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知恵を成長させる7つの方法

2024-04-07 12:18:47 | 日記
知恵を成長させる7つの方法

*アラビアのロレンス* は、史上最も成功した映画の 1 つです。この映画の大部分は、T.E. ロレンスがアラビアで過ごした日々について自ら記した内容に基づいています。彼はイギリスの考古学者、軍事戦略家 (30 歳で大佐) であり、第一次世界大戦中の中東での活動で最もよく知られています。ロレンスは、1926 年に執筆した「知恵の七柱」という題名の回想録で、*知恵* というテーマを探求しています。
おそらく、ローレンスは今日の聖句、「知恵はその家を建て、七つの柱を切り出した」(箴言 9:1)を念頭に置いていたのでしょう。
聖書では、7 という数字は完成や完璧を表すためによく使われます。箴言、イエスの教え、そして聖書全体を通して、知恵を得て成長するための方法が数多くあります。今日の聖句には、そのうちの 7 つが示されています。

‭箴言 9:1-12 新共同訳‬ [1] 知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。 [2] 獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え [3] はしためを町の高い所に遣わして 呼びかけさせた。 [4] 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」 意志の弱い者にはこう言った。 [5] 「わたしのパンを食べ わたしが調合した酒を飲むがよい [6] 浅はかさを捨て、命を得るために 分別の道を進むために。」 [7] 不遜な者を諭しても侮られるだけだ。 神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。 [8] 不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。 知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。 [9] 知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。 神に従う人に知恵を与えれば、彼は説得力を増す。 [10] 主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。 [11] わたしによって、あなたの命の日々も その年月も増す。 [12] あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。 不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ。

1. フィードバックの取り扱い

批判されたとき、私たちをあざ笑うだけの人たちに言い返しても意味がありません(7節)。そうすると、彼らは私たちをさらに憎むことになります。しかし、「賢い」人たちに言い返すことは価値があります。
批判に対する私たちの反応は、決して「侮辱」や「悪口」や「憎しみ」であってはなりません(7-8節)。むしろ、私たちは批判から学び、「賢くなり」、「知識を増す」必要があります(9節)。実際、叱責に対する私たちの反応は「愛」を増す必要があります(8節b)。
これは決して簡単なことではありません。批判に対する私の自然な反応は、しばしば言葉で激しく非難したり、自分を正当化しようとしたりすることです。しかし、どんなに困難であっても、叱責、フィードバック、または指導から学ぶように努めるのが賢明な道です。
例えば、私は長年、講演に対するフィードバックを好まない講演者はほとんど上達しないことに気付いてきました。建設的なフィードバックを歓迎し、それを恐れない講演者は、急速に上達し、はるかに効果的になることが多いのです。神との正しい関係は、あなたの知恵を増し(10節)、建設的なフィードバックを聞き、それを通して成長することを可能にします。
主よ、フィードバックを与えるときには建設的であり、フィードバックを受けるときには寛大である知恵を私に与えてください。

‭ルカによる福音書 13:1-30 新共同訳‬ [1] ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 [2] イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 [3] 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 [4] また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 [5] 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 [6] そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 [7] そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 [8] 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 [9] そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」 [10] 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 [11] そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 [12] イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 [13] その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。 [14] ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 [15] しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 [16] この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 [17] こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。 [18] そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。 [19] それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」 [20] また言われた。「神の国を何にたとえようか。 [21] パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」 [22] イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 [23] すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 [24] 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 [25] 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 [26] そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 [27] しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 [28] あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 [29] そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 [30] そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

2. 苦しみへの対応

この箇所では、イエスが苦しみに対して2つの異なる方法で反応しているのが分かります。苦しんでいる人々に対するイエスの反応は常に思いやりの気持ちによるもので、足の不自由な女性を癒した場面からもそれが分かります(10~16節)。しかし、ここでは「苦しみ」について提起された疑問に対するイエスの反応も見られます。
「ピラトは礼拝中のガリラヤ人を殺し、その血を祭壇の供え物の血と混ぜた」(1節、MSG)。ある人々はイエスに、要するにこう尋ねました。「なぜ神は苦しみを許すのですか?」「彼らの苦しみは罪の結果ですか?」
もちろん、イエスは、その応答において並外れた知恵を示しています。世界の多くの苦しみは人間の罪によって引き起こされており、私たちは皆罪を犯しています。しかし、イエスは、罪と苦しみの間には自動的には関連がないことを非常に明確にしています。彼らが苦しんでいたのは、他のガリラヤ人全員よりも罪深かったからではありません(1-2節)。イエスはまた、自然災害は必ずしも神からの罰ではないことも指摘しています(1-5節)。
苦しんでいるときに自分の心を吟味するのは適切かもしれませんが、他の人が苦しんでいる理由を判断することには細心の注意が必要です。イエスは苦しみの哲学的説明にはあまり興味がありませんでした。むしろ、私たちの反応に興味がありました。イエスは「悔い改めなければ…」(3節)と危険性を警告しています。

3. 剪定と植え付け

いちじくの木(6-9節)、からし種と酵母(18-20節)のたとえ話は、神の国で物事がどのように成長するかについての知恵を与えてくれます。物事をいつ育てるべきか、いつ活動を止めるべきか、いつプロジェクトを始めるべきかが分かります。
神は忍耐強く、人々が悔い改めるための時間をできるだけ多く与えます。いちじくの木を切り倒したいという願いに対して、男はもう一度チャンスを与えます。「来年実がなったらいい。なさければ切り倒しなさい」(9節)。
鍵となるのは、「実を求める」ことです(6節)。たとえば、教会の数多くの奉仕を見ると、非常に実りの多い奉仕もあれば、それほど実りのない奉仕もあります。実りの少ない奉仕をすぐに減らしたいという誘惑にかられます。しかし、イエスは忍耐するように勧めています。「来年実を結べば、それでいいのです!」(9a節)。しかし、この忍耐は永遠に続くわけではありません。実りのない奉仕をやめ、「切り倒す」時が来ることもあります(9b節)。
からし種のたとえ話(18-19節)とパン種のたとえ話(20節)は、神の国は最初は小さくても、時が経つにつれて大きく成長する可能性があることを私たちに思い出させます。種が植えられたとき、それは「成長して木になり、空の鳥がその枝にとまった」(19節)。これは、神の国の種を植えること(教会の設立を含む)の大きな価値を示しています。また、この可能性が実現するのを見るために辛抱強く待つ必要があることも示唆しています。

4. 対峙すべきタイミングを知る

個人的には、対決は極めて難しいと思います。イエスは対決すべき時を知る知恵を持っていました。イエスは、安息日に18年間も足の不自由な女性を癒したというだけの理由で、イエスを批判する人々の偽善と二重基準を暴露しました。イエスは律法主義よりも思いやりの大切さを彼らに思い起こさせます。動物を世話する際にそれが原則であるなら、人間を世話する際にはなおさらそれに従うべきでしょう(15-16節)。
イエスの答えは見事に賢明なものでした。それは人々を「喜ばせました」(17節)。

5. イエスに頼る

ある人がイエスに「主よ、救われるのはほんのわずかですか」(23節)と質問すると、イエスは非常に実際的な答えを返しました。「狭い門から入るように努めなさい」(24節)と言いました。言い換えれば、まず他人のことばかり考えるのではなく、自分自身が神の国に入っているかどうか確かめなさいということです。他人のことを知ることはできませんが、自分自身のことなら確信できます。
このたとえ話では、多くの人が神の国を表す家に入ることができません。その理由は、イエスとの個人的な関係が欠けているからです。イエスを表す家の主人は、家から締め出された人々に二度こう言います。「私はあなたたちを知らないし、あなたがどこから来たのかも知らない」(25、27節)。神の国の一員になるということは、イエスに頼り、イエスを知ることです。
参加すると期待していた人の中には排除される人もいるようですが、予想よりも多くの人が参加するようです。「人々は東から西、北から南から来て、神の国の宴会に着くであろう。」(29節)。たとえ少数派のように感じても、イエスに頼って従うのは賢明なことです。
主よ、今日私が交わすすべての会話と私が下すすべての決断において知恵が与えられるよう祈ります。どうか私をあなたの聖霊で満たし、イエスの知恵を与えてください。

申命記

13:1-14:29

6. 予言の検証

真の預言者と偽の預言者を見分けるには知恵が必要です。今日の「預言者」には、「預言の賜物」を持つ者だけでなく、牧師、説教者、教師、伝道者など、「主の名において」語る者も含まれます。これらすべての場合において、私たちは真と偽を区別する必要があります。
旧約聖書における真の預言者のテストの一つがこの箇所にあります。預言者が奇跡や不思議な業を行っても、「他の神々に従おう」と言った場合、人々は「その預言者の言葉に耳を傾けてはならない」と警告されました(13:2–3)。言い換えれば、人々は預言者をその教えによってテストしなければなりませんでした。つまり、預言者が人々を神に導いたか、それとも神から遠ざけたかということです。イエスは「私たちはその実によって彼らを見分けるのです」と言っています(マタイ7:15–23)。

7. 神を敬う

あなたは「あなたの神、主の子」です(申命記 14:1)。そして神の民は主に対して聖なる者となるよう召されています(2a節)。あなたは神の「宝物」として選ばれました(2b節)。旧約では、何を食べられるか、何を食べてはいけないかに関して厳しい規則がありました。新約では、イエスはすべての食物が清いと宣言しました(マルコ 7:19)。
旧約と新約の両方において、主を「敬う」方法の一つは、与えることです(申命記 14:22–23)。与えることは祝福です。あなたが他の人を祝福すると、神はあなたを祝福し、あなたが他の人を祝福できるようにします(29節c)。特に、神はここで私たちの働きを祝福すると約束しています(29節)。神の民に対する神のビジョンは、相互の与え合いによって支えられた共同体です。今日の箴言の朗読で見たように、主を敬うことは「知恵の初め」です(箴言 9:10)。そして、「もしあなたが賢いなら、あなたの知恵はあなたに報いを与える」(12節)。
主よ、私があなたの大切な所有物であることを感謝します。どうか私が日々知恵を増していけるように助けてください。

ピッパはこう付け加えます 私は学歴があまりありませんが、次の聖句に慰めを感じています: 「単純な人は皆、ここへ来なさい。…単純な生き方を捨てれば、あなたは生きられる。悟りの道を歩め…主を畏れることは知恵の初めである」(箴言 9:4,6,10)。


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