『風土記伝』に「祝田村羽鳥大明神(二社坐) 蜂前、祝田之旧名也、三代実録貞観八年遠江国鳥飼神授従五位下」とあります。
刑部は五世紀中頃允恭天皇妃忍坂大中姫の御名代として設定されたとされます。御名代は在地首長の子弟が選ばれ、都に上り舎人・靫負・膳夫として一定期間勤めます。ただこの地がその時代に設置されたかどうかは不明です。また前身とされる鳥飼神=鳥飼部の設置も記紀では雄略期です。ただこのころ五世紀後半雄略天皇期には、人制による養鳥人が定められたとします。ちょうど、この地域を見下ろす東の台地上に、突然引佐郡最大全長55メートルの前方後円墳陣座ケ谷古墳が造られた時代に当たります。
しかし、部民制にしても屯倉にしても、地方への普及は6世紀に入ってからです。この世紀の初めころには都田と祝田の境の川に近い谷あいに郷ケ平に前方後円墳4号墳が造成され、のち総数8基の群集墳を形成していきます。ちょうど都田川が都田の平地から細江の平地に出る最も狭い所に位置しているので、この川の治水・開拓を行った首長でしょうか。同時にその東上の台地端に6世紀の土師器・土製模造から成る祭祀遺跡中津坂上遺跡が存在します。
これらは国造制以前の首長墓ですが、ミヤケの経営には中央から派遣された官人が当たったとされるのですが、仁藤敦史氏によると、それは必須の条件ではなく、実際には先の古墳の被葬者の後身である国造が部民などを徴発してミヤケの経営に関わったのです。その範囲は古代引佐郡数郷を含んでいたかもしれません。
鳥飼部が斎き祀った鳥飼神は平安前期以前には、遠江国司により国の政策上重要な神と考えられていました。それゆえ、叙任の申請をしたのでしょう。つまり、蜂前神社の前身が鳥飼神であれば、刑部郷を代表する神社でした。でも、実際にはそれが証明されているわけではありません。そのためには、9世紀後半の有力神社が『延喜式』記載の10世紀前後の約数十年の間に別の神社名に変わった理由を説明しなければなりません。それは難しいので、とりあえず式内「蜂前神社」のみ考えていきます。
建久三年(1192)八月日「伊勢太神宮神領注文」によると、刑部御厨は二宮領で、嘉承注文(三年1108)・永久宣旨(三年1115)とあるので、十二世紀前半には立荘されていました。給主散位大中臣親範は建久三年当時の給主です。祖父親定は祭主・従三位、父親仲は権大副・正四位下ですが、長兄親隆も祭主・正三位で当時の大神宮の頂点に立っていました。おそらく、神明宮の勧請は十二世紀前半で、南北朝期に書かれた「神鳳抄」には、刑部御厨は内宮上分三十石、魚三十斤、外宮には上分三石を納める百余町の内宮所管の荘園と記されています。また同書には新たに「祝田御厨」が立てられています。
大正時代の『引佐郡誌』には祭神は天照大御神、稜威雄羽張命、熯速日命、甕速日命、武甕槌命とあります。これらの祭神は『古事記』によれば、伊邪那岐命が十拳剣=天之尾羽張で迦具土神を切り殺したとき、剣に付いた血が湯津石村に走りついた神々の内に、剣の鍔際についた血から甕速日・樋速日(熯速日)・その子武甕槌神が生まれたと伝えます。そして、熯速日命を祖とするのが服部連とします。『新撰姓氏録』にも河内国神別天神に同じことが書かれ、摂津国神別天神服部連、熯速日命十二世孫麻羅宿祢後とあります。
天照大神はもちろん内宮の祭神ですので、刑部御厨の鎮守神でした。おそらく十二世紀にはこの地に神明宮が勧請されたとおもいます。鎌倉時代に入ると、神主の勢力が増してきて、神明宮の祭祀はもともと神主(権神主)の職であり、他姓を混じない決まりでした。内宮はこれをテコに祝田御厨を刑部御厨から割いて立てたのです。
この皇太神宮所管の地にも天照大神は勧請されたのですが、そこには神衣祭に奉仕する荒妙・和衣を調進する奉職者の神も祀られました。神衣祭は内宮のみの祭祀で、外宮では行われません。そこに神税として織布を納める服部(神服部)氏の存在があったのでしょう。伊勢の神服織機殿神社の祭神は天御鉾命と天棚機姫孫天八千々姫命で、前者を服部神部の祖神とします。したがって、最初この両命が祭神でしたが、のち神衣祭が天岩戸神話に関わりがあることから『引佐郡誌』記載の神々になったのでしょう。「祝」田は「はふり」田という意味も考えられていますが、伊勢神宮では下級神官を意味したり、神を直接祀る祭祀者を指すこともあります。
蜂前神社はそれゆえ、十世紀には確実に存在していたわけですが、十二世紀前半までには、衰退あるいは神社名を変えたことになります。現位置はおそらく、古代にはしばしば洪水を引き起こす川側で、その鎮静を祈る位置ですが、祭祀の場としてはふさわしいものとは思えません。農業・開拓神とすれば、川が平地に出てくる場所字瀬戸近辺の可能性があります。だとすれば、鉢を逆に伏せた形の恩塚山(都田町)あたりでしょうか。頂上には恩塚山古墳群(経11m円墳中心)があり、その北には津島神社があります。ちょうど都田川下流域を見渡す場所です。または祝田字瀧峰(通称瀧の谷、滝有り不動尊を祀る)も関係しているかもしれません。
いずれにしてもこの「蜂前神社」の旧地は不明です。『引佐郡誌』によれば、「祝田」は「旧名神田、八田と称す。承久以来方田其後祝田と云ふ」とあります。戦国時代の古文書が多く残っていて、村の精神的紐帯あるいは意思決定の場として、現在地の神社が機能していたのは確かです。
刑部は五世紀中頃允恭天皇妃忍坂大中姫の御名代として設定されたとされます。御名代は在地首長の子弟が選ばれ、都に上り舎人・靫負・膳夫として一定期間勤めます。ただこの地がその時代に設置されたかどうかは不明です。また前身とされる鳥飼神=鳥飼部の設置も記紀では雄略期です。ただこのころ五世紀後半雄略天皇期には、人制による養鳥人が定められたとします。ちょうど、この地域を見下ろす東の台地上に、突然引佐郡最大全長55メートルの前方後円墳陣座ケ谷古墳が造られた時代に当たります。
しかし、部民制にしても屯倉にしても、地方への普及は6世紀に入ってからです。この世紀の初めころには都田と祝田の境の川に近い谷あいに郷ケ平に前方後円墳4号墳が造成され、のち総数8基の群集墳を形成していきます。ちょうど都田川が都田の平地から細江の平地に出る最も狭い所に位置しているので、この川の治水・開拓を行った首長でしょうか。同時にその東上の台地端に6世紀の土師器・土製模造から成る祭祀遺跡中津坂上遺跡が存在します。
これらは国造制以前の首長墓ですが、ミヤケの経営には中央から派遣された官人が当たったとされるのですが、仁藤敦史氏によると、それは必須の条件ではなく、実際には先の古墳の被葬者の後身である国造が部民などを徴発してミヤケの経営に関わったのです。その範囲は古代引佐郡数郷を含んでいたかもしれません。
鳥飼部が斎き祀った鳥飼神は平安前期以前には、遠江国司により国の政策上重要な神と考えられていました。それゆえ、叙任の申請をしたのでしょう。つまり、蜂前神社の前身が鳥飼神であれば、刑部郷を代表する神社でした。でも、実際にはそれが証明されているわけではありません。そのためには、9世紀後半の有力神社が『延喜式』記載の10世紀前後の約数十年の間に別の神社名に変わった理由を説明しなければなりません。それは難しいので、とりあえず式内「蜂前神社」のみ考えていきます。
建久三年(1192)八月日「伊勢太神宮神領注文」によると、刑部御厨は二宮領で、嘉承注文(三年1108)・永久宣旨(三年1115)とあるので、十二世紀前半には立荘されていました。給主散位大中臣親範は建久三年当時の給主です。祖父親定は祭主・従三位、父親仲は権大副・正四位下ですが、長兄親隆も祭主・正三位で当時の大神宮の頂点に立っていました。おそらく、神明宮の勧請は十二世紀前半で、南北朝期に書かれた「神鳳抄」には、刑部御厨は内宮上分三十石、魚三十斤、外宮には上分三石を納める百余町の内宮所管の荘園と記されています。また同書には新たに「祝田御厨」が立てられています。
大正時代の『引佐郡誌』には祭神は天照大御神、稜威雄羽張命、熯速日命、甕速日命、武甕槌命とあります。これらの祭神は『古事記』によれば、伊邪那岐命が十拳剣=天之尾羽張で迦具土神を切り殺したとき、剣に付いた血が湯津石村に走りついた神々の内に、剣の鍔際についた血から甕速日・樋速日(熯速日)・その子武甕槌神が生まれたと伝えます。そして、熯速日命を祖とするのが服部連とします。『新撰姓氏録』にも河内国神別天神に同じことが書かれ、摂津国神別天神服部連、熯速日命十二世孫麻羅宿祢後とあります。
天照大神はもちろん内宮の祭神ですので、刑部御厨の鎮守神でした。おそらく十二世紀にはこの地に神明宮が勧請されたとおもいます。鎌倉時代に入ると、神主の勢力が増してきて、神明宮の祭祀はもともと神主(権神主)の職であり、他姓を混じない決まりでした。内宮はこれをテコに祝田御厨を刑部御厨から割いて立てたのです。
この皇太神宮所管の地にも天照大神は勧請されたのですが、そこには神衣祭に奉仕する荒妙・和衣を調進する奉職者の神も祀られました。神衣祭は内宮のみの祭祀で、外宮では行われません。そこに神税として織布を納める服部(神服部)氏の存在があったのでしょう。伊勢の神服織機殿神社の祭神は天御鉾命と天棚機姫孫天八千々姫命で、前者を服部神部の祖神とします。したがって、最初この両命が祭神でしたが、のち神衣祭が天岩戸神話に関わりがあることから『引佐郡誌』記載の神々になったのでしょう。「祝」田は「はふり」田という意味も考えられていますが、伊勢神宮では下級神官を意味したり、神を直接祀る祭祀者を指すこともあります。
蜂前神社はそれゆえ、十世紀には確実に存在していたわけですが、十二世紀前半までには、衰退あるいは神社名を変えたことになります。現位置はおそらく、古代にはしばしば洪水を引き起こす川側で、その鎮静を祈る位置ですが、祭祀の場としてはふさわしいものとは思えません。農業・開拓神とすれば、川が平地に出てくる場所字瀬戸近辺の可能性があります。だとすれば、鉢を逆に伏せた形の恩塚山(都田町)あたりでしょうか。頂上には恩塚山古墳群(経11m円墳中心)があり、その北には津島神社があります。ちょうど都田川下流域を見渡す場所です。または祝田字瀧峰(通称瀧の谷、滝有り不動尊を祀る)も関係しているかもしれません。
いずれにしてもこの「蜂前神社」の旧地は不明です。『引佐郡誌』によれば、「祝田」は「旧名神田、八田と称す。承久以来方田其後祝田と云ふ」とあります。戦国時代の古文書が多く残っていて、村の精神的紐帯あるいは意思決定の場として、現在地の神社が機能していたのは確かです。
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