11:むかしの「松本」?
「松本」学、あるいは「松本」考:9
11:むかしの「松本」?
:11-2:千鹿頭神社 ・・・
創建については詳らかではありません。
古代からの洩矢(もれや)の神の系譜で「千鹿頭大神」を祀り、諏訪信仰と深いつながりのある神社と言われています。特徴は全てダブル。・・・ 鳥居、参道、神殿、拝殿、社務所などの施設が仲良く二つずつあり、「御柱祭」の行事がダブルで実施されるという二倍の魅力ある神社です。・・・ ダブルとなった理由は、元和4年(1618年)千鹿頭山の稜線を境として西側の東五千石が高島藩領(神田)となり、東側が松本藩領(林・大嵩崎)に分割されたことから二社分離となりました。今でも「御柱祭」は同日に双方の氏子により盛大に行われます。
千鹿頭神(ちかとのかみ、ちかとうのかみ)は長野県を初め、東日本(甲信・北関東・南東北地方)の民間信仰の神。
千鹿頭神社 ・・『守矢氏系譜』における守矢氏の最初の五代 (洩矢神から八櫛神まで)
諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)においては洩矢神の御子神、孫神、あるいはその異名とされる。建御名方神の御子神の内県神と同視されることもある。
明治初期に成立した『神長守矢氏系譜』によれば、守宅神(洩矢神の息子)の子であり、祭政を受け継ぐ守矢氏の3代目に数えられる。名前は守宅神が鹿狩りをした時に1,000頭の鹿を捕獲したことから由来するといわれている。
--- 守宅神、生まれて霊異幹力あり、父に代りて弓矢を負ひ、大神に従ひ遊猟し、千の鹿を得る。一男有りて、これを名つけて千鹿頭神と曰ふ。千鹿頭神、継ぎて祭政を主(つかさど)る。(中略)--- 古代神楽歌
千鹿頭神社
神社の名前「千鹿頭・・・チカトウ」からして「妙」である。
諏訪地方の言伝えによれば、守屋氏(諏訪神社の神長官)の何代目かが、狩りをして、千頭の鹿を捕獲して、その守屋氏が「千鹿頭神」になったという。
してみると、守屋氏は、狩猟民族の末裔か、縄文時代の残滓か、ーーということになる。
守屋氏は、記憶を辿ると、高校時代の教科書で、蘇我馬子とともに思い起こす。
・・・ 欽明天皇の時に百済から伝わった仏教を積極的に導入しようとする蘇我氏と、古来の神々を重んじて外国の宗教導入に反対する物部氏(もののべし)との間に激しい対立がおこった。それは朝廷の両雄、蘇我氏と物部氏の覇権争いでもあった。
蘇我馬子は父の代から続く対立に決着をつけるため、聖徳太子や他の豪族らと挙兵し、物部守屋(もののべのもりや)をついに攻め滅ぼした。そして飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺)を建立(こんりゅう)し、仏教興隆を促進する。・・・
つまり、神社派の棟梁的な「守屋氏」は、中央を追われて「諏訪」に来たという筋書きである。
だが、これは、おかしいと思う。
千鹿頭」の守屋は、時代背景として、「狩猟民族の末裔か、縄文時代の残滓か」であるから、飛鳥時代から、そこそこ古い時代を想定させる。その時代の、すでに、諏訪地方に、守屋氏はあったのだと・・そう考えると、諏訪の守屋氏と物部守屋氏は、時代背景が逆説的におかしいことになる。
諏訪大社と神長官「守屋氏」の関係は、武蔵国・氷川神社と「門客人神社(てアラハバキ神を祀る荒脛巾神社)の関係に似ている。
そして、「古来の神々」は、純国産であるという教科書的記述も矛盾が生じてくる。
・・・そもそも、「千鹿頭神」の「鹿を生贄の供物」に供するという儀式は、大陸・中東高原民族の「羊・放牧」に関わる儀式ではないのか・・・「羊」を「鹿」に置き換えて・・・
・・・「scapegoat」の ”goat”は「山羊」なんですが・・
神社の祭神の多くは、「スサノウの命」とされ、スサノウは、「牛頭天王」と同一人物とされている。スサノウは朝鮮北部の「牛頭山」の生まれで、日本に来たとされる。・・・この伝承が正しいとすれば、、「古来の神々」も、外来である」という推論が成り立つ。しかも、こう考える方が合理的である。
御社宮司(ミサグジ)と御射山とキリスト教の「ミサ」と関係があるかどうかわかりません。思わせぶりな「語彙」の共通に興味はありありですが・・・
この「解」を求めてみても、「せんなきこと」かもしれません。