男性と女性の能力には違いがあるのに、性差による能力に関わりなく女性エンジニアやリーダーを増やそうとするのは無理があると言うソフトウェアエンジニアの男性が書いた、グーグル(Google)社の内部文書が漏れ、多様性ガー、男女差別ガー喧々囂々となったのは数日前。今度は、当の男性社員が首になったことで、発言の自由ガー!で、また騒ぎ。グーグルCEOのスンダル・ピチャイ氏は、「この発言は会社の行動規範に抵触し、また、同僚に対して侮辱的である」と説明しています。
私は、特にフェミニストじゃないけど、保守的な考えの持ち主でもないと自分では思っています。昔々、川に洗濯に行ったことはないが、ピラニアの泳ぐ川をアルミの小舟で開発援助現場を視察に行ったことのある若いわにだったころ、途上国における女性教育とエンパワメントを専門としていた背景もあって、女性の社会進出を嬉しく思ってます。私が大学生だった時は、経済学部の女生徒なんて珍獣扱いでしたが、今どきは全然フツーでしょ?
だからこそ、数を合わせるために、要求能力レベルを下げても女性を雇うってのは、かえって「なめとんのか、ゴラァ!」と、ムカつく。この男女差騒動で陰に押しやられた感もありますが、アメリカでは他の差別が話題になっています。アメリカのアファーマティブ・アクションは、Wiki先生曰く「アフリカ系アメリカ人(黒人)やラテン系の平均の学力が低いために進学率が低いことを是正するために、大学において一定枠の確保(理想としては黒人の全人口に対する割合と同一の合格確保)」という制度ですが、これは逆差別ではないかという議論はずっとありました。
これが急に先週になって注目を浴びたのは、「ちょっと、大学が人種を基に差別してんの取締まるべきじゃね?」と、米司法省が計画してるってメモを入手したニューヨーク・タイムズの記事のせい。米司法省のメモを入手したニューヨーク・タイムズの記事のせい。実際、2005年のプリンストン大学の調査によると、アジア系アメリカ人、特定すれば東アジア系の学生は、大学進学のための適正試験、SAT(1600点満点)で、白人より140点、中南米系より270点、アフリカ系よりなんと3割近い450点高い得点を得ないと、同じ土俵に立てないっていう数字が出ています。別に何も目新しい話ではなく、うちの息子らが小さい頃には既に、大学の進学願書の人種欄に「アジア人」って書いたら、すっごく不利になるってのは、アメリカの日本・中国・韓国人母間の常識でした。
実際にハーバード大学を含むエリート校で、アジア人が人種を理由に入学を許されなかったという裁判が進行中ですが、大学側の言い分の一つは、生徒を選ぶのは学科試験のテストの点だけではなくて、学生時代のクラブ活動やらボランティア経験等の、お勉強以外での活躍や、その人物の独自性が大きく考慮されるから、別にアジア人だからって差別してんじゃない、なのですが、アジア人母の私なんぞは、だったらアジア人の高校生は、スポーツや社会活動してないっつーんかいっ?!って、嚙みつきたくなる。
人種による入学許可の振り分けが禁じられているカリフォルニアでは、アジア人の人口割合が15%に対し、カリフォルニア州立大学システムの学生の3割がアジア人。そして世界的な名門、カリフォルニア工科大学の2013年度の入学生は、実に43%がアジア人。統計はないけど、MITで教えてる友人によると、もう何年もアジア人が圧倒的に多く、学部によっては、ここはもう中国か、はたまたムンバイか状態なんだそう。なんやかんや言っても、人種を考慮しなかったら、結局アジア人ばっかになるんやんか!である。
一方で、東アジア系かインド系以外のアジア人の高等教育入学率は、アフリカ系よりも低いのに、全く優遇されていないという事実もあります。一方で、大学の多様性ある環境を保つために、多様な人種を選択的に受入れるのは正当化されるとの反論もあります。また多様化かい。便利な言葉だねぇ。
本当の「差別をなくす」とは、能力や可能性を見極め、性別や人種への偏見から完全に解放されることだと私は思います。女性の有能なプログラマーや経営者も勿論いるけど、彼女たちは女性だから有能なんじゃないし、物理学者のキューリー夫人や、先に亡くなった数学者のミルザハニさんも、優秀な頭脳を有する人がたまたま女性だっただけ。同様に、ニール・ドグラース・タイソン博士は、たまたま黒人だっただけ。そして、たまたま白人男性の、優秀な科学者やプログラマーも沢山いる。ビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグは、白人男性であることで有利だったかもしれないけど、彼らが人並外れた経営センスを持って生まれたのは、白人男性だったから、ではないはず。
でも、男とか女とか、白人だからとか黒人だからとかって、見た目の先入観や偏見から逃れるのは難しいよねぇ… 先日のテッド・チャンの「顔の美醜について」の記事じゃないけど、人は見た目に大きく影響される生物だもの。
ちなみに私は面食いです。
私は、特にフェミニストじゃないけど、保守的な考えの持ち主でもないと自分では思っています。昔々、川に洗濯に行ったことはないが、ピラニアの泳ぐ川をアルミの小舟で開発援助現場を視察に行ったことのある若いわにだったころ、途上国における女性教育とエンパワメントを専門としていた背景もあって、女性の社会進出を嬉しく思ってます。私が大学生だった時は、経済学部の女生徒なんて珍獣扱いでしたが、今どきは全然フツーでしょ?
だからこそ、数を合わせるために、要求能力レベルを下げても女性を雇うってのは、かえって「なめとんのか、ゴラァ!」と、ムカつく。この男女差騒動で陰に押しやられた感もありますが、アメリカでは他の差別が話題になっています。アメリカのアファーマティブ・アクションは、Wiki先生曰く「アフリカ系アメリカ人(黒人)やラテン系の平均の学力が低いために進学率が低いことを是正するために、大学において一定枠の確保(理想としては黒人の全人口に対する割合と同一の合格確保)」という制度ですが、これは逆差別ではないかという議論はずっとありました。
これが急に先週になって注目を浴びたのは、「ちょっと、大学が人種を基に差別してんの取締まるべきじゃね?」と、米司法省が計画してるってメモを入手したニューヨーク・タイムズの記事のせい。米司法省のメモを入手したニューヨーク・タイムズの記事のせい。実際、2005年のプリンストン大学の調査によると、アジア系アメリカ人、特定すれば東アジア系の学生は、大学進学のための適正試験、SAT(1600点満点)で、白人より140点、中南米系より270点、アフリカ系よりなんと3割近い450点高い得点を得ないと、同じ土俵に立てないっていう数字が出ています。別に何も目新しい話ではなく、うちの息子らが小さい頃には既に、大学の進学願書の人種欄に「アジア人」って書いたら、すっごく不利になるってのは、アメリカの日本・中国・韓国人母間の常識でした。
実際にハーバード大学を含むエリート校で、アジア人が人種を理由に入学を許されなかったという裁判が進行中ですが、大学側の言い分の一つは、生徒を選ぶのは学科試験のテストの点だけではなくて、学生時代のクラブ活動やらボランティア経験等の、お勉強以外での活躍や、その人物の独自性が大きく考慮されるから、別にアジア人だからって差別してんじゃない、なのですが、アジア人母の私なんぞは、だったらアジア人の高校生は、スポーツや社会活動してないっつーんかいっ?!って、嚙みつきたくなる。
人種による入学許可の振り分けが禁じられているカリフォルニアでは、アジア人の人口割合が15%に対し、カリフォルニア州立大学システムの学生の3割がアジア人。そして世界的な名門、カリフォルニア工科大学の2013年度の入学生は、実に43%がアジア人。統計はないけど、MITで教えてる友人によると、もう何年もアジア人が圧倒的に多く、学部によっては、ここはもう中国か、はたまたムンバイか状態なんだそう。なんやかんや言っても、人種を考慮しなかったら、結局アジア人ばっかになるんやんか!である。
一方で、東アジア系かインド系以外のアジア人の高等教育入学率は、アフリカ系よりも低いのに、全く優遇されていないという事実もあります。一方で、大学の多様性ある環境を保つために、多様な人種を選択的に受入れるのは正当化されるとの反論もあります。また多様化かい。便利な言葉だねぇ。
本当の「差別をなくす」とは、能力や可能性を見極め、性別や人種への偏見から完全に解放されることだと私は思います。女性の有能なプログラマーや経営者も勿論いるけど、彼女たちは女性だから有能なんじゃないし、物理学者のキューリー夫人や、先に亡くなった数学者のミルザハニさんも、優秀な頭脳を有する人がたまたま女性だっただけ。同様に、ニール・ドグラース・タイソン博士は、たまたま黒人だっただけ。そして、たまたま白人男性の、優秀な科学者やプログラマーも沢山いる。ビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグは、白人男性であることで有利だったかもしれないけど、彼らが人並外れた経営センスを持って生まれたのは、白人男性だったから、ではないはず。
でも、男とか女とか、白人だからとか黒人だからとかって、見た目の先入観や偏見から逃れるのは難しいよねぇ… 先日のテッド・チャンの「顔の美醜について」の記事じゃないけど、人は見た目に大きく影響される生物だもの。
ちなみに私は面食いです。
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