心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

「保守」と「右翼」と「左翼」

2014年09月18日 | 転記
▼タイトル:【日記】「保守」と「右翼」と「左翼」 2014年09月10日14:40

<極右代表と撮影>高市氏と稲田氏ら、欧州メディアが批判
毎日新聞 2014年09月10日 12時05分
http://mainichi.jp/select/news/20140910k0000e010272000c.html


よく誤解されることだが、近現代の日本において右翼と左翼は「対極にある両極端な思想」ではない。

左翼が「天皇を認めない社会主義」なら、右翼は「天皇を認める社会主義」だ。
かつて三島由紀夫が全共闘の学生に向かって「君たちが天皇(を認める)とさえ言ってくれれば僕たちは手を結べるんだ」と呼びかけたのも、このことを理解していれば何の不思議もない。

右翼も左翼も社会主義という点では同じことであり、これら左右社会主義と対立しているのが自由主義だと考えるべきなのだ。

右翼は社会主義者であるから、当然、近代自由主義を否定する。一方、保守は近代自由主義を標榜する。だから右翼と保守も、まったく異なるものなのだが、困ったことに、しばしば右翼と保守は混同される。右翼自身、保守自身の中にも区別がついていない人達もいるのではないか。

冷戦時代には「左翼 vs その他」という構図が強かったため、近代自由主義の保守と、反近代の右翼が一緒くたにされた。それが今でも続いているのである。

そもそも自民党を右翼だの右傾化だのと批判するのも、この冷戦時代的な錯誤を前提としているわけだ。
「自由民主」党 が反自由主義(右翼)であるわけがないのだが、この程度のことに、新聞社の政治部も気づかないのである。


【文:神名・Melissa=龍子さん】



毎日新聞が報じた【極右代表と撮影:高市氏と稲田氏ら、欧州メディアが批判】この記事にあるように右傾化への懸念とあるが、毎度この手の写真撮影で鬼の首を取ったかの如く、向こうからやってきた接触すら、まるで親密さを確証する写真として悪用されてしまうのは、今に始まった事ではない。

講演会などでも同じく、参加される方を選別するわけにはいかず、当然ながら様々な方が参加するため、こうした写真もサービスの一環として応えるのはむしろ自然な事だ。

以前より日本の右傾化、ネトウヨなる言葉に対し動向を見守っていたが、発信する側がそれらを用いる時、悪意ある批判に使われることが多い。右翼と左翼は対極にあって社会主義の根っこは同じであるという認識であった私にとって、ネットで交錯する言葉の扱いがどうもしっくりとこないでいた。

そんな中、私が尊敬する方が書かれた分かりやすい解説に触れ、承諾を得て今日転記させて戴いた。彼女の言う所は、いわばスタンダードな礎だと思う。日本は如何せん、戦後69年経ち、その過程で左翼は革命の名の下で仲間に暴力を奮い殺害までし、国外に出て無差別テロまで起してしまった。戦後69年の中で育まれた左翼思想の極みに触れ、昨今は暴力は否定されつつあるが、それでも表面上の話に過ぎない。

では右翼はどうか。朝日新聞社で拳銃自殺した野村秋介氏は戦後の新右翼として影響を及ぼしたが、彼について色々と調べたが、左翼思想の方とも繋がりはあった。これが根っこが同じという部分であり、左翼思想を持っても反日ではない思想家ならば、互いに理想に描く国家像があった故可能にしたのだろう。

移り行くのは何も左翼だけでなく右翼もそうだ。スタンダードにある礎は、歳月をかけて緩やかに変化し、言葉を区分せず論じられるように、今では野村秋介氏のような右翼思想を持った言論者もいなくなり、一水会顧問ですら天皇陛下を否定する団体と融和しヘイトスピーチを乗り越えると言っている。陛下よりも重要なようだ。

こうした現状から省みても日本独自の軸がぶれている中で、「保守」や「右翼」や「左翼」と他者に向け語られる事がよくある。事実、自称保守とされる方は毎月神社参拝していない人も大勢いる。何を持って保守なのか?ここもまた見極めるべきだと思う。

右翼も左翼も社会主義。この礎から他人に右翼と言えてしまう判断材料は実に薄いように思えてならない。理想とする国家像が民主主義なのか社会主義なのか、天皇陛下を崇敬するのか不要なのか、マスコミに踊らされる事なく、またネットで流される事なく、己の判断が出来るよう見識を深める事が大切だろう。それは他人を軽々しく傷つけない己への布石でもある。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。