大原城は滋賀県甲賀市甲賀町田堵野にあります。大原家は甲賀衆の有力メンバーで、忍者の書として有名な「万川集海」を伝え、現在も大原城には大原さんがお住まいだそうです。田堵野の地名から類推すると、戦国よりもはるか昔からこの土地の有力者だったと思われます。遺構は一部に後世の改変が見られるものの、おおむね良好に保たれていて見ごたえがありました。
今回の参考資料は (1)「甲賀市史 第七巻 甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010 とWikipedia などです。
大原城 付近には多喜城、梅垣城などの甲賀の城がある
付近の多喜城、梅垣城などはいわゆる山城ですが、大原城は平地に設けられた館城でした。館城の四周には土塁が築かれ、北と西と南の三方は杣川と櫟野川が外堀となり、土塁の周囲にも内堀状の堀が取り巻いていました。 ※多喜城は→こちら 梅垣城は→こちら
大原城 中央奥に大原城 手前右手にⅡ郭 左手にⅢ郭 南から
大原城 Ⅱ郭、Ⅲ郭の南側も屋敷地だった可能性が大
大原城の南側の両側には屋敷地が推定されていますが、周辺は物流の拠点だったとされますのでヒョットすると中央部に杣川の水運を利用する船着場があったのかもしれないと想像してみましたがどうでしょう。
大原城 大手道a 右手上にⅡ郭 左手にⅢ郭 中央奥にⅠ郭の門が見える
資料によると、大原城のⅠ郭の入口(虎口)は南側の一ケ所だけだった可能性がありそうです。そうしてみると写真の道は大手道に該当するのではないかと思いました。
大原城 土壇地形① 南西から
大手道aを進むとⅠ郭の門の手前に土壇地形①がありました。資料によると、①は土塁③と一体の土塁で、往時は逆L字型につながっていた可能性がありそうでした。
大原城 大手虎口の門 南から
大原城は現在も大原さんのお住まいなので、土塁の外側からの見学になりました。南側の虎口には立派な門が構えられていました。
大原城 大手道と土塁②
大手道の西側には土塁③よりも低くて幅広の土塁②が設けられていました。
大原城 通路⑥ 奥に土塁②が見える 左に土壇①、右に土塁③ 東から
資料によれば、L字型の土塁③を後世に切通して通路⑥を造り出したと推定していますので、往時はこの通路⑥は無かったと思われます。
大原城 南東隅の通路d 左に通路⑥ 中央に土塁③ 通路bの右に土塁④ 東から
Ⅰ郭の南東隅には通路dがありました。通路は車の出入り口として後世に設けられたと思われます。
大原城 Ⅰ郭東辺の土塁④と堀⑧ 土塁越しに住宅の屋根が見える 北東から
土塁④は往時の姿をほぼ留めていると思われ、住宅の屋根までの高さがありました。土塁の外側には堀⑧が残っていましたが、少し埋まっている様に見えました。
大原城 Ⅰ郭 北東隅の土塁上に祀られている小祠 手前と右手に堀⑧ 東から
Ⅰ郭の土塁上の北東隅には小祠が祀られていました。鬼門の方角ですので往時から鬼門封じとして祀られていたのではないでしょうか。堀⑧は土橋を挟んで堀⑨として西に延び、杣川に達していたのではないかと思いました。
大原城 北辺の土塁開口部b 手前に土橋 北から
資料では開口部bの現況から、後世の可能性が高いとされていましたが、折れを伴う土橋と土塁開口部を見ると、多少の改変は受けたとしても往時から搦手口として設けられていた可能性があったのではないかと想像しましたがどうでしょう。
大原城 Ⅰ郭 南西隅の狭い開口部C 排水溝だった可能性がある
Ⅰ郭の南西隅にも開口部がありました。この開口部の幅は狭く、人の通行は考えにくいのでⅠ郭内の水を杣川へ流すための排水溝だったのではないかと思いました。資料でもその可能性を指摘していました。
大原城 Ⅲ郭 北西隅の石垣⑩ 北西から
Ⅲ郭の北西隅には石垣⑩が残っていました。杣川に近いので、屋敷があった時の護岸遺構かと思いましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。
附近には山城の多い中、大原城は異質の存在でしたが、意外に遺構の残りがよく、興味深い有力豪族の城館の姿を見ることが出来て良かったです。