心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

憂いの日

2010年03月08日 | 雑感
個人的主観及び体内感受をもって独白致します。
耳鳴りが、ずっと続いています。
音のボリュームが大きい時、その翌日(正式には数時間後)
地震が起こっています。

先日は、沖縄そしてチリ。
数日前は、台湾でした。
そして、トルコです。

奇遇すぎます。
この奇遇さに、気分が滅入ります。

実は、この耳鳴りについて、一抹の不安があります。
それは、国内の大地震です。
先日沖縄でも99年ぶりの大地震と言われましたが、
今度は都市部に地震が起きる事を、個人的に非常に憂いております。
そこはなんとか、阻止したいところですが、
こればかりは、自然の猛威を厳粛に受け止め、
平素の準備によって、大難を小難に願うほかありません。


大勢の方々が一度に亡くなる。
この部分、世界が何か大きく変わろうとする時、
たくさんの方々の犠牲の上に立って変わってゆきました。
それが戦争です。
今、世界中で戦争は止む事はありませんが、
それでもどこか遠い国の話としてしか、
受け止めづらい現状があると感じます。
直接的な皮膚を切り刻むような痛みは、
残念ながら感じづらい世の中です。

戦争のような不条理さを孕まずとも、
自然の猛威に対し、人はとても無力で、
その無力さの中でも、生死を分ける何かがあるわけです。


生死を分ける何か。
その何かは、分かりません。
個人の宿命と言えば、それまででしょう。
しかし、その亡くなられた方の数が膨大になればなるほど、
単なる個人の宿命を超えて、局部的なダメージを思えば、
国家の宿命へと視野が広がってゆくでしょう。

その視野から伺い知れるのは、
何かの引き換えではないか?という事です。
そして、引き換えによって、何か新たなものが生まれてくる、
そんな風に捉えています。


頻発する地震の意味は、
国や世界が変わろうと、動き始めている一つの証とも感じます。
その犠牲による死の招かれ方が、
今は戦場に直接関係のないエリアで生まれており、
戦没者の数より、幸いにも少ないですが、
それでもこれから世界中で、自然災害の犠牲者が増え行く事を
予感として感じております。

一体、そこには、どんな意味があるのか。
震災で亡くなられた方々の命の犠牲と引き換えに、
一体、この世界は、どう変わろうとしているのだろう。
その方向性や少し先の未来に、注視してゆきたい。


そんな思いを抱く今日この頃です。

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