【中尾寺・勝楽寺・明圓寺ほか】
浜松市天竜区春野町大智寺所蔵「大般若波羅蜜多経」奥書に、引佐郡内の幾つかの寺院名が載っています。貞治二年(1363)から翌年に至る間ですが、井伊郷では「中尾寺」が出てきます。寺内の南谷宝聚坊、西谷月前坊などの子坊を持つ書写の道場でもありました。この寺の遺称地及び規模はわかりませんが、多少なりとも寺観を整えた寺であったと思います。祖山和尚筆「井伊系図」中、奥山朝清の子の寂佛に「太夫坊・中尾寺別当」とあり、所在地は不明ですが、奥山氏の檀那寺だった可能性があります。ただ史料に乏しく、詳細は不明です。
ほかに細江「長楽寺」などの寺院が同書に記載されています。長楽寺は納骨や埋経の霊地です。刑部「光永禅寺」という禅寺も、五日三時理趣三昧道場とあるように、禅密兼修の道場です。同じく井伊谷「勝楽寺」(正楽寺)上御堂でも書写が行われています。井伊谷「勝楽寺」(正楽寺)は、寛政三年(1791)古義真言宗本末帳では、高野山宝性院末とあります。弘治二年(1556)龍潭寺から借金をして大日堂を作ったのですが、現在廃寺となって大日堂のみが残っています。寺伝で奈良時代の創建で、金剛峯寺直末といいますが、これは高野山系の聖が関与した寺だったからでしょう。
ここに載る寺院のほとんどは、修験系の密教寺院だと思われます。
井伊谷にはほかに、「明圓寺」という寺がありました。初めは真言宗、のち臨済宗方広寺派、寛文二年(1662)より妙心寺派に変わったと言います。現在は昭和三十一年圓通寺と合併し、妙心寺派昭和山晋光寺となりました。寺伝では、天平三年(731)行基により開創され、十王寺と名乗りました。本尊は行基作厄除観世音といいます。康治年間(1142~1144)興行大師覚鑁が寺号を大慈山長寿寺と改称、文明四年(1472)井伊直忠帰依をもって、井伊城の鬼門の方へ移遷し寺号を「明教寺」と改め祈願所とし、さらにその後荒廃していたのを、弘治元年(1555)井伊直盛により再建され、寳鏡山明圓寺となし方広寺末となったとあります。行基開創は先に述べたように、聖あるいは修験道と関係すると考えられます。また十王寺と名乗ったとあるのは、死者供養に関わったからです。これも聖に関係しています。そこで、覚鑁が出てくるのです。
覚鑁は公伝では、仁和寺で広沢流事相、醍醐寺で小野流事相を承け、さらに三井寺覚猷に天台密教を習って、高野山に教理研究の場として長承元年(1132)大伝法院を立て、同年「私の念仏堂」として密厳院を立てました。さらに、公的には京都東寺末寺であり、東寺座主兼務の高野山座主を、大伝法院の手中におさめました。長承三年には、覚鑁自ら大伝法院及び金剛峯寺座主を兼ね、執行職に付法の弟子信恵を任じました。これが金剛峯寺衆徒の逆鱗に触れ、結局敗れて紀伊國根来に下ったのです。だいたいこう述べられるのですが、井上光貞氏は、「伝によれば、阿波上人青蓮(浄心房)という念仏聖、ついで中別所の長智(大通房)のもとに居所を定め、同時に御室の明寂という念仏上人の門に入った」といいます。つまり念仏聖のもとで修行したということです。しかし、その念仏は「山内の聖人明寂のもとで、さらには南都修行の間に形成されたものであるらしいが、いずれにせよそれは真言の立場に、否真言の念仏を確立しようというところにその目線がおかれていた」のです。ここで重要なのは、覚鑁の密厳院の跡はのち萱堂聖の根拠地となったところで、覚鑁がまた高野聖の理念的な祖師、あるいは偶像となっていることです。
そういうわけで、明圓寺(長寿寺)もまた、死者供養をする念仏聖、あるいは高野系の聖と関係しています。
【岩間寺・竹馬寺・鳳仙寺等】
そのほか井伊郷には古刹と考えられる寺として、大字栃窪に補陀山「岩間寺」(明治廃寺)があります。古義真言宗高野山平等院末でしたが、やはり行基開創と伝え、往古は本院・坊中十二坊・宝塔・経蔵・仁王門を有する多少の規模を持った寺院であったようです。
伊平仏坂の「竹馬寺」も、四方浄旧真言宗「般若院」、鎮守三所権現を祀る「正福寺」もまた行基開創を伝えます。さらに四方浄の行基伝承によると、行基は当地中田の里に生まれ、出家後母に会いに来た時に、自ら仏像を刻み東方川名郷に薬師如来、西方的場郷に阿弥陀如来、南方伊平郷に観音菩薩、北方別所郷に釈迦如来を祀り、四方浄と土地の名を改めたと言います。こんな荒唐無稽な話を作り出すのは、聖・山伏の類で、それぞれの堂を根城に活動し、互いに連絡があったからなのでしょう。
的場の阿弥陀如来は、行基が地蔵菩薩とともに彫刻し「鳳仙寺」を建立して祀ったといいます。応安五年(1372)南朝廷臣名和長利弟長生が再興して、金龍山「宝泉寺」に改名したと伝えます。寛永三年(1630)火災による延焼後再建され龍翔寺と改名されました。
【三岳山】
さらにこの井伊谷の地には、南北朝以前に遡る「三岳(御嶽)山」があります。これは、大和吉野の金の「御嶽」(金峰山)からとった山名です。言うまでもなく、山岳修験の霊山で、熊野・葛城や高野山とも深いつながりがあります。吉野金峯山寺は、鎌倉期から南北朝期にかけて、大和興福寺の末寺でした。この山は「式内大煞神社」の項で述べたように、寿命を司る神のいるところでした。念仏聖が山を好むわけは、そこに寿命を司る神がいるからという指摘もあります。三岳には大高山「芳鮮寺」があったと言います。白鳳年間役行者開創と伝えるので、明らかに修験の山です。南北朝の戦いで焼失し、その後再興され、慶蔵庵となり方広寺末になりました。修験道は平安時代後期に完成しますが、役小角は七世紀後半から八世紀初頭ごろに葛城山で活躍したのですが、修験道の開祖に仮設されるようになるのは、鎌倉時代初期からです。そこでこの山は、南北朝初期には記録に出ているので、芳鮮寺の伝承から鎌倉時代には修験の山になっていたはずです。
以上みてきたように、この井伊郷の鎌倉・南北朝時代で特徴的なのは、自らは真言密教寺院と直接間接に伝えている聖・修験の寺院が主だということです。富幕山やその山が属する弓張山系は平安時代の院政期から鎌倉初期にかけては、天台修験近江国園城寺系が支配していたのですが、三ヶ日町大福寺が十三世紀前半には真言密教色が強くなっていくように、この地も真言密教系の修験が支配的になったのです。これは井伊氏が南朝方に付いたため金峰山(吉野)との関りがつよくなったのです。ついでにいうと、三ヶ日の浜名氏は室町殿近習のち奉公衆であったように北朝方でした。
したがって井伊谷の仏教が、密教・禅・念仏・修験の交錯する宗教の中にいて、庶民の願うところに寄り添う祈祷や死者供養が主眼で、宗派性は希薄でした。
こうした状況に、新しい息吹を吹き込んだのが、奥山方広寺開山無文元選でした。
浜松市天竜区春野町大智寺所蔵「大般若波羅蜜多経」奥書に、引佐郡内の幾つかの寺院名が載っています。貞治二年(1363)から翌年に至る間ですが、井伊郷では「中尾寺」が出てきます。寺内の南谷宝聚坊、西谷月前坊などの子坊を持つ書写の道場でもありました。この寺の遺称地及び規模はわかりませんが、多少なりとも寺観を整えた寺であったと思います。祖山和尚筆「井伊系図」中、奥山朝清の子の寂佛に「太夫坊・中尾寺別当」とあり、所在地は不明ですが、奥山氏の檀那寺だった可能性があります。ただ史料に乏しく、詳細は不明です。
ほかに細江「長楽寺」などの寺院が同書に記載されています。長楽寺は納骨や埋経の霊地です。刑部「光永禅寺」という禅寺も、五日三時理趣三昧道場とあるように、禅密兼修の道場です。同じく井伊谷「勝楽寺」(正楽寺)上御堂でも書写が行われています。井伊谷「勝楽寺」(正楽寺)は、寛政三年(1791)古義真言宗本末帳では、高野山宝性院末とあります。弘治二年(1556)龍潭寺から借金をして大日堂を作ったのですが、現在廃寺となって大日堂のみが残っています。寺伝で奈良時代の創建で、金剛峯寺直末といいますが、これは高野山系の聖が関与した寺だったからでしょう。
ここに載る寺院のほとんどは、修験系の密教寺院だと思われます。
井伊谷にはほかに、「明圓寺」という寺がありました。初めは真言宗、のち臨済宗方広寺派、寛文二年(1662)より妙心寺派に変わったと言います。現在は昭和三十一年圓通寺と合併し、妙心寺派昭和山晋光寺となりました。寺伝では、天平三年(731)行基により開創され、十王寺と名乗りました。本尊は行基作厄除観世音といいます。康治年間(1142~1144)興行大師覚鑁が寺号を大慈山長寿寺と改称、文明四年(1472)井伊直忠帰依をもって、井伊城の鬼門の方へ移遷し寺号を「明教寺」と改め祈願所とし、さらにその後荒廃していたのを、弘治元年(1555)井伊直盛により再建され、寳鏡山明圓寺となし方広寺末となったとあります。行基開創は先に述べたように、聖あるいは修験道と関係すると考えられます。また十王寺と名乗ったとあるのは、死者供養に関わったからです。これも聖に関係しています。そこで、覚鑁が出てくるのです。
覚鑁は公伝では、仁和寺で広沢流事相、醍醐寺で小野流事相を承け、さらに三井寺覚猷に天台密教を習って、高野山に教理研究の場として長承元年(1132)大伝法院を立て、同年「私の念仏堂」として密厳院を立てました。さらに、公的には京都東寺末寺であり、東寺座主兼務の高野山座主を、大伝法院の手中におさめました。長承三年には、覚鑁自ら大伝法院及び金剛峯寺座主を兼ね、執行職に付法の弟子信恵を任じました。これが金剛峯寺衆徒の逆鱗に触れ、結局敗れて紀伊國根来に下ったのです。だいたいこう述べられるのですが、井上光貞氏は、「伝によれば、阿波上人青蓮(浄心房)という念仏聖、ついで中別所の長智(大通房)のもとに居所を定め、同時に御室の明寂という念仏上人の門に入った」といいます。つまり念仏聖のもとで修行したということです。しかし、その念仏は「山内の聖人明寂のもとで、さらには南都修行の間に形成されたものであるらしいが、いずれにせよそれは真言の立場に、否真言の念仏を確立しようというところにその目線がおかれていた」のです。ここで重要なのは、覚鑁の密厳院の跡はのち萱堂聖の根拠地となったところで、覚鑁がまた高野聖の理念的な祖師、あるいは偶像となっていることです。
そういうわけで、明圓寺(長寿寺)もまた、死者供養をする念仏聖、あるいは高野系の聖と関係しています。
【岩間寺・竹馬寺・鳳仙寺等】
そのほか井伊郷には古刹と考えられる寺として、大字栃窪に補陀山「岩間寺」(明治廃寺)があります。古義真言宗高野山平等院末でしたが、やはり行基開創と伝え、往古は本院・坊中十二坊・宝塔・経蔵・仁王門を有する多少の規模を持った寺院であったようです。
伊平仏坂の「竹馬寺」も、四方浄旧真言宗「般若院」、鎮守三所権現を祀る「正福寺」もまた行基開創を伝えます。さらに四方浄の行基伝承によると、行基は当地中田の里に生まれ、出家後母に会いに来た時に、自ら仏像を刻み東方川名郷に薬師如来、西方的場郷に阿弥陀如来、南方伊平郷に観音菩薩、北方別所郷に釈迦如来を祀り、四方浄と土地の名を改めたと言います。こんな荒唐無稽な話を作り出すのは、聖・山伏の類で、それぞれの堂を根城に活動し、互いに連絡があったからなのでしょう。
的場の阿弥陀如来は、行基が地蔵菩薩とともに彫刻し「鳳仙寺」を建立して祀ったといいます。応安五年(1372)南朝廷臣名和長利弟長生が再興して、金龍山「宝泉寺」に改名したと伝えます。寛永三年(1630)火災による延焼後再建され龍翔寺と改名されました。
【三岳山】
さらにこの井伊谷の地には、南北朝以前に遡る「三岳(御嶽)山」があります。これは、大和吉野の金の「御嶽」(金峰山)からとった山名です。言うまでもなく、山岳修験の霊山で、熊野・葛城や高野山とも深いつながりがあります。吉野金峯山寺は、鎌倉期から南北朝期にかけて、大和興福寺の末寺でした。この山は「式内大煞神社」の項で述べたように、寿命を司る神のいるところでした。念仏聖が山を好むわけは、そこに寿命を司る神がいるからという指摘もあります。三岳には大高山「芳鮮寺」があったと言います。白鳳年間役行者開創と伝えるので、明らかに修験の山です。南北朝の戦いで焼失し、その後再興され、慶蔵庵となり方広寺末になりました。修験道は平安時代後期に完成しますが、役小角は七世紀後半から八世紀初頭ごろに葛城山で活躍したのですが、修験道の開祖に仮設されるようになるのは、鎌倉時代初期からです。そこでこの山は、南北朝初期には記録に出ているので、芳鮮寺の伝承から鎌倉時代には修験の山になっていたはずです。
以上みてきたように、この井伊郷の鎌倉・南北朝時代で特徴的なのは、自らは真言密教寺院と直接間接に伝えている聖・修験の寺院が主だということです。富幕山やその山が属する弓張山系は平安時代の院政期から鎌倉初期にかけては、天台修験近江国園城寺系が支配していたのですが、三ヶ日町大福寺が十三世紀前半には真言密教色が強くなっていくように、この地も真言密教系の修験が支配的になったのです。これは井伊氏が南朝方に付いたため金峰山(吉野)との関りがつよくなったのです。ついでにいうと、三ヶ日の浜名氏は室町殿近習のち奉公衆であったように北朝方でした。
したがって井伊谷の仏教が、密教・禅・念仏・修験の交錯する宗教の中にいて、庶民の願うところに寄り添う祈祷や死者供養が主眼で、宗派性は希薄でした。
こうした状況に、新しい息吹を吹き込んだのが、奥山方広寺開山無文元選でした。
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