心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

白梅慰霊のご加護15 【あとがき】

2011年06月17日 | 慰霊



翌日5月29日の夕方、中山きくさんのご自宅へ電話を入れ、御礼を伝えた。帰宅の道中で気づいたのが、きくさんたちが、そっと車に手土産を乗せていてくれたことだ。岸本さんからは首里城の建物をモチーフにした、西陣織の絵と、きくさんからは、沖縄伝統のお菓子が3人分入っていた。

きくさんのお話では、28日の夜には停電になり、29日の15時まで電気が使えなかったそうだ。幸いにもオール電化ではなくガスだったため、ご飯は食べられたと笑っていらっしゃった。過ぎ去った台風の被害状況を語られながらも、今回の日帰りの慰霊を労って下さった。

仲間にも、それぞれに、メールや電話で、その後無事に自宅へ戻ったことを確認し、全ての行程がこれで終わったと、ほっとした気持ちと疲れの中で、翌日一人想いにふけていた。あっという間だったが、今回もまたドラマチックな展開に対し、改めてご加護を強く感じたのである。



今回の旅は、とても不思議だった。台風が接近する中、この1日は過分にご加護が散りばめられていた。そして、わたしのこころを察してか、お尋ねしたいと想っていた事をこちらから投げかけずに、自ら語られる中山きくさんのお話。個人的には、不思議さにある必然性も、また深く感じている。このたった1日の自分を取り巻く環境の中で、目に見えない作用というものを、考察せざるをえない状況だったとも言える。

こころの内にお尋ねしたいと想っていた事柄を、自ら話されたきくさんの想いに触れ、戦争体験者が抱え続ける傷に対し、戦争による影響力というものを、直接痛みとして感じていた。

戦争体験者が抱えるこころの傷は、当事者それぞれが、それぞれの環境の中で、内観を軸にしながら、長い歳月をかけ、外からも良き影響も受けつつ、克服していくしかないと感じている。わたしが微力ながら出来ることは、慰霊であり、それらの行いを通じ、きくさん達に静かに祈りの姿勢にある骨を理解して頂くことしかないだろう。また、戦争体験者が抱えたこころの痛みには、個人の温度差があり、それらもまた尊重すべき個性だと今でも思っている。

これまでの慰霊の旅もまた、きくさん達への想いを大切にしてきた。今回は、断片的ながらも、深く掘り下げる糸口が多くあり、戦争体験者の心情を察しながらも、こちらの意を伝えることが可能な場面もあったが、あえて言葉では伝えなかった。この最も大きな理由の根底には、論争をよしとしない考えがわたしにはある。生産性のない論争は、戦没者にとって有害だからである。また、生きている者同士、互いを傷つける結果しか生まないからだ。それよりも、慰霊を通じ、各々が内観し、人生の軌跡を振り返りながらも、その瞬間を大切にするべきだと考えている。

5回目の旅の総括として感じたのが、死に対する観念の基軸は、宗教という教示の拘束によって整理され、人間は納得し、初めて持つ、という事だ。例えば、わたしが小さい頃、祖母などに言われたのが、天国と地獄があり、悪い事をすれば、地獄に行くと説き、愚行を行わないよう説いていた。嘘をつくと閻魔さんに舌を抜かれると、地獄は恐ろしいところだと、祖母は見た事も感じた事もないのに、そう言って嘘はいけないと教えたものだ。

こうした教えの本質は、人間が正しく幸せに生きるために、道徳的倫理感を養っていく目的がある。同時に、生きている間は万人が等しく経験出来ない死について、恐怖心を取り除くための教示もあるだろう。

死を伝えながら、その死と表裏一体である生に対し、生き方の根本を理解させるために、話を作る事もある。話に触れた者は、教示に対し、感じる力はそれ程多く求められず、与えられたものを信じるという受動的な姿勢を求められ、観念として成熟させる縮図が、そこには存在しているだろう。世の中の人々は、自分自身で、事象の中に確かなものを感じ取る機会を多く求めず、与えられたものに対し、受動的に信頼を置く性質があるのかもしれない。その中で、死に対し、自身のこころに合致する宗教観念を信じてゆくのだろう。

わたしは、これまで深く学習こそしなかったが、他者から説かれるものに理解を示しながらも、事象の中で自身の感性を優位にし、大切にしてきた。その中で精査しながら、真理を求めて来た節がある。しかし、慰霊を始めてから2年目を迎え、これまで深く分からなかった事や気付かなかった事が、色々と感じられ、分かり始めた事が、現地へ足を運んだ故に得られた、死への感受だろうと思っている。

その感受した中身で、慰霊の最大の目的である、御英霊の浄化作用の仕組みがだんだんと、克明に感じるようになった。人間の力が半分、そして残りの半分は、天の力によって叶えられる。人間が持てる力には、祈る人々の真摯さがまず必要であり、死者の望みを想像し、感じ取り、”音”や”香り”や”食べ物”等、それらを御供し、その上で、祈り人が丁寧に天に嘆願することが一番の近道であると言う事だ。特に、「音」は、気の流れが一瞬にして変わる。状況を一新させるのも、音が力を発揮することが多い。こうした状況の中において、人間が努力しても及べない領域がある事を感じ始めたのだ。そして、今回、確信に変わったのである。

亡き戦没者の長年に亘り固執し続けたこの世への想いを、そんな簡単に人間ごときが、祈りだけで浄化させられるわけではない。人間が懸命に祈り、想いを浮かばせる事は出来ても、浄化は非常に難しいものがある。この浄化には、やはり天の力をお借りし、引き上げてもらうしかないのだ。確信した”人間が及べない領域”とは、想いを引き上げるか否か、これらは、天の判断に全て委ねられるということだ。この判断に対し、我々が等しく試されているのである。

戦後、他国に比べ平穏に子々孫々と受け継がれてきた事は、戦没者の犠牲があり、成り立っている。今日の社会に対し不平不満はあっても、彼らの犠牲に対し感謝するこころを持てるかどうか、歴史を受け継ぐ現世を生きる全ての人々が、事象の中で、等しく気づき心から理解出来る力を試されているだろう。

”人間には及べない領域”である天に対する崇拝する気持ちも、遺憾ながら、現代社会はどこか希薄だ。自由をはき違え、原理原則をつい人間は忘れがちだが、戦後処理をないがしろにしてきた事は、実に恥ずかしい国民性であると言える。わたしも、過去知らなかった頃を、猛烈に悔い、それ以降、慰霊を続けている一人だ。

このような慰霊に関する恥部は、残念ながら、本土に復帰した以降も沖縄に集中しており、同じ日本国でありながら、本土の人々は日本の最南端の島に対し、学徒隊の存在そのものも知らない人もおり、どこか他人事のようにも見える。きくさんのような戦争体験者は、アメリカの統治下で結婚し、子供をもうけ、そして子供が思春期を迎える頃に、本土に復帰し、それ以降、平和記念公園など慰霊碑の建立に多くの資金が流れているが、それでも不満がこぼれるのは、この他人事のような風潮が、根底にあるだろう。

今の本土の若者に対し、わたしも何度か尋ねてみたが、10人が10人とも、沖縄戦における学徒の存在を知らないのである。ひめゆり学徒でさえ、知らないという若者が多々いるのだ。この現実を直視すると、進化や進歩と引き換えに失った国民性が垣間見られ、民族としての恥の一端が、そこにあると言えるのではないだろうか。

その観点から見ても、知らないという事のないよう教える語り部を、誰かがするという事は、意義ある事だ。若者がそれらを聞き、どう感じるかは別だが、きくさん達が自らの体験を語る「平和学習」に対し、本土の大学生に向け語られる真意というものは、深く理解が出来る。その行いを戦争体験者が行なうということは、実に皮肉ではあるが、未来の日本を見据え、忘却の恥を払拭されるお姿に、非常に、申し訳なく、時折胸が痛む。

だが、戦争体験を話す事が、きくさんにとって周知こそが、純粋に亡き同窓生への供養だと信じているから出来るとも感じている。そんな語り部の酷な役目を引き受け、慰霊碑にも四季折々供養のためにお参りされているのだから、今回の壕の中で起きた光と影の現象は、不可解に感じられたかもしれない。

これまでの懸命なお参りによって、成仏していると少なくとも願い、信じてきただろう。帰りに立ち寄った喫茶店で、宮城さんが投げかけた問いに、全てが集約されている。これらに対し、わたしの説明はあの時、不十分なものであり、確信的なことはほとんど話さなかった。話す時が来れば、時間をかけて、命がけで話さねば、このご縁も切れてしまうだろう。決死な想いが必要な話題だけに、失礼のないよう、いつか時間を持てればとも思っている。



慰霊に対する、わたしの根本的な考えは、紐解きである。
自分の感受性を使い、放置され続けた縺れた糸を解く。
そのために、日々祈り、天に自身の意を汲んで戴けるよう願い、
その縺れた糸を、一本一本、丁寧に引き上げてもらえるようお願いしている。

少女達の想いは、現世の中において、縺れた糸のままそこに存在していた。この糸が解かれれば、白梅之塔も大きく変わるだろう。ひめゆりの塔とは一線を引いた明るさ。観光化されていない慰霊碑の辺りが、癒され、慰められ、それでも、祈り人がひっそりとやってくる場所。そんな場所に、白梅同窓生の方々がご健在の間に、出来ればと願っている。


生きている者は、勘違いしてはいけない。
特に、戦争を知らない者は、戦争を安易に語るものではない。
語るのであれば、同時にせねばならない事がある。
それは、供養だ。
何度も言うが、語りよりも、黙って手を合わせる事のほうが先なのである。
縺れた糸、ここを放置したまま、完全な編み物も出来るまい。これが真理。
まずは、縺れた糸を解く。それを地道にやってこそ、完全な編み物が出来る。
それが、現代社会を健全な方向へ導く真理だと感じている。


今回の旅で、沖縄戦で巻き込まれた白梅学徒の少女達の生き残りであるきくさん達の話に触れ、まだまだ戦争というものが終わっていないという事を、深く感じている。反面、白梅之塔の少女達の想いも日々の天への祈りを重ねながら、後数回現地に行けば、想いは完全になくなることを確信していた。正直、複雑な想いが過ぎっている。

しかし、壕の中で少女達を想い、彼女達が天へ行けないのに、先には行けないと伝えた日本兵が、矢野兵長さんだったということも、必然として今回の旅を意義深いものにしてくれた。次は、きくさん達である。少女達の想いの浄化よりも、肉体を持つ人間の魂の方が、時間がかかるのかもしれない。それでも、会長であるきくさんが、”赦す”という想いを持ち、この世から旅立てるよう願っている。そう願いながら、慰霊の旅を続けたいと思っている。


深い傷から生まれた本土への不信。ここを払拭できるのも、本土の人間である。
そう思い、これからも、明るく、たくましく、縺れた糸を解くために、慰霊を続けたい。
これが、巡り巡って、祖国のためにもなるのだから。

6月23日には、65回目の沖縄慰霊の日である。沖縄戦で亡くなられた人々を慰めるために、あちこちで慰霊祭が行なわれる日だ。今年も、白梅之塔の慰霊祭に参加する。



少女達を想い、

日本兵を想い、

白梅同窓生を想い、

遺族を想い、

仲間を想い、

私たちの祖国、

日本を想いたい。






【追記】

帰宅後、矢野兵長さんについてを早々に調べました。歴史小説を書いている井野酔雲さんという方が書かれた「沖縄二高女看護隊 チーコの青春」というものに、多くのことが書かれていました。断片的に読んだのですが、着色はあると思われますが、それでも少女達が憧れていたと称される由縁が、行いに散りばめられていました。また、音楽が大変好きだったことも感じられ、壕の中で感じた彼の想いを改めて、描写を通じ、お人柄も含め感じさせて頂きました。彼の人物像に近づいた事によって、より深い供養になるだろうと思っております。

今回同行してくれた白梅慰霊の会のお二人、そして、白梅同窓会の会長である中山きくさん、同期生の岸本瑞江さん、ドライバーをして下さった宮城さん、台風が迫ってくる中、白梅之塔で再会できた事を、心から感謝申し上げます。特に、白梅慰霊の会のお二人には、清掃から祈りまで、大変お世話になりました。こころの底から、ありがとうございます。

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