昭和20年7月24日と28日の呉軍港空襲は香川県小豆郡土庄町豊島にも波及し、
豊島沖で駆逐艦椿が敵機の攻撃で中破し、
戦死30柱・艦長以下60名近く負傷の大惨事となった。
今から3年前に香川県小豆郡土庄町豊島へ慰霊に来島した駆逐艦椿の元乗組員と連絡がつき、
いろいろ証言をしていただいている。豊島の古老の証言は得たことはあるが、海軍側は初めて。
流行り病につき、現段階では直接お会いしたことはなく、電話と文通で交流している。
松型駆逐艦は量産型だからか、あまり注目を浴びないらしく、ウィキペディアでも椿の記述は
「備讃瀬戸で中破、8月15日の終戦時、呉で中破状態で残存」とある。
エリア的には間違ってはいないがアバウトすぎるし、椿は豊島で終戦を迎えており、呉への帰投は24日。
椿の豊島での戦闘、豊島を離れるまでの詳しい証言の他にも
「船体にはグレーに緑と黄緑の斜線で迷彩を施していた」などと、
これまでの駆逐艦に対するイメージが変わる証言も得た。
これらの史実をまとめている途中ではあるが、元乗組員からいただいた手記や
戦友会から引き継いだ資料などを自分だけの元に置いておくのはよくないと思い、
地元の小学校に椿の出来事を平和学習の時間として取り上げてほしいと
懇意にしている先生にお願いしたら、快く引き受けて下さり、
授業として時間を取っていただいたところ、ひとりの児童から
元乗組員宛てのお便りを預かり、元乗組員へ転送した。
史実と向き合うこの児童の姿勢は非常に心強く思う。
お便りを受け取った元乗組員は嬉しかったそうで、後日、元乗組員からの
児童宛ての返信を預かり、直ちに小学校へ持って行った。
椿の定員が300人ほどなので、もしかしたらまだ存命中の乗組員がいるかもしれない。
そうでなくても親が椿に乗っていたという人もいるかもしれない。
何か新たな証言を得ることができたらいいな。
備讃瀬戸の過疎の離島の駆逐艦椿の取り組みは始まったばかり。
豊島沖で駆逐艦椿が敵機の攻撃で中破し、
戦死30柱・艦長以下60名近く負傷の大惨事となった。
今から3年前に香川県小豆郡土庄町豊島へ慰霊に来島した駆逐艦椿の元乗組員と連絡がつき、
いろいろ証言をしていただいている。豊島の古老の証言は得たことはあるが、海軍側は初めて。
流行り病につき、現段階では直接お会いしたことはなく、電話と文通で交流している。
松型駆逐艦は量産型だからか、あまり注目を浴びないらしく、ウィキペディアでも椿の記述は
「備讃瀬戸で中破、8月15日の終戦時、呉で中破状態で残存」とある。
エリア的には間違ってはいないがアバウトすぎるし、椿は豊島で終戦を迎えており、呉への帰投は24日。
椿の豊島での戦闘、豊島を離れるまでの詳しい証言の他にも
「船体にはグレーに緑と黄緑の斜線で迷彩を施していた」などと、
これまでの駆逐艦に対するイメージが変わる証言も得た。
これらの史実をまとめている途中ではあるが、元乗組員からいただいた手記や
戦友会から引き継いだ資料などを自分だけの元に置いておくのはよくないと思い、
地元の小学校に椿の出来事を平和学習の時間として取り上げてほしいと
懇意にしている先生にお願いしたら、快く引き受けて下さり、
授業として時間を取っていただいたところ、ひとりの児童から
元乗組員宛てのお便りを預かり、元乗組員へ転送した。
史実と向き合うこの児童の姿勢は非常に心強く思う。
お便りを受け取った元乗組員は嬉しかったそうで、後日、元乗組員からの
児童宛ての返信を預かり、直ちに小学校へ持って行った。
椿の定員が300人ほどなので、もしかしたらまだ存命中の乗組員がいるかもしれない。
そうでなくても親が椿に乗っていたという人もいるかもしれない。
何か新たな証言を得ることができたらいいな。
備讃瀬戸の過疎の離島の駆逐艦椿の取り組みは始まったばかり。
現在、昨年に豊島公民館まつりで展示した「駆逐艦椿・76年目の証言」の小冊子を平和学習の一環として豊島小中学校の児童生徒向けに作成しています。