龍潭寺についての歴史は、享保年間に書かれた祖山和尚の『井伊氏伝記』によれば、往古地蔵寺、のち自浄院、龍泰寺と改名され、永禄三年炎上ののち龍潭寺となったといいます。自浄院は井伊氏祖共保出誕のとき産湯の古跡と述べています。これが事実であれば、地蔵寺は「井伊氏系図」共保の十一世紀後半以前には既にあり、自浄院が十一世紀後半までに建てられたということになります。
他方寛政三年(1791)に『遠江風土記伝』は元中二(1385)年八月十日井伊館で薨かった後醍醐天皇第二皇子宗良親王香火の地であり、その法号冷湛殿を以て冷堪寺とした。のち荒廃していたのを、井伊直平・同直宗・直盛が黙宗禅師を懇請して自浄院に住せしめた。この地は井伊氏祖の香火のちでしたが、狭隘でしたので、天文年間(1532~1555)井伊信濃守直盛が龍泰寺に改め、禅師を中興開山としたといいます。これによれば、十四世紀末冷堪寺が創建され、その後荒廃していた。一方十一世紀後半井伊氏祖共保の死後建てられた自浄院が別にあり、十六世紀中頃自浄院を院家とするかたちで、直盛が龍泰寺を創建し、黙宗禅師を招請して中興開山としたことになります。
後者は宝永元年(1704)の書写本(長野県大龍寺蔵)が残っている江戸時代に書かれた、著者成立年代不詳の『信濃宮伝』によっていますが.
この本はたんなる物語のようなもので、史料的価値は非常に低いといわれています。宗良親王の薨去の時期・場所は記録に残っていません。この「冷湛寺殿」という法号は龍潭寺の存在があって、逆に名付けられたのでしょう。それゆえ祖山和尚はこの記事を載せなかったのです。「
多方[地蔵寺」という小字は明治の公図に御手洗の井の側にありますが、十一世紀後半以前に遡るかどうかは不明です。次の自浄院は八幡宮の御手洗の井の継承者ですが、八幡宮は八幡宮寺といわれるように、仏教色の強い社です。
まずこの地域の古い仏教を見ていく必要があります。画期のひとつは奥山方広寺開創だと思われるので、それ以前を取り上げていきます。
寺伝では、龍潭寺は奈良時代行基開創と伝えます。五来重氏は「行基開創寺院」と伝承される寺院について、行基の集団は「聖集団」であり、「律令下の官寺と違い、行基が建てた畿内「四十九院と伝えられる寺には、ほとんど例外なく三昧聖がおったのであり、火葬場がついて」いた。そして「庶民のための民間寺院の開創者に行基があてられているのは、行基が聖であり菩薩であったことと、葬送の道を教えたということが、主な理由である」と述べています。(『日本人の仏教史』五來重著 角川書店 平成元年)葬送は官僧の行いえないところですので、私度の沙弥・優婆塞である聖の所業であったのです。また宮家準氏は、行基が「法相宗を日本に請来するとともに各地を遊行して土木工事に
もたずさわった道昭」の弟子であり、「葛城で修行したが、その後薬師寺に属し、民間布教と社会事業に従事し、後には東大寺大仏建立の大勧進を勤め」(『役行者と修験道の歴史』 宮家準著 吉川弘文館 2000年)ていたといいます。ここでは、勧進聖であり、その根は、遊行の聖であった道昭の教えであり、修験の山葛城山での修行にあった、といっているのです。こうして行基開創を伝える多くの寺院は、葬送も行う聖集団や山林抖擻や木食行などの苦行的な持経者、あるいは修験者と関係していたと考えられます。龍潭寺も行基開創を伝える寺院のひとつです。そこで、井伊谷やその周辺における聖集団や山岳信仰、修験との関係を少し見ていきます。
【東光院】
方広寺以前の古刹として、まず取り上げなければならないのは、渋川東光院でしょう。寺伝では、井伊五郎直之が正安元年(1299)広度寺を建立し、紀州由良興国寺心地覚心(心地は房号で、無本が道号ですので、以下無本覚心とします)の上足幽泉意公を請じたのが始まりであると伝えます。直之は正和五年(1316)十月二十四日に亡くなります。法名を前遠州太守温渓良知大禅定門という7ので、官職名からは井伊家嫡流にあたります。また広度寺殿ともあります。渋川神明宮棟札に、正安二年(1300)正月造立で、願主「井伊五郎藤原直之」とあり、詳しいことはよくわからない人ですが、確かにこのころ生きた人で、東光院の前身である広度寺の開基なのでしょう。当山鎮守八幡宮を、応永三十一年(1424)十一月、井伊直貞法井道賢が修造しているので、この寺がこれ以前に存在していたのは確かです。また応永年中(1394~1428)東光院に改称したといいますが、その時の檀那の法名を「東光院殿仁仲誠安居士」と、年不詳棟札にあって、俗名西尾半田というともありますが、この棟札の真偽については不明です。
開山幽泉意公は、無本覚心を派祖とする法燈派の法系図(例えば『禅宗大辞典』法蔵館)には出てきません。むろん、法を嗣いだが、法系図から抜け落ちたということはありえます。さて、この「意公」の「公」は字の「幽泉」とのつながりが認められず、尊称でしょう。諱の上の字は通字だと思いますが、師僧との関係は不明です。それでこの方面から、授業師あるいは法を受け継いだ師の名前をたどることはできません。とはいえ、渋川に隣接した地に「別所」地名があり、行基にちなむと伝承する「四方浄」という地名があって、こうしたことからも、先に述べたように、聖や修験者と関係するのではないかという気がます。五来重氏によれば、覚心の信仰は禅・密教・念仏の混合で、禅は高山慈照、東海竺源、孤峰覚明が承け、真言と密教は高野山萱堂聖が承けたといいます。萱堂聖は唱導の文学と芸能に特色があり、高声念仏と鉦叩念仏のほかに踊念仏も興行したといいます。(『高野聖』角川選書1984年)これは、この地に根付いている大念仏に繫がります。また金王丸の墓と言われるものが渋川にありますが、彼の墓と称するものはほかにもあり、たとえば埼玉県児玉町塩谷などにもあります。さらに『平治物語』では、土佐坊昌俊と同一人物とし、『吾妻鏡』では、この人物は源義経を討とうとしたが、逆に捕えられ六条河原で首をはねられています。おそらくこうした有名な物語を、唱導して勧進する聖がいたということです。これも高野山萱堂聖の特色の一つです。もうひとつ考えられるのは、法燈国師無本覚心は、鎌倉後期、那智山に近い妙法山阿弥陀寺を再興したといいます。阿弥陀寺は納骨と卒塔婆・石塔建立・念仏修善の場であり、今も死者は必ず妙法山に詣でて寺内の無間の鐘を撞くと言われていると、上田さち子氏は述べています。(『修験と念仏―中世信仰世界の実像』平凡社選書2005年)さきの大念仏も死者のための鎮魂の踊りです。多分これ以前に、実際に死者供養に関わった念仏集団が、渋川周辺に住んでいたのでしょう。いずれにしても、真相は藪の中ですが、聖系の念仏者が開いた寺が、広度寺だったのではないでしょうか。さらに別の側面からいえば、法燈派は南朝と深い関わりを持っています。法燈国師無本覚心の法嗣である孤峰覚明は、南朝専一の人で
その嗣子古剣智訥も、師の意志を継いだ僧でした。南朝後村上天皇の問法を受け、のち仏心慧燈国師の特師号を賜与されています。古剣は、奥山方広寺無文元選の画像に賛を作っています。
いうまでもなく、井伊郷は南朝と関係深い地です。それで南朝と関わりの深い、法燈派の一部が根を下ろした可能性もあります。
この法燈派は、勧進に大念仏や唱導を業とする聖集団でした。この地における、その最初の頭目が幽泉□意で、高野山萱堂聖の系譜を引く僧ではないかと想像します。
他方寛政三年(1791)に『遠江風土記伝』は元中二(1385)年八月十日井伊館で薨かった後醍醐天皇第二皇子宗良親王香火の地であり、その法号冷湛殿を以て冷堪寺とした。のち荒廃していたのを、井伊直平・同直宗・直盛が黙宗禅師を懇請して自浄院に住せしめた。この地は井伊氏祖の香火のちでしたが、狭隘でしたので、天文年間(1532~1555)井伊信濃守直盛が龍泰寺に改め、禅師を中興開山としたといいます。これによれば、十四世紀末冷堪寺が創建され、その後荒廃していた。一方十一世紀後半井伊氏祖共保の死後建てられた自浄院が別にあり、十六世紀中頃自浄院を院家とするかたちで、直盛が龍泰寺を創建し、黙宗禅師を招請して中興開山としたことになります。
後者は宝永元年(1704)の書写本(長野県大龍寺蔵)が残っている江戸時代に書かれた、著者成立年代不詳の『信濃宮伝』によっていますが.
この本はたんなる物語のようなもので、史料的価値は非常に低いといわれています。宗良親王の薨去の時期・場所は記録に残っていません。この「冷湛寺殿」という法号は龍潭寺の存在があって、逆に名付けられたのでしょう。それゆえ祖山和尚はこの記事を載せなかったのです。「
多方[地蔵寺」という小字は明治の公図に御手洗の井の側にありますが、十一世紀後半以前に遡るかどうかは不明です。次の自浄院は八幡宮の御手洗の井の継承者ですが、八幡宮は八幡宮寺といわれるように、仏教色の強い社です。
まずこの地域の古い仏教を見ていく必要があります。画期のひとつは奥山方広寺開創だと思われるので、それ以前を取り上げていきます。
寺伝では、龍潭寺は奈良時代行基開創と伝えます。五来重氏は「行基開創寺院」と伝承される寺院について、行基の集団は「聖集団」であり、「律令下の官寺と違い、行基が建てた畿内「四十九院と伝えられる寺には、ほとんど例外なく三昧聖がおったのであり、火葬場がついて」いた。そして「庶民のための民間寺院の開創者に行基があてられているのは、行基が聖であり菩薩であったことと、葬送の道を教えたということが、主な理由である」と述べています。(『日本人の仏教史』五來重著 角川書店 平成元年)葬送は官僧の行いえないところですので、私度の沙弥・優婆塞である聖の所業であったのです。また宮家準氏は、行基が「法相宗を日本に請来するとともに各地を遊行して土木工事に
もたずさわった道昭」の弟子であり、「葛城で修行したが、その後薬師寺に属し、民間布教と社会事業に従事し、後には東大寺大仏建立の大勧進を勤め」(『役行者と修験道の歴史』 宮家準著 吉川弘文館 2000年)ていたといいます。ここでは、勧進聖であり、その根は、遊行の聖であった道昭の教えであり、修験の山葛城山での修行にあった、といっているのです。こうして行基開創を伝える多くの寺院は、葬送も行う聖集団や山林抖擻や木食行などの苦行的な持経者、あるいは修験者と関係していたと考えられます。龍潭寺も行基開創を伝える寺院のひとつです。そこで、井伊谷やその周辺における聖集団や山岳信仰、修験との関係を少し見ていきます。
【東光院】
方広寺以前の古刹として、まず取り上げなければならないのは、渋川東光院でしょう。寺伝では、井伊五郎直之が正安元年(1299)広度寺を建立し、紀州由良興国寺心地覚心(心地は房号で、無本が道号ですので、以下無本覚心とします)の上足幽泉意公を請じたのが始まりであると伝えます。直之は正和五年(1316)十月二十四日に亡くなります。法名を前遠州太守温渓良知大禅定門という7ので、官職名からは井伊家嫡流にあたります。また広度寺殿ともあります。渋川神明宮棟札に、正安二年(1300)正月造立で、願主「井伊五郎藤原直之」とあり、詳しいことはよくわからない人ですが、確かにこのころ生きた人で、東光院の前身である広度寺の開基なのでしょう。当山鎮守八幡宮を、応永三十一年(1424)十一月、井伊直貞法井道賢が修造しているので、この寺がこれ以前に存在していたのは確かです。また応永年中(1394~1428)東光院に改称したといいますが、その時の檀那の法名を「東光院殿仁仲誠安居士」と、年不詳棟札にあって、俗名西尾半田というともありますが、この棟札の真偽については不明です。
開山幽泉意公は、無本覚心を派祖とする法燈派の法系図(例えば『禅宗大辞典』法蔵館)には出てきません。むろん、法を嗣いだが、法系図から抜け落ちたということはありえます。さて、この「意公」の「公」は字の「幽泉」とのつながりが認められず、尊称でしょう。諱の上の字は通字だと思いますが、師僧との関係は不明です。それでこの方面から、授業師あるいは法を受け継いだ師の名前をたどることはできません。とはいえ、渋川に隣接した地に「別所」地名があり、行基にちなむと伝承する「四方浄」という地名があって、こうしたことからも、先に述べたように、聖や修験者と関係するのではないかという気がます。五来重氏によれば、覚心の信仰は禅・密教・念仏の混合で、禅は高山慈照、東海竺源、孤峰覚明が承け、真言と密教は高野山萱堂聖が承けたといいます。萱堂聖は唱導の文学と芸能に特色があり、高声念仏と鉦叩念仏のほかに踊念仏も興行したといいます。(『高野聖』角川選書1984年)これは、この地に根付いている大念仏に繫がります。また金王丸の墓と言われるものが渋川にありますが、彼の墓と称するものはほかにもあり、たとえば埼玉県児玉町塩谷などにもあります。さらに『平治物語』では、土佐坊昌俊と同一人物とし、『吾妻鏡』では、この人物は源義経を討とうとしたが、逆に捕えられ六条河原で首をはねられています。おそらくこうした有名な物語を、唱導して勧進する聖がいたということです。これも高野山萱堂聖の特色の一つです。もうひとつ考えられるのは、法燈国師無本覚心は、鎌倉後期、那智山に近い妙法山阿弥陀寺を再興したといいます。阿弥陀寺は納骨と卒塔婆・石塔建立・念仏修善の場であり、今も死者は必ず妙法山に詣でて寺内の無間の鐘を撞くと言われていると、上田さち子氏は述べています。(『修験と念仏―中世信仰世界の実像』平凡社選書2005年)さきの大念仏も死者のための鎮魂の踊りです。多分これ以前に、実際に死者供養に関わった念仏集団が、渋川周辺に住んでいたのでしょう。いずれにしても、真相は藪の中ですが、聖系の念仏者が開いた寺が、広度寺だったのではないでしょうか。さらに別の側面からいえば、法燈派は南朝と深い関わりを持っています。法燈国師無本覚心の法嗣である孤峰覚明は、南朝専一の人で
その嗣子古剣智訥も、師の意志を継いだ僧でした。南朝後村上天皇の問法を受け、のち仏心慧燈国師の特師号を賜与されています。古剣は、奥山方広寺無文元選の画像に賛を作っています。
いうまでもなく、井伊郷は南朝と関係深い地です。それで南朝と関わりの深い、法燈派の一部が根を下ろした可能性もあります。
この法燈派は、勧進に大念仏や唱導を業とする聖集団でした。この地における、その最初の頭目が幽泉□意で、高野山萱堂聖の系譜を引く僧ではないかと想像します。
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