萩原諏訪城は岐阜県下呂市萩原町にあります。秀吉の命を受け飛騨地方を統治した金森氏の一族による築城とされ、一時期は「金森家旅館」として金森氏の宿泊施設として利用され、後に金森氏の転封により破却されたと伝わります。その後に築城時に移転していた諏訪神社が再造営され、積み直された河原石のみごとな石垣が全体を覆っていました。
今回の参考資料は(1)「飛騨中世城郭図面集」 佐伯哲也著 2018 と現地案内板です。なお萩原諏訪城の北約600mには金森氏以前の古くからこの地を支配していた三木氏の桜洞城があります。
※桜洞城は→こちら
萩原諏訪城 飛騨川左岸の河岸段丘上に城は築かれている
もともと神社のあった場所で、西と北は段丘崖を利用し南と東は堀を設けていました。堀は水堀だったと言われますが、今は空堀となっておおむね残存していました。三木氏の桜洞城の守りは堅固とは言い難い構造でしたが、萩原諏訪城は堅固な守りの城塞で、金森氏が新たに萩原諏訪城を築いた理由がわかるような気がしました。
萩原諏訪城 Aが主郭、Bは馬出し曲輪
資料(1)によるとAが主郭、Bは馬出し曲輪で①に土橋があり大手だったとされます。Bにある参道は後世のもので、往時の虎口は①の土橋だったということです。今はBに集会所が立ち堀1は埋めたてられていました。Aには諏訪神社の立派な社殿が造営されていますが曲輪の周囲の櫓台とされる土壇は残されていました。
Aの北東隅⑪は角が切り落とされたような地形になっていましたが、いわゆる「鬼門除け」ではないかと想像しましたがどうでしょう。
萩原諏訪城 城坂 東上から 右手の諏訪神社参道は後世の改変
西下の飛騨川方面から城坂を登るのが大手道でした。今は坂を登りきったところに諏訪神社の参道が設けられていますが往時は切岸か川原石で積まれた石垣が有ったのではないでしょうか。
萩原諏訪城 諏訪神社参道
参道は後世のいわゆる「破壊道」で往時はこの参道はなくて、切岸または石垣だったのではないでしょうか。諏訪神社は築城時に遷座し廃城後に再建されたと伝わります。
萩原諏訪城 大手から土橋、堀②、櫓台③を見る 東から
今は堀1は埋められ集会所の建物が建っていて、土橋の痕跡もほとんど見えませんでしたが堀②と櫓台③は確認できました。段丘上にある堀が水掘だったというのには疑問を感じていましたが、今回の見学によってほぼ解消しました。
萩原諏訪城 堀④ 右手にB 中央に土橋② 左手一段上にA 川原石の石垣が見どころ!
写真のように萩原諏訪城の石垣は河原石で積んだ見事なものでした。石垣は傷んでいたので積み直しされたようですが往時もこのような景観だったのでしょうね。堀④も水掘だった可能性があるのかも知れませんが確認はできませんでした。A 側の石垣が二段になっていますが、資料(1)によると当時の技術ではこの高さを一段で積むのは難しかったようです。
萩原諏訪城 堀2の東辺 南から 左手上に川原石で積まれた櫓台③
Aの東辺も川原石で積まれた全面石垣でした。堀2は現在は水がありませんでした。奥に見える橋⑫は昭和6年以降に架けられた橋で往時はなかったと資料(1)にありました。
萩原諏訪城 堀3の水門⑩ 南から
堀2は緩やかに下がり、橋の北下の堀3には水門が在りました。ここから北に向けて更に傾斜があり、水路⑬になります。堀2から北辺下の水路までおよそ4mほどの高低差がありますので、堀2・堀3が水掘だったとしたら往時も水門か堰堤が2~3ケ所あったのかも知れないと想像しました。資料(1)によると古老の話として「以前は堀に水があった」と記されていました。また北西下の池に立つ案内板によると「水掘から湧いた水を利用して池が造られた」とありましたので往時は堀も湧き水を利用して水掘になっていたのだろうと思いました。
萩原諏訪城 北西隅の岩石の崖⑧ 天然の要害が見どころ!
Aの北西隅は岩石の崖⑧となっていて天然の要害で、いわゆる後ろ堅固な城だったと思われます。
萩原諏訪城 搦手の虎口⑦と櫓台⑥ 残存石垣が見どころ!
Aの西辺には搦手の虎口⑦があり、写真の虎口石段の左側には櫓台⑥が残存していました。櫓台⑥と虎口付近の石垣は往時のもので見どころでした。写真の石段は近年の整備です。
資料(1)によると付近は発掘調査がなされ、残存石垣には裏込石が認められたようです。
萩原諏訪城 A北東隅の櫓台④ 櫓台の周囲は石垣 今は稲荷神社
Aの周囲には櫓台とされる石垣積みが4ヶ所確認できました。写真は北西隅の櫓台④ですが、櫓台の周囲は河原石の石垣になっていました。
河原石は城下の西側の飛騨川から運び上げれば豊富に得られたためでしょうか、すべてが築城当初からのものか「金森家旅館」の頃のものかわかりませんが実に贅沢に使われていました。
※城下を流れる飛騨川は往時は益田(ました)川と呼ばれ、飛騨川は下流部の名称だったのが近代になって上流部も飛騨川に統一されました。
萩原諏訪城は発掘調査の調査指導員の佐伯 哲也さんの資料(1)を参考にして見学しましたので、ちょっと見では気付かない部分も見学でき良かったです。
※より詳しくお知りになりたい方は「萩原諏訪城発掘調査報告書」で検索すると発掘調査結果や縄張図がご覧になれます。