奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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浜名郡の式内社ー猪鼻湖神社

2022-09-03 08:41:36 | 郷土史
この神社は一説に浜名湖南現湖西市新井町在とするものもあります。新井町は古代猪鼻駅家があったので、その説が立てられたのです。神社名は「猪鼻湖神社」、つまり猪鼻「湖」ですので、ここではありません。延喜式神名帳記載の並びからは浜名湖北にあたり、この並びから、大知波八幡宮(湖西市)に比定する説もありますが、ここには「猪鼻」地名はありません。やはり浜松市北区三ヶ日町内だと考えて間違いないでしょう。
 『引佐郡誌』は古老の話として、本社はその位置が海辺故、台風などにより何度か流され、創立及び再建の日時不明と言いますが、むしろ神社の原位置がわからないと言ったほうが正しいでしょう。『遠江国風土記伝』には、下尾奈村神明社(現三ヶ日町)が後身であるとし、迫戸(せと)明神と称したと述べています。社地は猪鼻岩(現在地)の湖辺(現瀬戸)だといいます。さらに、「文和風土記曰、浜名郡猪鼻湖神社二座、景行天皇十九年八月所祭猿田彦也。 按浜名肥前守頼親之末、亦猿田氏有者、此社辺所生乎。」と書き、祭神が猿田彦神だとします。佐久城最後の城主浜名肥前守、あるいは兵庫頭重政の次男・三男がそれぞれ「猿田氏」を名乗っています。ただ、伊勢発祥の猿田氏は猿田舞の踊り手で、出雲にも拡散し、有名なのは銚子の猿田彦神社の猿田氏もいます。猿田彦神は導き(先導)・交通安全などの神です。その裔は太田命であり、宇治土公はその子孫となっていますが、諸説あります。ちなみに、三ヶ日町は伊勢神宮の荘園である浜名神戸・新神戸はじめ御厨・御園の地であり、太田命もこの地の最も古い神明宮に祀られています。しかし、未だ神明宮が勧請されない「延喜式」の段階で、祭神を猿田彦とするのは無理があり、どんなに早くても南北朝末以降に大屋系浜名氏がこの地域に住み着いてからのことです。
 下尾奈神明宮について言えば、おそらく平安時代寛徳二年(1045)以降に創建されたのは確かです。しかしこのころ既に神社政策の転換がはかられていて、猪鼻湖神社のような地方の小社は支える人を失い、その存在すら忘れ去られていたものが大半です。ですから、尾奈神明宮がこの神社の後身と言えるだけの証拠はありません。むしろ式内名神大角避比古神のように、猪鼻湖糊口の守護神であると考えられ、現在の位置近くに鎮座していたのでしょう。別名瀬戸明神(現猪鼻湖神社)とも言われ、その立地は大崎半島ですが、地番はこの辺だけが対岸の尾奈に属しています。伊勢神宮との関係からは、尾奈御厨は中世内宮所管であり、大崎は外宮所管です。平安時代の中期にはこの神社は廃絶していたと思われ、中世に浜名氏が中興したと伝えます。そこで天照大神の先導神として、新たに猿田彦命を祭神とした社を建てたのです。それゆえ尾奈神明宮との関係性が生まれたのです。
 単なる推測ですが、尾奈は除外して大崎の遺跡を考えると、ウズ山が最も適当ではないでしょうか。僅かですが山麓に須恵器片が散乱し、入り口といえる場所からは十世紀の灰釉陶器片や十一世紀から十二世紀にかけての山茶碗が多数散らばっていました。祭祀遺物はありません。延喜式当時の集落が尾奈・鵺代・日比沢・岡本・三ヶ日などにあったのですから、瀬戸を通る船の守護神として浜名湖全体を見渡せるこの山に古代の遺物が点在することが一層その感を強くします。
 以上、式内猪鼻湖神社に関しては再考の余地があり、資料が非常に少ないので他の似た環境の神社から推測することも必要になると思います。今はこのへんで。


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