②三宅神社
『風土記伝』は井伊谷村二宮大明神とします。井伊谷城の東麓にあり、祭神は初め田道間守、のち宗良親王を合祀したといいます。後者は別にして、三宅神社に田道間守の祖天日鉾を祀るのはありますが、田道間守自身を祀るのは珍しい例です。記紀に田道間守の伝承があり、天日鉾(新羅王子)の後で垂仁天皇の命で非時香菓(ときじくのかくのみ)すなわち橘を探しに常世の国に行ったひとです。三宅連祖とあります。これと、新撰姓氏録などから逆に三宅神社の祭神を、国学の隆盛であった江戸時代に入って決めたのではないでしょうか。また現在地の比定も問題があります。「三宅」に関わる痕跡はこの井伊谷にはまったく存在しません。
「三宅」はむしろ、辰巳和弘氏の言うように都田の旧名を「ミヤケダ」と考えれば、そこにあったとしたほうが良いでしょう。だとすれば、上都田の川前遺跡を見下ろす川西の独立小丘が候補地になるでしょう。川の前遺跡は奈良・平安時代に中心のあった遺跡で、須恵器・土師器・灰釉陶器・山城産緑釉陶器・越州窯青磁・墨書土器・陶馬とともに、石敷きの道路遺構などが発掘されていて官衙関係の遺跡の可能性も指摘されています。
③須部神社
これは現在地である可能性は高いと思います。須部遺跡といわれるように、境内周辺には須恵器・中世陶器など多くの遺物が散乱しています。川を挟んだ向かいも椿野遺跡が存在します。都田御厨は、伊勢神宮領(内宮)尾奈御厨(浜松市北区三ヶ日町)の便補されたところですので、神明宮がその時勧請されて神社字名が神名風呂と名付けられのです。
この須部神社の数百メートル北に向かって進んだ人家のない小谷奥の小平地に小さな神社があり、この周辺からも須恵器・中世陶器が出土しているので、これが奥の宮かもしれません。
➃乎豆神社
「京田」(三宅)・「須部」(須恵部)・蜂前神社の前身といわれる鳥飼神(鳥飼部)・「刑部」郷・伊福郷(伊福部)などの大化の改新以前の朝廷の直轄領や部民集団が存在していました。古代引佐郡四郷のうちそれに属さないのは「井伊」郷のみです。その理由については諸説ありますが、はっきりわかっているわけではありません。
伊福郷に郡衙が置かれた可能性があります。その一部を形成するとみられる津が井通遺跡だといいます。その遺跡を見下ろす位置に、現在この神社があります。「乎豆」の「乎」は「を」で「小」もこの仲間、「豆」は「つ・づ」で「津」も同じです。そこで「小津」で、大津(国津)に対し、郡津の意味でしょう。そこで、この場所か、あるいはそう遠くない場所にこの神社はあったはずです.。
『風土記伝』は井伊谷村二宮大明神とします。井伊谷城の東麓にあり、祭神は初め田道間守、のち宗良親王を合祀したといいます。後者は別にして、三宅神社に田道間守の祖天日鉾を祀るのはありますが、田道間守自身を祀るのは珍しい例です。記紀に田道間守の伝承があり、天日鉾(新羅王子)の後で垂仁天皇の命で非時香菓(ときじくのかくのみ)すなわち橘を探しに常世の国に行ったひとです。三宅連祖とあります。これと、新撰姓氏録などから逆に三宅神社の祭神を、国学の隆盛であった江戸時代に入って決めたのではないでしょうか。また現在地の比定も問題があります。「三宅」に関わる痕跡はこの井伊谷にはまったく存在しません。
「三宅」はむしろ、辰巳和弘氏の言うように都田の旧名を「ミヤケダ」と考えれば、そこにあったとしたほうが良いでしょう。だとすれば、上都田の川前遺跡を見下ろす川西の独立小丘が候補地になるでしょう。川の前遺跡は奈良・平安時代に中心のあった遺跡で、須恵器・土師器・灰釉陶器・山城産緑釉陶器・越州窯青磁・墨書土器・陶馬とともに、石敷きの道路遺構などが発掘されていて官衙関係の遺跡の可能性も指摘されています。
③須部神社
これは現在地である可能性は高いと思います。須部遺跡といわれるように、境内周辺には須恵器・中世陶器など多くの遺物が散乱しています。川を挟んだ向かいも椿野遺跡が存在します。都田御厨は、伊勢神宮領(内宮)尾奈御厨(浜松市北区三ヶ日町)の便補されたところですので、神明宮がその時勧請されて神社字名が神名風呂と名付けられのです。
この須部神社の数百メートル北に向かって進んだ人家のない小谷奥の小平地に小さな神社があり、この周辺からも須恵器・中世陶器が出土しているので、これが奥の宮かもしれません。
➃乎豆神社
「京田」(三宅)・「須部」(須恵部)・蜂前神社の前身といわれる鳥飼神(鳥飼部)・「刑部」郷・伊福郷(伊福部)などの大化の改新以前の朝廷の直轄領や部民集団が存在していました。古代引佐郡四郷のうちそれに属さないのは「井伊」郷のみです。その理由については諸説ありますが、はっきりわかっているわけではありません。
伊福郷に郡衙が置かれた可能性があります。その一部を形成するとみられる津が井通遺跡だといいます。その遺跡を見下ろす位置に、現在この神社があります。「乎豆」の「乎」は「を」で「小」もこの仲間、「豆」は「つ・づ」で「津」も同じです。そこで「小津」で、大津(国津)に対し、郡津の意味でしょう。そこで、この場所か、あるいはそう遠くない場所にこの神社はあったはずです.。
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