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言葉は肉になった
イエスは私たちが神との平和を得るために究極の代償を払ってくださいました。
イザヤ書 40:1-5 新共同訳
[1] 慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。 [2] エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。 罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。 [3] 呼びかける声がある。 主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 [4] 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。 [5] 主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。 主の口がこう宣言される。
ヨハネによる福音書 1:14 新共同訳
[14] 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
イザヤ書 40 章は、神の民とのコミュニケーションの変化を明らかにしています。 前の39章で、イエスは預言者を通して彼らの罪について語り、彼らに悔い改めを呼びました。 しかし、40章が始まると、神の強調は裁きから回復の希望へと移ります。
イスラエル人が預言者に対する次の言葉を聞いたときの驚きを想像してみてください。「慰めよ、慰めよ、わたしの民よ……エルサレムに優しく言ってください」(イザヤ書 40:1-2)。 彼らはもはや自分たちの不従順に対する非難の言葉を聞くことはありませんでした。 神は憐れみをもって彼らの罪が取り除かれると宣言されました。
しかし、彼が言いたかったことはそれだけではありませんでした。 3 節と 5 節は、勝利の行列にふさわしい、より深遠な真理を示しています。「荒野で主の道を切り開きなさい…そうすれば、主の栄光が現され、すべての肉なる者が一緒にそれを見るでしょう。」
どのような栄光がすべての人に明らかにされるでしょうか? これらの言葉は、神の言葉が肉となったイエスについて語られたものであり(ヨハネ 1:14)、イエスは私たちを完全に神のもとに戻すために究極の代価を支払ったのです。 天使たちが礼拝で空を満たし、「いと高き天にある神に栄光あれ、神が喜ばれる者たちに地に平和がある」と宣言したイエス、そのお方です(ルカ 2:14 新訳聖書)。
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