砕導山城は福井県高浜町にあります。砕導山は「さいちやま」と読みます。その1では天王山曲輪を中心に、その2では千丈ヶ嶽曲輪を見学しました。今回は後世に社寺が祀られた愛宕宮曲輪、妙見宮曲輪、佐伎治宮曲輪を見学します。曲輪の名称は近年の命名と思われ砕導山城跡保存会のパンフレットに準拠しています。参考資料は(1)見学会当日資料 (2)高浜町郷土資料館提供の当日資料 (3)「福井県史 通史編2(中世) 」福井県編1994 (4)砕導山城跡保存会のパンフレットと資料 などです。※砕導山城その1は→こちら ※その2は→こちら
砕導山城 愛宕宮曲輪と妙見宮曲輪には社殿があるが佐伎治宮曲輪は更地
現況の三つの曲輪は小規模のように見えましたが、資料(2)の縄張図によると、愛宕宮曲輪と妙見宮曲輪の周囲アとイには尾根を断ち切る二重の堀切があり、ウには尾根を断ち切る深い堀切があるようでした。見学時間の関係で見学をしていません。残念!
砕導山城 赤色立体図 よく見ると尾根を断ち切る堀切が見える
三つの曲輪の周囲に天王山曲輪の周囲のような「段切り遺構」は見られませんが、愛宕宮曲輪と妙見宮曲輪の尾根筋には堀切が見られます。
砕導山城 愛宕宮曲輪 Ⅰ郭 神社参道②を登る 東から
千丈ヶ嶽曲輪から道aを進むと道の分岐点①に出ました。ここから愛宕神社の参道②を登り愛宕宮曲輪のⅠ郭へ入りました。
砕導山城 愛宕宮曲輪 Ⅰ郭からの眺望 山下の街道筋と若狭富士がバッチリ
愛宕宮曲輪のⅠ郭からは山下の街道筋から高浜城方面までしっかり見えますので、敵の動きも手に取るように分かったのではないかと思いました。西方にそびえる若狭富士(青葉山)は若狭湾のあちこちから見ることが出来、地元で自慢の景色でした。
砕導山城 愛宕宮曲輪のⅠ郭 南辺の土塁地形③ 東から
愛宕宮曲輪の南辺と西辺には低い土塁地形が在りました。愛宕神社の造営とその後の整備によっての地形のようにも見えましたがどうでしょう。
砕導山城 妙見宮曲輪 南東下の平場④からⅠ郭を見上げる
妙見宮曲輪は国土地理地図で見ると卍マークがついていますので、当初は妙見菩薩を祀った寺院だったのが、近年になって妙見宮になった可能性があり社殿には「妙見宮本殿」の表示板が掲げられていました。平場④付近の地形は階段や坂道などで改変が見られました。
砕導山城 妙見宮曲輪Ⅰ 妙見宮本殿が建つ 左の建物は社務所 奥に若狭富士が見える
妙見宮曲輪には本殿のほかに社務所があり、参拝者やハイカーが多そうでした。Ⅰ郭は改変が激しいので城郭遺構らしい地形はほとんど見当たりませんでした。
砕導山城 妙見宮曲輪Ⅰ郭から北西尾根の平場を見下ろす
以前は妙見宮曲輪の周囲は樹木に覆われて、周囲の見通しは「ゼロ」だったそうですが、最近の整備によって写真のように見事なビューポイントになっていました。妙見宮曲輪のある山は妙見山と名付けられて古くから信仰の場所でもあったようで、北東尾根は傾斜のある削平地ですが城郭遺構かどうかは微妙ですね。
砕導山城 (忠魂碑曲輪)の平場
資料(4)の砕導山城跡保存会のパンフレットには曲輪として記載されていない平場ですが、忠魂碑曲輪の表示板が立っていました。命名の事情は確認できませんでしたが、未公認の平場の名称ということでしょうか。資料(2)の縄張図では、尾根上の平場として描かれていますが、城郭遺構としての地形かは?でした。
砕導山城 (忠魂碑曲輪)に立つ忠魂碑
忠魂碑の建立は明治以降ですから、建立の際に尾根を削平して平場が造成された可能性もありそうです。忠魂碑に関連した式典などがこの平場で行われたのかもしれません。
砕導山城 佐伎治宮曲輪 社殿跡地と思われる石段が残る更地となっている
佐伎治宮曲輪も命名の経緯がわかりにくかったです。地形としては近年まで神社の社殿が建っていた跡地のようで、写真のように石段が残っていました。
砕導山城 佐伎治宮曲輪 曲輪跡とされる更地に植林が行われている
佐伎治宮曲輪は、石段と植林された樹木を見ると、案外新しい時代に寺社の建物が撤去された場所のように見えました。命名は佐伎治神社に近いから?佐伎治神社に関連した社殿が建っていたから?未確認です。
◆大岩について・・今回の見学では訪れることが出来ませんでしたが、佐伎治神社の南側の谷を入ると奥に、禁煙確認された大岩があり『神宿る岩』と命名されたそうです。ガイドさんのお話では、大岩の付近には雨が降ると水が湧く水場があるそうで、砕導山城の水場の一つだったのかもしれないと思いました。
砕導山城をその1、その2、その3で見学してきましたが2時間半の見学時間でも一部未確認の遺構もありました。それでも千丈ヶ嶽曲輪をはじめとして多くの興味深い城郭遺構を楽しく見学でき良かったです。