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心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

論点がすり替えられる野次

2014年06月25日 | 政治



もうすっかり周知されたこの話題。みんなの党Tokyo所属の塩村夏文都議会議員が、議上で質疑を述べていたところ野次が飛び、セクハラ野次だと発言者を特定し処分を求める宣言のニュースに触れたのが20日だった。

問題の発言の動画もテレビで流れたが、私が一番初めに不可解に感じたのは、彼女はその野次が発せられた時、議席の方を見てから笑顔をこぼしたことだった。後半は涙声となり、しっかりした発言ではなくなり、結果としてこの野次にうろたえた様相に最後は至っていた。

その後、先輩女性議員を横にテレビに向けて、野次を受け侮辱されたと主張し、発言者の処分や再発防止措置を求める要求書を提出すると宣言された。この時、彼女は『発言者に名乗りでてもらえれば私の傷も癒えるが、そうでない以上、こういう手段を取るしかない』と訴えた。この発言こそ本音が零れた確信的な瞬間だろう。要求書を提出させた理由であり、行為そのものは、侮辱を受けた個人的傷心に対する報復措置だと、私は捉えていた。

この問題にある本筋は、野次る行為である。この行いそのものは赦しがたい行為だ。何が赦せないのか?は発言の内容ではなく、野次る『行い』の方。野次は、議会進行の妨げになる行為のため本来やってはならない。また質問をしない、議席で聞く側の立場の議員は、質問の中身を確認したり意見を述べる場合、議上に立つ議員の質問が終了した後、挙手をし議長に発言する機会を求める事が出来る。これが正式な議会運営上の規則。野次そのものは罰則規定がなく、未だ議会の慣習として残っているが、手を挙げず言葉を発するのはそもそも議会運営上のマナー違反だ。

しかし今回は、野次る行いよりも、彼女個人に向けた野次の内容に注目が集まり、それらに共感した方々が非難の声を都議会に寄せる動きがあった。私は既婚者ではあるが子供はいない。しかし報じられた野次の中で出産にも触れられていたが、一切同情もせず、共感もしなかった。この野次は彼女に向け言われた内容だからだ。

もしも、仮にわたしが都議会議員で、議上にて質問中に『お前が子供を産めよ』と言われたならば、質疑を途中で止め、議長に対し抗議を申し出、議長より野次を慎むよう是正を求めている。なぜなら、議会と言うのは、論争の場でもあり、場外へ持ち出しすべき事ではないからだ。しかし、彼女は野次られた瞬間、笑顔をこぼしごまかした。侮辱されたと思ったなら、なぜ議長に対し即座に是正を求める切り返しが出来なかったのかが、甚だ疑問が残る。これは女性男性という性の問題ではなく、議員としての問われる資質の問題ではないだろうか。

結果として、彼女は議上で即座に切り返す事が出来ない能力だった事を明々白々にしてしまった事はおろか、議会内で決着させず、場外へ持ち出し、個人的心情を以って、報復措置に出たのがこの一件の本質だと感じている。

ネットでは、彼女の過去までが結果として調べ上げられ、『とんでもない女だ』と揶揄されているが、議員出馬の要件には、”禁治産者でない””破産者でない”が証明され、供託金さえ積めば誰でも出馬要件を満たすわけで、出馬以前の身辺については、野次の問題と同じ土俵で論じられる事は誤りだろう。

過去の事を問えば、例えばイタリアではポルノ女優が国会議員になっているが、日本でも元AV女優が政治に興味を持ち、必死に勉強し、要件を満たせば立候補出来、有権者が支持すれば議員になれるわけで、議員になってから必死に仕事をし現況を是正出来れば、過去を特別に問題視する必要性がないと分かるだろう。現在の彼女の行いが起因であったとしても、過去を非難するこうした世間の動向に対し、同じく論点がずれていく風潮に歯止めが掛かる事を願いたい。

人間とは愚かしいものだ。彼女の行動に触れ、世論が同調する数が増せば、己は正しい、間違っていないと自負し、行動がより過剰になっている。その証拠に、わざわざ外国人記者クラブの席で、セクハラ野次に対し持論を展開し、世界に配信させたが、これは野次の行い以上に、十分過ぎる過度な行動に見えて仕方がない。

イスラムの教えには目には目をというものがあるが、日本人女性には目には目を、ついでにビンタも、おまけに蹴りもという具合に、エスカレートしていく行動は目に余るものがある。本来、自分で処理すべきが、党を巻き込み、政府も巻き込み、他者も巻き込み、外国人まで巻き込み、根幹にある個人心情のお慰めを行っているのが事実ではないか。もう、ここまで行けば、野次る行いなどどうでもよくなっているとしか、私には感じられない。




最初の話に戻るが、議上で切り返しが出来ず笑顔でごまかした点は、議員経験の未熟さではなく、議員の資質も含めた精神が未熟だからではないだろうか。後半、涙声になったのは、自分の心の傷を抑える事が出来ず、泣いたに過ぎない。

政党に属しながらも個人個人が政治信条を以って提言をしている。野次られたぐらいで泣いてしまうような人が、都民の盾になれるとお思いだろうか。野次に対し是正を即座に求めず、ほぼ毎日他人を巻き込み自分に同調してくれる人間を囲い込む女性議員に、私は政治家として全く信頼を寄せる事は出来ない。他人のために、汗を流す気概はあるのか?議場の中で、男性議員相手に悔しくても立ち向かっていく根性はあるのか?そう彼女に尋ねたいところだ。

現実論で言えば、議会は世間の常識が通用しずらい、いわば特殊な環境であり、男社会だ。物事も大方男性が決め進めている。その大前提をまず飲み込む事が女性議員としての心の布石だろう。その上で、本気で仕事をしたいなら、屈辱的なことがあっても耐え、女性議員は彼らと融合していかねばならない。この点については、一般企業でも同じ事で、仕事の出来る女性というものは、男以上に男であり、淡々としたものだ。そこに行き着くまで紆余曲折があると想像するが、女性である事に固執していれば、いつまでたっても乗り越えられない山でもあるだろう。

野次を受けた女性に対し、ここまで論じるには訳がある。女の目から見て、卑怯な女というものの存在は、世の中の善処に対し足手まといに必ずなる。今回、彼女自身、自分に向けられた野次を、拡大解釈させ一般世論を巻き込み、女性差別問題にまで発展させた。こうした女性は、議員として不要なのだ。そもそも、結婚、妊娠は女性だけの問題ではなく、半分は男性の問題でもあるからだ。両者が存在しなければ出来るものではない。

子供が欲しくて産めない女性や、作れない男性もいる。結婚も同じだ。何も一方だけの問題ではない。両者が向き合う問題だ。また野次は議会の中の狭い空間で、女性議員に向けられたものであって国民に向け発言されたものではない。確かに野次の中身はデリカシーのなさ過ぎる軽薄なものだが、自身に向けられたとし悲観することはないと思っている。

侮辱や差別など言い出す過剰反応は、何の善処も生み出さない。そもそも人間は不平等の中で生まれ、何一つとして同じでないという中で生きているのだから。むしろ、性の問題として画一化させていくマスコミの世論操作に陥りやすい意識を、改善頂くことこそが自己防備であり、有益を齎してくれるのではないだろうか。

加えて、マスコミの異常なまでの執拗な報じ方に対し疑義が募り辟易していたが、そんな中でわたしが尊敬する方が、確信的な短い日記を今日アップされていたので、思わず転記のお願いをさせて頂いた所、即座にご了承頂けたので、ここに転記をしておこうと思う。




(以下、転記)

▼タイトル:【日記】ヤジのネタは必要なのか? 2014年6月25日 03:10

確かに議会にヤジは必要なものではない。面白い必要は、さらにない。
ならば、ヤジをネタにした政局騒ぎは必要なのかと、私は問いたい。

鈴木都議はあくまで塩村都議という特定の人物に向けてヤジを飛ばしたはずだ。それがいつの間にか「女性一般へのヤジ」にすり替えられて騒ぎになった。鈴木都議は驚いただろう。

世の女性の中には、このヤジを知って「もしこのヤジが自分に向けられたものだったら、さぞかし腹立たしく思うだろう」と感じることには理がある。しかし現実にはこのヤジはあくまでも塩村都議という特定の人物に向けられたものだ。それがなぜ、いつの間に一般論にすり替わったのか。

そのすり替えが妥当なものだったのか、ということを、誰もまともに検証したようには見えない。まるでこのすり替えが自明の理であるかのように、騒ぎが盛り上がって行く様子を見て、私は違和感を禁じ得なかった。

別に鈴木都議の弁護をしたいのではない。
誰に対してであれ、妥当性の定かでないすり替えを前提とした糾弾によって「正義」を囲い込むような行為が許されるのか? ということを問いたいのである。

姑息なすり替えをすることなく、「問題のヤジが塩村都議に対する誹謗だから許せない」という話なら、私にも理解できる。

むろん、その場合には鈴木都議ばかりでなく、どの政党のどの議員からヤジとして発せられた誹謗も、同様に問題視しなければならないはずである。特定のヤジだけを、恣意的に社会問題と結び付けることで糾弾するような行為を、私は認めることができない。

週刊誌やワイドショー、そしてmixiニュースも例外ではなく、誰と誰が結婚し、誰が出産したかを報じて騒いでいる。そのための「取材」と称する迷惑行為が収まる兆しはない。そんな馬鹿騒ぎが芸能人に対しては許され、都議に対しては許されないというのなら、その理由は何だというのだろうか。
マスコミは嫡子と庶子との「差別」を批判しながら、芸能人の不倫や隠し子では、それを特別視して騒ぎ立てる。それはなぜ許されるのか。なぜ誰も、このようなマスコミの狂熱を「差別を助長する」と一般論化しないのか?

まして、そんなマスコミがどんな資格で鈴木都議を責めているのか、私にはまったく話が見えない。

鈴木都議の謝罪は結構な話だが、それならばなぜマスコミは自らが同罪であることを隠して「正義づら」をしていられるのだろうか?


【文:神名・Melissa=龍子さん】

(以上 転記おわり)




6月23日の沖縄慰霊の日の慰霊祭に列席し、先人のご供養をし帰宅したわけだが、翌朝一斉にテレビはこの話題で溢れ返っていた。この日本の現実をまざまざと見せ付けられ、戦没者に思いを馳せながら、心の底から辟易してしまった。野次の『行い』に対し言及せず、個人攻撃に固執していく動向を寛容にさせ、野次を禁ずる規則を設けようと是正する動きすらない。日本国の首都である東京都議会のご乱心ぶりに触れ、この国の行く末をも案じてしまう。

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