①井伊道政・高顕親子(南北朝時代)
井伊氏が早くに後醍醐天皇政権下に参じたことは知られています。建武政権樹立時、京都四条坊門小路辺に百姓屋敷に「新田殿手者 井二郎」が居住しています。(『鎌倉遺文』関東編192号、竹内文平氏所蔵文書)これは道政であると考えられます。以下、この人物及びその子を見ていきます。
歴史学者の小和田哲男氏は南北朝時代の井伊道政・高顕親子を幕末・明治に南朝重視の風潮から、もともと本流でないものが加筆されたものと述べています。南朝関係の書籍での初見は、宝永七年(1704)の書写本が残る『信濃宮伝』(大龍寺蔵)です。浜松市北区三ヶ日町の郷土史家高橋佑吉氏は「道政」を『信濃宮伝』『浪合記』などの俗書で作り上げた虚名としています。
しかし、官務家である壬生家文書のなかに年未祥「為次書状」があります。それには遠州井伊輩が安堵綸旨と惣領高顕の申状を持参したとあります。古文書の専門家が「年次未詳であるが、消息と題する本巻物の中に南北朝期のものが含まれている」(静岡県史資料編6)と述べているので、その存在は間違いないでしょう。高顕がいれば父道政もいたでしょうし、「惣領」とあれば、決して「井伊氏本流ではない」とはいえないでしょう。
次に「高顕」が出てくるのは、徳川光圀命で『太平記』を諸史料により考訂編纂させ元禄四年(1691)刊行された『参考太平記』所収の金勝寺本『太平記』に「妙法院宮(宗良親王)、時行(北条)外は、伊井介高顕が城に篭られたり。」とある記事です。これは他の写本にはありません。
妙法院宮宗良親王は、『太平記』巻十七に延元元年十月十日、東宮一之宮中務卿(尊良)は北国へ、「妙法院宮ハ御舟ニ被召テ遠江国ヘ落サセ玉ヒ」とあります。諸本によれば、暦応元年/ 延元三年(1338)義良親王が奥州渡海の為伊勢国の湊を出帆した際別の船に乗り、途中嵐の遇い遠州に遭難漂着したと伝えます。それには諸説入り混じっていますが、この金勝寺本だけが「妙法院宮・五辻宮・相模左馬頭時行以下の船は難風以前に遠江曳馬宿で今川心省の手の者と戦い追い払い、伊井介高顕の城に籠ると伝えています。
宗良親王自らの手になる『新葉和歌集』に、延元三年秋後村上院が陸奥国に下向のとき大風に遇い一艘のみ伊勢国篠島(現愛知県)に遭難漂着したので会いにいったと書いています。また、『太平記』巻十九に延元二年には遠江井介は妙法院の宮を取り立てまいらせて、奥の山に楯籠ると書くので、確かに義良親王遭難以前に井伊谷にいたのは確かでしょう。それゆえ、異なる部分は多少あるでしょうが、延元二年高顕存在は間違いないと思います。
他方安永八年(1779)五月八日の跋がある日高繁高著『兵家茶話』延元元年冬「宗良親王は井伊介道政供奉て、近江国打出浜より御舟に召れ、美濃路を歴て尾張国犬山と云所へ渡らせ給、」遠江国に着き、奥山の城に入ると書きますが、これは真実とは思えません。ただ、父道政がいたとしたら、延元二年以前に死没していた可能性が高いでしょう。延元元年の井責め当りかもしれません。
新井白石編纂、元禄十五年(1702)完成『藩翰譜』を昭和四十二年新人物往来社編纂刊行した『新編藩翰譜』所載系図に「「自道政至成直六世以井伊氏明治系譜補之」とある「道政ー高顕ー時直ー顕直ー諄直ー成直」。
また、天保九年(1838)卒の佐藤貞寄著『井伊美談』に、彦根城主二代直孝世子直滋が浜松逗留中、井伊信濃守代に物頭・書記であった二俣五郎左衛門の孫の禅僧が宿に訪れたときの話があります。「この井伊家系図は井伊谷没落の節兵火に焼失しか共、是は已然二俣の家に残りたる趣分明也」と言って、彼に系図を差しだしました。に直滋は慶長十七年(1612)生まれ寛文元年(1661)に五十才で死没していますが、突然湖東三山百済寺で出家し、万治元年(165 8)廃嫡となりました。この間系図は行方不明になってしまったのですが、浜松宿で直滋に随行していた青木三郎右衛門もこれを覚えていました。そこには「遠江介時直ー遠江介顕直ー遠江新介諄直」とあり、現行の系図に比べて「蓮数も多くあったと述べたと伝えます。
道政から成直六世は『寛永諸家譜伝』・『寛政重修諸家譜』という近世大名系図には記載されていません。この系図からは良直は院政期末鎌倉前・初期ころの人でしょうから、だいたい左衛門太郎行直が南北朝初期ころとなるでしょうから、永禄六年(1563)死没の直平まで五代を数えます。後で書きますが、直平は謎の人物で、おそらく死んだ後で浜松を領したり、毒を飲まされ落馬して死んだなどという逸話を創作されています。其の実際の史料には永正五年(1507)九月十五日の、龍泰寺(のち龍潭寺)に井料五反を寄付した寄進状が残っています。そうしますと、どちらにせよ「連数」が不足します。
こう考えてくると、道政から成直六代がもともとの系図にあって、泰直代に庶家を数家分枝し系図が複雑化しているので、これ以降が南北朝末ころよりの系図ではないかと思えるのです。
井伊氏が早くに後醍醐天皇政権下に参じたことは知られています。建武政権樹立時、京都四条坊門小路辺に百姓屋敷に「新田殿手者 井二郎」が居住しています。(『鎌倉遺文』関東編192号、竹内文平氏所蔵文書)これは道政であると考えられます。以下、この人物及びその子を見ていきます。
歴史学者の小和田哲男氏は南北朝時代の井伊道政・高顕親子を幕末・明治に南朝重視の風潮から、もともと本流でないものが加筆されたものと述べています。南朝関係の書籍での初見は、宝永七年(1704)の書写本が残る『信濃宮伝』(大龍寺蔵)です。浜松市北区三ヶ日町の郷土史家高橋佑吉氏は「道政」を『信濃宮伝』『浪合記』などの俗書で作り上げた虚名としています。
しかし、官務家である壬生家文書のなかに年未祥「為次書状」があります。それには遠州井伊輩が安堵綸旨と惣領高顕の申状を持参したとあります。古文書の専門家が「年次未詳であるが、消息と題する本巻物の中に南北朝期のものが含まれている」(静岡県史資料編6)と述べているので、その存在は間違いないでしょう。高顕がいれば父道政もいたでしょうし、「惣領」とあれば、決して「井伊氏本流ではない」とはいえないでしょう。
次に「高顕」が出てくるのは、徳川光圀命で『太平記』を諸史料により考訂編纂させ元禄四年(1691)刊行された『参考太平記』所収の金勝寺本『太平記』に「妙法院宮(宗良親王)、時行(北条)外は、伊井介高顕が城に篭られたり。」とある記事です。これは他の写本にはありません。
妙法院宮宗良親王は、『太平記』巻十七に延元元年十月十日、東宮一之宮中務卿(尊良)は北国へ、「妙法院宮ハ御舟ニ被召テ遠江国ヘ落サセ玉ヒ」とあります。諸本によれば、暦応元年/ 延元三年(1338)義良親王が奥州渡海の為伊勢国の湊を出帆した際別の船に乗り、途中嵐の遇い遠州に遭難漂着したと伝えます。それには諸説入り混じっていますが、この金勝寺本だけが「妙法院宮・五辻宮・相模左馬頭時行以下の船は難風以前に遠江曳馬宿で今川心省の手の者と戦い追い払い、伊井介高顕の城に籠ると伝えています。
宗良親王自らの手になる『新葉和歌集』に、延元三年秋後村上院が陸奥国に下向のとき大風に遇い一艘のみ伊勢国篠島(現愛知県)に遭難漂着したので会いにいったと書いています。また、『太平記』巻十九に延元二年には遠江井介は妙法院の宮を取り立てまいらせて、奥の山に楯籠ると書くので、確かに義良親王遭難以前に井伊谷にいたのは確かでしょう。それゆえ、異なる部分は多少あるでしょうが、延元二年高顕存在は間違いないと思います。
他方安永八年(1779)五月八日の跋がある日高繁高著『兵家茶話』延元元年冬「宗良親王は井伊介道政供奉て、近江国打出浜より御舟に召れ、美濃路を歴て尾張国犬山と云所へ渡らせ給、」遠江国に着き、奥山の城に入ると書きますが、これは真実とは思えません。ただ、父道政がいたとしたら、延元二年以前に死没していた可能性が高いでしょう。延元元年の井責め当りかもしれません。
新井白石編纂、元禄十五年(1702)完成『藩翰譜』を昭和四十二年新人物往来社編纂刊行した『新編藩翰譜』所載系図に「「自道政至成直六世以井伊氏明治系譜補之」とある「道政ー高顕ー時直ー顕直ー諄直ー成直」。
また、天保九年(1838)卒の佐藤貞寄著『井伊美談』に、彦根城主二代直孝世子直滋が浜松逗留中、井伊信濃守代に物頭・書記であった二俣五郎左衛門の孫の禅僧が宿に訪れたときの話があります。「この井伊家系図は井伊谷没落の節兵火に焼失しか共、是は已然二俣の家に残りたる趣分明也」と言って、彼に系図を差しだしました。に直滋は慶長十七年(1612)生まれ寛文元年(1661)に五十才で死没していますが、突然湖東三山百済寺で出家し、万治元年(165 8)廃嫡となりました。この間系図は行方不明になってしまったのですが、浜松宿で直滋に随行していた青木三郎右衛門もこれを覚えていました。そこには「遠江介時直ー遠江介顕直ー遠江新介諄直」とあり、現行の系図に比べて「蓮数も多くあったと述べたと伝えます。
道政から成直六世は『寛永諸家譜伝』・『寛政重修諸家譜』という近世大名系図には記載されていません。この系図からは良直は院政期末鎌倉前・初期ころの人でしょうから、だいたい左衛門太郎行直が南北朝初期ころとなるでしょうから、永禄六年(1563)死没の直平まで五代を数えます。後で書きますが、直平は謎の人物で、おそらく死んだ後で浜松を領したり、毒を飲まされ落馬して死んだなどという逸話を創作されています。其の実際の史料には永正五年(1507)九月十五日の、龍泰寺(のち龍潭寺)に井料五反を寄付した寄進状が残っています。そうしますと、どちらにせよ「連数」が不足します。
こう考えてくると、道政から成直六代がもともとの系図にあって、泰直代に庶家を数家分枝し系図が複雑化しているので、これ以降が南北朝末ころよりの系図ではないかと思えるのです。
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