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西広瀬城 三河 その1 松平元康(後の徳川家康)も攻めたと伝わる佐久間氏の城郭に諸説あり!

2023-01-16 | 歴史

西広瀬城は愛知県豊田市西広瀬町にあります。城主は佐久間氏と伝わりますが信長配下の尾張の佐久間氏ではなく土着の豪族だったともいわれます。佐久間氏配下の岩松弥八は天文十八年(1549)岡崎城の松平広忠(家康の父)を暗殺し(諸説あり)、後に佐久間全孝は松平方の刺客によって暗殺されたとされます。永禄元年(1558)には松平元康が広瀬城を攻めたと伝わります。その後西広瀬城には織田氏の家臣の佐久間信直が入り佐久間氏の同姓により諸説が生じたようです。 今回の参考資料は(1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992 と (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994   (3)「諸国古城之図」広瀬 一(三河加茂)広島市立中央図書館/広島市立図書館貴重資料アーカイブ などです。


西広瀬城 矢作川を挟んで東広瀬城があり城主は三宅氏
 広瀬古城は東広瀬城の三宅氏に属していたとされ、広瀬西城は織田領、広瀬東城は徳川領として対峙していたとも考えられているようです。


西広瀬城 矢作川と飯野川を要害とし西尾根は大きく掘り込んでいる
 後世の耕作地化、道路工事等で改変があり、城道が明確ではありませんでしたが、(3)などを参照すると道アが往時のメインの城道の可能性がありそうでした。道路工事などによって城域の東側は少し削り取られ、往時の地形を失っているようでした。道イは平場①②③④⑤への農道と尾根を北へ抜ける道だったように見えました。道ウは山下の個人宅へ降りていましたので未確認ですが往時も利用されていた可能性を想像しました。道エの入口には案内板と城址碑が立っていましたが、城道ではなさそうでした。


西広瀬城 ⅠⅡⅢⅤⅥの平場は後世の耕作地利用の可能性がある
 耕作地化に伴って往時の城道が改変された可能性がありそうで、(3)とは異なる部分も散見されました。城域の東側は道路と宅地開発で削り取られた部分があるようでした。また(3)では全ての曲輪が土塁で囲まれていたように描かれていますが、確認できたのはⅠとⅣの土塁のみでした。


西広瀬城 城域北側に立つ城址碑と案内板
 城趾碑と案内板が城域北側にあり道エが城址に延びていました。付近には駐車スペースもありました。道エは城道ではなく尾根を越える間道だったのではないかと思いました。


西広瀬城 堀切②、今は耕作地跡  南から 左端を道イ-エが通る
 広瀬城の北西側の尾根を自然地形を利用したと思われる幅広の堀切②で断ち切っていました。今は耕作地の跡が段差のある平場で残されていました。


西広瀬城 道ア  住宅脇に道が残されている   南から
 道アは宅地開発で一部に変更が見られましたがいわゆる赤道(あかみち)らしく、今は平場⑥を経由してⅥ東端部の祠の参道になっているようでした。


西広瀬城  平場⑥ 段差のある平場⑥脇の城道を登る   東から
 道アは段差のある平場⑥の脇を通りⅥへ登ります。平場⑥は城郭遺構のようですが、耕作地として利用されていたようです。


西広瀬城  Ⅵ 奥に祠 左にⅢ方面に登る道   南西から
 Ⅵは帯曲輪状の広い削平地で、耕作地として利用されていたようでした。


西広瀬城 Ⅵ    右手奥に土壇7  東から
 Ⅵは面積が広い平場ですが西側に土壇7があり、資料(1)によると大きな堀切6との組み合わせで通路をジグザグにする効果を狙っているとされます。


西広瀬城 Ⅵ東端部の祠 現役かも
 祠は往時のⅥ東端部を利用して後世に祀られたように見えました。周囲の状況から今もお参りが行われているように見えました。


西広瀬城 Ⅲ 東辺の道 南から 左にⅢ
 Ⅵから9を経由してⅢへの道は一部が後世の農道の様でした。写真の犬走状の道も後世の農道のようで(3)によれば、往時の道は平場9が枡形虎口で、ここからⅢへ入っていたようです。


西広瀬城 ⅡからⅢを見下ろす 北上から
 ⅢはⅠよりも広い曲輪ですが、耕作地として利用された後に竹林となった、よくあるパターンのようでした。


西広瀬城 Ⅱ 北から 右上に主郭Ⅰ
 Ⅱも耕作地だったようで、今は竹林となっていました。(3)ではⅡは描かれておらず西側からⅢ経由で枡形虎口を通りⅠへ登るように描かれていますが、現地では確認できませんでした。Ⅱへの道もあったのではないかと思いますが改変で削られ不明でした。


西広瀬城 Ⅱから主郭Ⅰへの通路 南から
 Ⅱから主郭Ⅰへ登る通路と思われる地形は、Ⅱの耕作地化で幾分削られたようですが残されていました。この辺りの地形は(3)に描かれた図とは一致していませんでした。


西広瀬城 Ⅰ(主郭) 主郭は丁寧
に削平された平面 奥に土塁1 ここも竹林
 Ⅰも耕作地利用されたようですが北西隅には土塁が残されていました。ヒョットすると、土塁上には何かが祀られていて土塁が残されたのかもしれないと想像しました。今回の見学ではニホンカモシカ君が鎮座していました。三河山間部でよく見かけるのはニホンカモシカ君で、天然記念物で保護されて増えたのですが、鹿に追いやられて山里近くに現れるといわれています。   以下、その2へ続く。