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瑠璃山大福寺(2)ー浜松市北区三ヶ日町

2022-11-26 02:24:00 | 郷土史
〇大中臣時定
萩原龍夫は「伊勢神宮と仏教」(『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣所収)のなかで、大中臣時定の大福寺開基について、神宮と一般神社との同質化、神仏同体観が開基の論理だというようなことを述べています。
 正六位上大中臣時定は伊勢神宮により任官された神戸司です。任地に屋敷を構えていましたが、必ずしも常在していたわけではなく、代官を派遣していました。法名「定阿(弥陀仏)」といい、この名称は文治二年(1188)東大寺建立祈願のため伊勢神宮参詣を果たした俊乗坊重源の影響によるものでしょう。重源は真言宗醍醐寺で得度し、大峰・熊野などで修業し、また三度にわたり中国留学を遂げています。専修念仏の祖法然上人が、のちの天台座主顕真に招かれて催された京都大原での問答に、重源も弟子を伴い参加しています。したがって、法然の弟子でもありました。よって、時定も高声念仏を唱えていたのです。
 〇開山明証阿闍梨
 明証阿闍梨は富幕山で薬師悔過を 修し、また「往昔本願恒例勤行」であったと書かれた「八講」(法華八講)を興行するような修験者でもありました。
 周辺には聖が存在し、大福寺のおそらく南の境界岡本に別所を経営し、死者供養に携わっていました。富幕山麓と言って良いであろう只木奥には大小の葬地が点在しています。時代は鎌倉から南北朝・室町戦国にかけてです。寺田にも「二五三昧田」があり、二十五三昧会に基づく葬儀が行われていたのです。また「光明真言田」もあり、これも死者供養のための料田です。こうしたことは大福寺建立前より実施されてきたのでり、明証阿闍梨は聖集団の頭目でもあったわけです。
〇真言宗集団顕在化
 天台系であった大福寺がいつ頃真言系集団が優勢な寺に変わったのかは、確実な資料がなく不明ですが、ある程度推測することはできます。
 仏本神迹思想は十三世紀中頃、伊勢内外両宮を金胎両部の大日に配する思想に結実します。その中心は真言密教僧でした。しかし、その蠢動はより早く、高橋美由紀(『伊勢神道の成立と展開』大明堂)は十二世紀後半から十三世紀初めに、天照大神の本地を大日とする思想がやはり真言密教から起こったとします。だとすれば、天福元年(1233)奉納の金胎二面の只木神明宮掛仏が問題となります。只木は大福寺所管の地ですので、おそらくこのころまでに大福寺の真言密教化が進められたのです。
 ただその後も大福寺は修験者の根拠地であり続けたので、それほど宗派の規制は強くなく、台密・東密混淆の中で東密勢力が強くなっていったにすぎず、全山支配にはいたっていなかったと考えられます。

追加:奈良東大寺南山城の別所光明山にいた心覚は、熊野別当湛増から遍照光院を譲られます。彼は「二十五三昧起請にとかれたような結集による不断念仏」で、湛増も「往生院の二十五三昧の結番にのぼるために、高野に別荘のような住房」をもち、重源の新別所でも開かれていたといいます。心覚は三井寺(園城寺)で天台、醍醐寺で小野流の密教を学んだ。現在「鎌倉期の五巻の『二十五三昧講式』」は高野山「小田原別所の浄土院谷にいとなまれた金剛三昧院」に残っているといいます。(『高野聖』五來重)さて、その浄土院谷は初期高野聖教懐の旧跡です。教待・明証阿闍梨に続く大福寺中興教海上人はおそらくこの人物か、あるいは空海の優婆塞時代の名前とされる教海に仮託された伝説上の僧であるかもしれません。

また、一二七〇年代ころと推定される「伊勢国牛庭御厨雑掌重申状」によると、鎌倉時代のこのころ、浜名神戸宗枝・藤吉両名は伊勢国度会郡常光寺領でした。常光寺は外宮渡会氏が所領寄進等を行っていて、両名がもともと外宮領であったことから常光寺に寄進されたものと思われます。宗枝名は本神戸の中心岡本に存在し、おそらく藤吉名もそうです。つまり、大福寺おひざ元に他寺の支配が及んだのですが、宗教的な影響は見ることができません。

                                 <この項続く>

 


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