はい、しげのですが?

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「差別は悪」の限界

2012年09月29日 20時03分05秒 | 障害者権利条約Vs障害福祉

差別が悪であるという認識、差別を許さないという社会合意がある、と思って生きてきたが、そうではなさそうだ、ということに、最近、気づいた。

 

■「支援の一般化」「支援の社会化」という、僕がライフワークに選んだ課題の背景には、「国連障害者権利条約」のもたらすインパクトがある。

この障害者権利条約の本質とは、(1)「障害の社会モデル」であり、(2)「差別禁止」だと考えている。

現在、障害者総合支援法の成立によって、障害者運動は後退を強いられている。差別禁止法の制定まで行き着けるのか、難しい局面だと思う。

障害者権利条約を批准し、権利に基づく障害福祉に転換できるかどうかは、そもそも、差別が悪であるという認識、差別を許さないという社会合意を前提にしなければ成立しない。

 


■差別が悪であるという認識、差別を許さないという社会合意が成立している内部で、深めるべきこと、問い返すべきことは多々あると思う。
しかし、それ以前に深刻な問題に直面しているようにも思うのだ。

差別が悪であるという認識、差別を許さないという社会合意、その外部が広がっている、むしろ内部を侵食しているとしたらどうだろう。

差別を語ること自体がタブーである世界が広がっていると感じる。

それどころか、差別は悪ではなく、むしろ好ましい、と考える世代が登場していると感じる。

それは極端な、特別なこと(差別主義者の台頭)ではなく、差別を容認する常識の確立ではないか。
「差別は存在しない。世界は公平だ。存在するのは競争だ。」

 

■現在、積極的に自己研鑽を怠らない、若い人たちの中には、
「社会のせいにしない、他人のせいにしない、自助努力が必要」という考えが非常に強いと感じる。
たとえば貧困の問題について、共感の持ち方が両極に二分される傾向は、この「社会」間の相違・葛藤が反映されているように思う。

それはおそらく、先行世代への不信ともかかわっているだろう。
ただ、ここには重大な問題がはらまれている。
なぜなら、「社会のせいにしない、他人のせいにしない、自助努力が必要」という考えは、障害者権利条約が指し示す「障害の医療モデル=個人モデルから、障害の社会モデルへ」という転換の要請に、完全に逆行するからだ


■障害者権利条約への強力な拒絶を予感している。その要因を、僕は「日本型福祉モデル」の成立に求めていたが、実はもっと根深いのではないか。
そう感じてはいたが、先日、明確に認識するきっかけがあった。

たまたま連れ合いが図書館から借りていた本の中に、それはあった。
西澤晃彦「貧者の領域」である。
http://www.amazon.co.jp/%E8%B2%A7%E8%80%85%E3%81%AE%E9%A0%98%E5%9F%9F-%E8%AA%B0%E3%81%8C%E6%8E%92%E9%99%A4%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%B2%B3%E5%87%BA%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E8%A5%BF%E6%BE%A4-%E6%99%83%E5%BD%A6/dp/4309624138

 

■以降、「差別=悪」の合意の外側の伸張について、この本をヒントにしながら考えを進めたいと思う。
うむ、本当にちゃんと進んでいけるかな。


 


 


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