宝島のチュー太郎

酒屋なのだが、迷バーテンダーでもある、
燗酒大好きオヤジの妄想的随想録

書くことが・・・

2007-04-26 10:57:42 | 死ぬということ
ここ最近、新たな取り組みの一環で、電子メールやメーリングリストへの投稿に数時間を費やしている。
今朝も始業前に2時間ほど。

人のキャパってえのは器が決まってるのかなあ。
そのお陰で、ここへの投稿ネタを思いつかないのである。
いや、その熱意が無い・・・とも言える。

そんな訳で、今抱えているテーマ「死」についての私的考察のココロだ~。

人は必ず死ぬ。
世に絶対と言えるものがあるとすれば、これこそが絶対だ。

それを超える「大事」があろうか?

てことは、それを見つめることで達観出来るのではないかと、小学校の頃から考えてきた。
でも、今この体たらくなのだから、真剣に考えた訳ではないのだろう。

「人は、太陽と自分の死は直視出来ない」
細かい部分は違うかも知れないが、こういう格言がある。

でも、それは確実にやってくるのである。
ならば、こちらから出迎えてやった方がいいのではないか!?
その方が「死」と仲良く出来る。

「散る桜 残る桜も散る桜」
この句が好きだ。
憐憫の情の中に、爽やかな覚悟が見てとれる。


私は、一体何が言いたいのか?

特にないのです。
ただ、そうした根本を見つめることで、今目の前にある悩みなんて、高が知れてるという「悟り」が生まれるのではないか?

結果、「気」が醸成するのではないか?


なんてことをチラホラ考えるのです。
もっと早く哲学すべきだった、とも思うのです。

高校時代に囓り掛かったカントの「純粋理性批判」とか、なんとかかんとか、大学受験なんてほっぽっといて(といっても、それも一所懸命やったわけでもないが)、そっちをむさぼり読んだ方が、もっと早く、「気づき」が得られたのではないか?

なんて、ヤクザなことを考えたりする自分がやっぱりどこか好きなところは、
確かにB型だし、お気楽なナルシストだということにも薄々気づいているのです。


あ、
わかった!


これ、文章の打ちすぎでラリってるのです。
これじゃあ、小説家にはなれんなあ・・・




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

植木等

2007-03-29 12:43:06 | 死ぬということ
植木等さんが亡くなった。
ついに亡くなった。
80歳とのこと、すると、1927年生まれということか、昭和なら2年。
亡父が3年生まれだから、やはり父は早く逝きすぎた。

人は着実に老いる。
そして絶対に死ぬ。
もしかするとこれだけが絶対という副詞?をつけていい人の鉄の掟なのかもしれない。

基本的には、肉親以外の死は他人事なわけだが、その思い入れによって、他人の死も心に沁みることがある。
そういう意味では、餓鬼の頃から馴染みのある有名人についてもそれに近いものがある。
例えば、長嶋茂雄はいつまでもユニホーム姿であってほしいし、高倉健は渋い中年のままでいてほしい。

植木等もいぶし銀の名脇役であり続けてほしかった。

たまたま亡くなった日にそれと知らず、レンタル店で「無責任男シリーズ」のDVDに手が出かかったところだった。

私が小学生の頃によく観た「シャボン玉ホリデー」の映像は残ってないから映画ならという感じなのだが、その日は「若大将シリーズ」にした。

ほぼ同時期の映画だろう。
もう40年余り前のこと。
「若大将」の実家の鰻屋のシーンがいい。

次は「無責任男」も観てみよう・・・


追記
「絶対」は形容動詞でした。

国語の品詞の一。活用のある自立語で、文中において単独で述語になることができ、言い切りの形が、口語では「だ」、文語では「なり」「たり」で終わるもの。「静かだ」「静かなり」「堂々たり」の類。。形容詞と同じく事物の性質や状態などを表す語であるが、活用のしかたが形容詞と異なる。口語の形容動詞は活用のしかたが基本的には一つで、「だろ・だっ(で・に)・だ・な・なら・〇」と活用する(若干の変種がある)が、文語の形容動詞にはナリ活用・タリ活用の2種類がある。なお、活用語尾が「から・かり・かり・かる・かれ・かれ」と語形変化するものをカリ活用として、形容動詞の一活用とみる説もあるが、現在の学校文法では形容詞の補助活用として扱う。




クレージーキャッツ 無責任ボックス (初回限定生産)

東宝

このアイテムの詳細を見る


エレキの若大将

東宝

このアイテムの詳細を見る


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太陽と死は直視することができない

2006-10-22 10:23:43 | 死ぬということ
私のお気に入りのひとつは、トイレの本棚。
用を足しながらそのときの気分に応じて1冊の本を手にする。
すると、往々にして、実際に必要な時間の数倍の時をそこで過ごすことになる。

昨日のそれは、死ぬための教養という本だった。

その中に登場するセンテンスのひとつが、今日のタイトルの「太陽と死は直視することができない」である。
なるほど、うまいこと言うなあ。

ちょっと調べてみた。
「太陽と死」というキーワードでyahoo検索。
トップ画面に上がってきたものだけでこれだけの言い回しがある。

・人間は太陽と死は正視できない。(ラ・ロシュフコー)
・「太陽と死はじっと見つめることができない」(ラ・ロシュフーコー)
・この世に正視できないものがふたつある。それは太陽と死だ……フランスの箴言家、ラ・ロシュフーコーの言葉である。
・「人がじっと見つめていることができないものが二つある。 それは太陽と死である」

行き着くところは同じでも、これほど言い回しが違うというのは、この格言だからなのか、それとも皆が適当に書くからなのか、いずれにしても、どれが一体オリジンなのかが判らない。

まあ、それを突き止める気力は今はないからほっぽっといて、と。


そう「死ぬということ」は、多分思考する生き物にとっての宿命であると同時に永遠のテーマなのだ。

私は、頭でっかちな高校生の頃、よく想定問答を考えた。
その究極の質問が、「何故生きてるの?」であった。

そして、当時の私が導き出した答えが、「死に方を見つけるため」だった。

勿論、人間の生の深淵を見据えた上でのことではなく、ケツの青い小僧の哲学遊びである。
ただ、その結論については未だに変わりはない。

そろそろ本気でそれを受け入れる準備をしなければ成らないこの歳になって、もう一度哲学小僧だったあの頃の心境に戻りつつある。

そんなこんなで「死ぬということ」というカテゴリーを増やしてみた。
今後折に触れ書いてみたいと思う。

放屁かゲップのようなものだろうけど。



上の行動で行き着いたサイトにこんなのもあった。

・死が真正面から自分を襲ってきた時、人から借り物の死生観では、これを 乗り越えることはできない。(岸本英夫)

正しくその通りだと思う。

きっかけとなった下の本は、どうやら酷評されているようだが、なに、人間、自分で考えられることは高が知れている。
ならば先人の知恵を拝借するのもひとつの手段だ。

そこから生まれる「気づき」が自己の潜在意識かも知れない。
要は、それらをよく咀嚼することだ。
「死」から逃げぬことだ。


すると、「身の回りに在る大概のことは大した問題ではない」
と、思えてくる・・・




死ぬための教養

新潮社

このアイテムの詳細を見る






にほんブログ村 酒ブログ 酒屋へ
にほんブログ村 酒ブログ 酒屋へ

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目次

イチオシ  酒の宝船(宅配専門)価格表  読み返したい記事

まだまだ工事中です・・・

実は!

 「酒の宝島」は、こんないきさつから、大七さんの酒造りの姿勢に惚れて、特約店とさせていただいております。
「地酒大show 2011」何と三年連続・三冠独占でついに【殿堂入り】
【大七酒造】純米生もと 1800ml

 純米生もと、からくち生もと、本醸造生もとを定番商品として常時販売しておりますので、お近くの方は送料の掛からない「ご来店」でお買い求めください!

宝地図(真ん中が当店です)