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三砂城 伊勢 織田信長の伊勢侵攻で主城の北廻城と共に滅んだ小土豪の詰城か

2023-01-11 | 歴史

三砂(みすな)城は三重県桑名市上深谷部にあります。城主は玉井四郎左衛門尉と伝わり、北迫間城主近藤氏の重臣だったので、北廻城の支城であったと考えられています。付近の山下に三砂屋敷が在り玉井氏の居館とされ三砂城はその詰城となっていた可能性がありそうです。今回の参考資料は (1)「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008 と (2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976  などです。
 

三砂城 往時は揖斐川 長良川の乱流の自然堤防上に集落があり山裾を美濃街道が通っていたと思われる
 資料(2)によると、北廻城は滝川一益によって永禄年間(諸説あり)に攻められて降伏したとされ、三砂城の玉井氏もそのころ滅んだと考えられています。現在は田地となっている揖斐川沿岸部も往時は河水が流れていたのではないかと 思いますがどうでしょう。


三砂城 北部を養老鉄道で削り取られⅠ郭には薬師如来堂が建立された
 資料(1)では道aが往時の城道かどうか判断できないとされています。明治の旧地図を見ると養老鉄道に削られる以前はⅣ郭の尾根が北に延びていますので、三砂屋敷からの城道bが設けられていた可能性がありそうです。道aは薬師如来堂に伴う後世の道と考えてもよいのではないかと思いました。


三砂城 道a 南西から
 養老鉄道のガードを潜った道aは折り返してⅠ郭へ登ります。Ⅰ郭には薬師如来堂が祀られていますので、道aはその参道と思われます。


三砂城 養老鉄道の敷設により一部に改変を受けた   薬師如来堂の建立による改変は不明
 養老鉄道の敷設によって城域北端部のⅣ-2が削られましたが、残されたⅣ-1 の遺構は確認できました。美濃街道を三砂屋敷と三砂城で挟んでいたように見えますね。※Ⅳ-2、道bは想像図です。


三砂城 Ⅳ-1郭 平坦面が残る  南から
 Ⅳ郭の東側は鉄道工事によって削り取られていましたが西側のⅣ-1郭は平坦面が残されていました。


三砂城 堀切④    左にⅣ-1郭の南辺 右奥に養老鉄道のレールが見える
 堀切④も東側の一部が削られているかもしれません。ここに道bが繋がっていたと想像してみましたがどうでしょう。


三砂城 Ⅰ郭 奥に薬師如来堂 北から
 資料(1)によると、Ⅰ郭も薬師如来堂の建立によって改変を受けている可能性があるようですが、原形の確認は出来ませんでした。もう一段高い遺構があったように見えますね。


三砂城 Ⅰ郭 南辺の土塁地形① 東から 右手に薬師如来堂
 資料(1)によると土塁地形①は薬師堂建立時に削り残した地形の可能性が否定できないと記されていましたが南からの尾根を断ち切る土塁のように見えました。


三砂城 土塁地形①の中央部の狭い開口部 北から
 土塁地形①の中央部には狭い開口部がありました。城郭遺構か不明でした。想像を逞しくすればⅡ郭への通路の虎口ですね。


三砂城 Ⅱ郭  南から 奥に土塁地形①
 Ⅱ郭は南辺の堀切②で尾根を断ち切っていました。資料(1)ではⅡ郭西辺から北に延びる細い通路がⅤ郭まで通じていた可能性が指摘されていました。


三砂城 Ⅱ郭南側の堀切② 東から かなり埋まっているようだ
 堀切②は南側の尾根を断ち切っていましたが、かなり埋まっているようでした。


三砂城 Ⅲ郭  南から
 竹林になっている平場は、後世に耕作地として利用されていた場合が多いようですが、三砂城ではどうだったか、現在の地表面からでは確認できませんでした。※戦後間もなくの空中写真ではⅠ郭とⅢ郭は耕作地の可能性がありそうに見えましたが判断は難しかったです。


三砂城 Ⅴ郭  帯曲輪? 北から
 Ⅰ郭西下には細長い帯曲輪状の平場が在りました。資料(1)では城郭遺構かどうかの判断が難しいと記されていましたが、Ⅱ郭から延びる道がここにつながっていたとすれば、城郭遺構の可能性もありでしょうか。


三砂城 Ⅰ郭-Ⅲ郭間の堀切地形③ 西から
 資料(1)には記載されていませんでしたが明確な堀切状の地形がありました。ヒョットすると後世の耕作地との関連があるのかもしれません。資料(1)の著者は城郭遺構に対して慎重な見方をされていますので、それらしい地形を城郭遺構と判断するのを避けているようです。

三砂城は堂宇の建立、耕作地としての利用などが考えられますので、城郭遺構と断定が難しい地形がありましたが、往時の姿を想像しながら楽しく見学出来て良かったです。


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