心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

白梅同窓生と沖縄で8 【この地に佇む全ての御霊に】

2010年05月10日 | 慰霊
壕から出たわたしは、残りの納骨堂、そして白梅之塔の最初にあった慰霊碑、そしてお地蔵様、また隣接された萬魂之塔や陸軍大尉中村巌之碑にもお花を手向ける準備をした。

足の悪い東恩納さんは、献花の際のお掃除なども手伝って下さり、『これはどうしましょう?』などと声をかけてきて下さった。中山さんたちは、ここにお参りに来られた他の男性たちと挨拶を交わし、お話をされている様子。この時間を使い、つぎつぎとお供え物を供えてゆく。




今回、お地蔵様の前にはブロックを2つ置き、お供え物が置けるスペースを確保した。お地蔵様はもともと人々に向け慈愛を持って包み込み、祈りを捧げる者の願いを叶える役目をされる。この一体、中でもこのお地蔵様の隣にある樹木の根が地表から浮き上がった空間があるが、多くの兵士の御霊がここで浮遊している。彼らに捧げる献花やお供え物は、実はこのお地蔵様が一手に担うよう、まるでここに置かれたかのようだ。だからこそ、ここにはその捧げ物を置く場所が必要だったのである。




こうして、誰かが器を置けば、花も供え、蝋燭やお線香を立てて下さるだろう。その願いもあって、わたしはこの陶器類も持ち込んだ。沖縄と本土の宗教は異なるかもしれないが、それでも形式ではなく、この場所で大切なことは、こころである。戦没者への慰霊行為そのものは、受けた御霊にとって宗教は関係のない話だ。慰霊を想う人々それぞれの主観に委ね、花を手向けること。このこころが、御霊にも通じるだろう。

前回訪れた時、このお地蔵様のことが気になっていた。そしてようやく少し形が整えられ、わたしは純粋に、このお地蔵様に日本兵が持つ本土への思いを浄化させてくださるよう願いを託した。

そして、次は萬魂之塔と陸軍大尉中村巌之碑への献花である。1月に訪れた時は、白梅之塔のみでお参りをしたため、ここには一切立ち寄らなかったが、中山さんにお尋ねしこの納骨堂についてお話を聞いた。

『この地区一体は、アメリカ兵の指揮官を日本兵が殺めてしまったため、激怒したアメリカ兵は見境なく徹底的に日本兵も住民も殺したんです。今、この納骨堂に収められた骨は4000柱で、この一体で亡くなられた方々で遺体の引き取りがなかった骨を集め、収めているんですよ。』とおっしゃった。

『そうですか、ならこちらもきちんとご供養させていただかないといけませんね。』

そう告げ、わたしは持ってきたほうきで枯葉を手早く掃き、お花も器に入るよう切花をし始めた。ホームセンターの店員にレジ通過で戴いた輪ゴムも、ここで活用する。

『あらあら・・・ここまでなさって、本当にすみません。わたしたちですら、掃除も出来ないのに、ありがとう。』

『いえいえ、いいですよ。今日ここがどなたの納骨堂かが分かってありがたいです。』


わたしは、あえて、戦争や平和について語るつもりは最初からなかった。この場所は、このような話をしなくても感じさせてくれる場所であり、また同窓生のお顔に刻まれた皺や目の力、そして笑顔、これらに触れ感じる事のそのものの方が大切だと考えていた。

歴史を知る事も大変重要ながらも、人間の根幹を見つめねば、何も始まらない。歴史という知識を知っただけでは終わってはならないのだ。それに触れ、どうしたのか?どうするのか?が、人間が生きる上で大切な事と感じている。わたしはその視点で生き残られた同窓生の方々の行いを見ている。歴史の中で翻弄され、そして生き残り、結婚し、子供を産み、孫も出来、そして最後の余生を平和活動に時間を捧げる。この生き方の一つの手本が、目の前にある。




戦争を経験された方々にとっては、再びあの忌々しい事が起きぬよう、ここで起こった真実を若い世代に伝えようと、風化させぬ活動を今もされている。国家防衛という観点も併せ持ちながら、武力を用い争うことのないよう願う気持ちが、一番複雑に入り乱れ日々考えている方々だろうと感じた。

普天間基地移設問題で、ご高齢になってもその県民大会に参加する、一人でも多くその意思をメディアを通じ沖縄から発信させる、この思いは平和への願いの証しだろう。本土から遠く離れた沖縄を見れば、ニュースでしか垣間見ることの出来ない場所であり、直接的なその憤りや怒りを感じることもなく、どこか他人事のようにしか感じれていないのではないだろうか。ここ、沖縄も最南端の日本国である。

同時に、基地移設先候補地の反対運動もまた考えさせられるものがあり、沖縄県民の負担を結果的に強いる事となっている事は確かだ。候補地に上がらなかった地域の人々は、どのように捉えているのだろう。わたしは、その事を考えるとやはり切ない。リスクとリターンの狭間に、本来ならば我が国民が等しく考えるべき事と感じるからである。問題を肥大化させるのは、必ず無関心が物事の背景にあるという事だ。同じ日本にいながら、一人一人の関心度の格差が存在している事が、今の日本人のこころの象徴と言えるかもしれない。

笑顔を決して見せない中山きくさん。こころに奥深く負った傷、そして自分の欲で生きてこなかった生き様、実際にお会いしてここをより強く感じたのだった。目の前にいる白梅学徒隊の生存者の声に触れ、わたしたちは何を感じ、どうするのか。考えさせられる事は山積である。自国を自国で守ってこなかったツケは、確実に押し寄せようとしている中で、一人一人がこの事に向かい合わなければならない日もそう遠くないと感じた。


(つづく)

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