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三河・東黍生 城山の城郭伝承地の城道を探して比高200mを登る

2021-09-23 | 歴史

東黍生は愛知県豊田市足助町にあります。黍生は「きびゅう」と読み西1kmには黍生城、東1.4kmには城山城があり南山下の巴川沿いには成瀬城があります。付近に黍生の地名があり黍畑があった時期があったのかも知れません。現在は林道が敷設されていますが、農業用としても利用されていた可能性があります。
 足助の城としては最古級で飯盛山城以前の足助氏の城という説もある興味深い伝承地です。
今回の参考資料は(1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001 と (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 です。
 資料(2)では東黍生城伝承地として城郭遺構は無いとされ、資料(2)では城郭遺構の可能性を否定しない記述となっていましたが(1)を尊重した為なのか「東黍生」として「城」は付けていませんでした。今回は(1)を採用して東黍生として見学しました。

 
東黍生 最高所(標高353m)は自然地形、北側の削平地群の解釈が資料(1)、(2)で分かれている
 最高所は自然地形と見え、人手が加わったようには見えませんでした。北側の削平地群について資料(2)では城郭遺構を否定、(1)では可能性を示していました。前回訪れたときには後世の林道を歩いて登りましたが今回は成瀬城の付近から南側の尾根を城道を探しながら登りました。下山は途中から南東尾根を下り成瀬城へ向かいました。国土地理院webで昭和24年の米軍空中写真を見ると図1の付近には段々畑があり、東黍生付近も樹木が無い部分が写っていました。この辺りに黍を栽培していた時期があったのかも知れませんね。
 ※図1の駐車スペースは紅葉の季節には使えません! 
 

東黍生 城山①は最高所でほぼ自然地形、北側の削平地Ⅰ~Ⅶが東黍生か
 林道③、山道D、山道⑪など何本も道を確認できましたがからの林道⑫以外は現在使われていないようでした。図2の⑧の林道終点に小屋が建っていました。
 Ⅰ~Ⅶの削平地について(2)では「立地・形態から城館遺構とは考えにくい」として図は有りませんでしたが資料(2)では縄張図が丁寧に描かれていました。


東黍生 南尾根Aを登る 所々に平坦地がある
 成瀬城付近から南尾根Aに取り付いて登ると、ここが城道とは確認できませんでしたが細尾根の足場は案外良好で、所々に人工と思える平坦地が有りました。


東黍生 最高所① 北から  城山山頂で標高353m 自然地形と見える
 南尾根を登り切ると山頂部は自然地形のようでした。飯盛山城より古い城だとすれば、樹木がなければ展望が素晴らしいはずですので見張り台の機能で利用した可能性があったかも知れないと思いました。


東黍生 図2 採石跡のある大石② 現代のものであろう
 三河山間部の城址で時々見かける現代の採石跡だと思います。矢穴でちょうどよい大きさに割って運び出した跡のようです。運び出すための車が通れる道が近くにあるはずですがどうでしょう。


東黍生 Ⅰ郭西下の林道跡 今は植林され道の機能は失われた
 ②から少し北に進むと林道③がありました。林道にも植林がされ今は車は通れませんが採石を運び出した時には現役の林道だったと思われます。植林の木の太さがあまり太くないので近年まで林道は現役だったのではないかと思いました。


東黍生 Ⅰ郭の平坦面 南から 
 削平地群の中では一番高い位置にありました。土塁などの遺構は見当りませんでした。Ⅰ~Ⅶの記号は僕が勝手に付けました。 


東黍生 Ⅲ郭からⅠ郭を見上げる 高低差は4m近い  ※人物と比較
 Ⅲ郭も丁寧に削平された平場でした。Ⅰ郭との切岸の高低差は4m近く有りそうでした。Ⅲ郭の東辺には炭焼窯の跡らしい窪みがありました。山間部ではどこも炭の製造販売が戦後しばらくまで大切な収入源だったのでここにもその痕跡が残されているのではないかと思いました。


東黍生 手前にⅤ郭  奥に一段高くⅡ郭、その奥に⑤
 城跡を山畑として後世になって利用したとすればⅤ郭は後世の山畑のために造り出されたと考えられそうでした。


東黍生 山道D 東から  ⑤の高所(土塁?)を巻くようにⅤ郭へ向かう
 東黍生へは何本もの道が通じていますがは東側からの道でした。城道かどうかは確認できませんでしたが黍生の山畑への道かもしれませんね。


東黍生 Ⅴ郭の水場⑨ 今も水が見える
 以前来た時にも水が有りましたが今回も水が有りました。Ⅱ郭側にも井戸跡風の土坑⑩が有りましたが水は見えませんでした。東黍生が城郭だったとしたら水には不自由しなかったことでしょうね。


東黍生 Ⅱ郭 北から 左手に高所⑤は土塁?
 Ⅱ郭の東側は削り残しの高所⑤がありました。城山頂上から北に伸びてきた尾根の先端部に当たりますが土塁と言っても良いかも知れません。

東黍生は伝承のように古い城址遺構か?後世の山畑跡なのか? どちらとも断定はできませんが、城郭遺構が改変されたと考えることも出来そうでした。
 南東尾根Bには尾根を削った平場に墓地が有り谷地形には耕作地跡が見られ道跡が有りましたが、城道の確認は出来ませんでした。
 今回の見学では城道を見つけられませんでしたが、東黍生を改めて丹念に見学できてよかったです。

※成瀬城、城山城、黍生城の見学は改めて記事にしたいと思います。