそろ出かけたい様子だ。

 気持ちの良い日曜日。

 有り難い日曜日。

 余すことなく楽しもう。

 感謝の思いのなかに。

  
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神さまに感謝。

2012-02-03 12:44:16 | Weblog

 今日は朝からドキドキしたことが起きた。

 これはまだ書かないことにしようと思う。

 その意味は自分で分かったつもりでもいる。

 そのつもりでいる。

 ただ今日は神さまに感謝である。

 都合の良い祈りに近いのか、遠いのか、そうしたことを超えて、ただ「ありがとう」と伝えたいのである。

 あれから、毎日タヌキさんには会えないがササミをあげている。

 今日もあげてきた。

 昨日のササミはなかったので食べてくれているものと思う。

 いま、会社まで向かう道の途中で大好きなろうばいが咲いている。

 命の給水ポイントのようにほんの少し時間をさき、その香りを頂き、微笑む。

 神さまに感謝である。

 

 
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分かち合い。

2012-02-02 12:58:08 | Weblog

 今は山谷にはザビエル会の神父ダニエルがいる。

 三月でちょうど一年の滞在になり、彼は大阪の方へ行くことになっている。

 その前に彼とMCファーザー・ジョセフが書いた「マザーテレサの秘められた炎」について分かち合いをしようと先週の土曜に言うと、是非しましょうとのことで、彼も喜んでくれた。

 マザーがどう生きたのか、マザーがイエスから聞いたこと、マザーの役割、マザーがイエスの現存を伝えていたこと、深いところで彼女はどうあったのか、これは決して分かりきることではないが、表面的なマザーの言葉にのみ興味がある人には理解しがたいことになりえるかもしれない。

 マザーの全体像と自分たちの全体像とを分かち合い、日々の行いと奉仕から、また神学的面からも心理学的面からもいろいろと話し合ってみたいと思っている。

 ダニエルがマザーのこの本はほんとうに深い、素晴らしいと絶賛していたことを知り、彼にもいろいろと教えてもらいたい思いになった。

 なぜ、そうなったかと言えば、彼の行動、行いは神の愛に満ちている、そうした彼の言葉を聞いてみたかった。

 彼がどう神さまの渇きを見ているのか、そこにマザーをどう写しているのか、またどう感じているのか、などを聞いてみたい。

 11日は山谷は休日なので休みになり、分かち合いはその後の土曜になるだろう、明日、日時を決めることになっている。

 参加されたい方はどうぞ。

 
 マザーの言葉。
 
「わたしは渇く」、わたしたちはあまりに忙しくて、このことについて考えません。「わたしは渇く」という言葉が、心にこだましているでしょうか・・・。
 今日こそもう一度「わたしは渇く」に戻りましょう。

 「わたしは渇く」はあなた自身にとって何でしょうか。あなたの生活とどんな関係がありますか。
 
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穴掘りゴールデン。

2012-02-01 12:46:07 | Weblog

 今朝はいつもよりも少し早く起きて散歩に行った。

 あたたかい予報だったので、あんのシャンプーをしようと思い、いつもよりも早く散歩に出かけた。

 専修大学のラクロス部は春休みになったからだろう、昨日から多摩川のグランドで練習をしている。

 昨日は草むらで拾い、ずっと長い間借りていたラクロスの黄色のボールを返した。

 あんはこのラクロスのボールが好きで良く遊んだ。

 だから、今日は違うボールを持って多摩川に行った。

 そのボールでも良くボール投げをして遊んでくれた。

 少し疲れ休んでいると、あの穴掘りゴールデンが来た。

 穴掘りゴールデンとは、モグラがあけた穴を見つけては、その穴を必死に掘り、顔まで入れて掘るくらい、ひたすらに穴を掘り続けるゴールデン・レトリバーで、自分とあんは「穴掘りゴールデン」と呼んでいる。

 遠くから来る穴掘りゴールデンにあんはロックオンして待ち、近くまで来るとダッシュで近寄った。

 だが、いっこうに穴掘りゴールデンは相手にしてくれないので、あんは穴掘りゴールデンの周りを思いっきり走り回っていた。

 そして、相手にしてくれない、と納得するのか、疲れ切ってやめるのか、分からないが、水を飲みに来る。

 それで穴掘りゴールデンは遠くに行った。

 そして、いつものようにモグラの穴を掘り始めた。

 飼い主さんは「もう~、また~」と言う顔をして、穴掘りゴールデンを見ていた。

 帰りにあいちゃんに会った。

 あいちゃんは今日お父さんと散歩だった。

 お父さんと散歩の時はあいちゃんはとても澄まして大人しい。

 これもあいちゃんとお父さんの関係性なのだろうと思うと面白い。

 帰りにケンちゃんの田んぼのタヌキさんのところに寄る。

 あんは近くまで居て、タヌキさんが居たところを今日も見る。

 ソーセージはなくなっていた、そして、少し離れたところに自分が置いた鳥のササミも無くなっていた。

 あのタヌキさんか、その兄弟、また家族が食べてくれたものと願った。

 今日も同じ場所にポケットのなかに残った少しのササミを置いてきた。

 祈りとともに。
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