ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

11:むかしの「松本」? :11-2:千鹿頭神社 ・・・

2025-02-24 17:09:55 | ひとりごと

11:むかしの「松本」?

「松本」学、あるいは「松本」考:9

11:むかしの「松本」?

:11-2:千鹿頭神社 ・・・

創建については詳らかではありません。


古代からの洩矢(もれや)の神の系譜で「千鹿頭大神」を祀り、諏訪信仰と深いつながりのある神社と言われています。特徴は全てダブル。・・・ 鳥居、参道、神殿、拝殿、社務所などの施設が仲良く二つずつあり、「御柱祭」の行事がダブルで実施されるという二倍の魅力ある神社です。・・・ ダブルとなった理由は、元和4年(1618年)千鹿頭山の稜線を境として西側の東五千石が高島藩領(神田)となり、東側が松本藩領(林・大嵩崎)に分割されたことから二社分離となりました。今でも「御柱祭」は同日に双方の氏子により盛大に行われます。


千鹿頭神(ちかとのかみ、ちかとうのかみ)は長野県を初め、東日本(甲信・北関東・南東北地方)の民間信仰の神。

千鹿頭神社 ・・『守矢氏系譜』における守矢氏の最初の五代 (洩矢神から八櫛神まで)
諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)においては洩矢神の御子神、孫神、あるいはその異名とされる。建御名方神の御子神の内県神と同視されることもある。
明治初期に成立した『神長守矢氏系譜』によれば、守宅神(洩矢神の息子)の子であり、祭政を受け継ぐ守矢氏の3代目に数えられる。名前は守宅神が鹿狩りをした時に1,000頭の鹿を捕獲したことから由来するといわれている。

--- 守宅神、生まれて霊異幹力あり、父に代りて弓矢を負ひ、大神に従ひ遊猟し、千の鹿を得る。一男有りて、これを名つけて千鹿頭神と曰ふ。千鹿頭神、継ぎて祭政を主(つかさど)る。(中略)--- 古代神楽歌


千鹿頭神社


神社の名前「千鹿頭・・・チカトウ」からして「妙」である。


諏訪地方の言伝えによれば、守屋氏(諏訪神社の神長官)の何代目かが、狩りをして、千頭の鹿を捕獲して、その守屋氏が「千鹿頭神」になったという。
してみると、守屋氏は、狩猟民族の末裔か、縄文時代の残滓か、ーーということになる。
守屋氏は、記憶を辿ると、高校時代の教科書で、蘇我馬子とともに思い起こす。


・・・ 欽明天皇の時に百済から伝わった仏教を積極的に導入しようとする蘇我氏と、古来の神々を重んじて外国の宗教導入に反対する物部氏(もののべし)との間に激しい対立がおこった。それは朝廷の両雄、蘇我氏と物部氏の覇権争いでもあった。
 蘇我馬子は父の代から続く対立に決着をつけるため、聖徳太子や他の豪族らと挙兵し、物部守屋(もののべのもりや)をついに攻め滅ぼした。そして飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺)を建立(こんりゅう)し、仏教興隆を促進する。・・・


つまり、神社派の棟梁的な「守屋氏」は、中央を追われて「諏訪」に来たという筋書きである。


だが、これは、おかしいと思う。


千鹿頭」の守屋は、時代背景として、「狩猟民族の末裔か、縄文時代の残滓か」であるから、飛鳥時代から、そこそこ古い時代を想定させる。その時代の、すでに、諏訪地方に、守屋氏はあったのだと・・そう考えると、諏訪の守屋氏と物部守屋氏は、時代背景が逆説的におかしいことになる。
諏訪大社と神長官「守屋氏」の関係は、武蔵国・氷川神社と「門客人神社(てアラハバキ神を祀る荒脛巾神社)の関係に似ている。


そして、「古来の神々」は、純国産であるという教科書的記述も矛盾が生じてくる。

・・・そもそも、「千鹿頭神」の「鹿を生贄の供物」に供するという儀式は、大陸・中東高原民族の「羊・放牧」に関わる儀式ではないのか・・・「羊」を「鹿」に置き換えて・・・

・・・「scapegoat」の ”goat”は「山羊」なんですが・・


神社の祭神の多くは、「スサノウの命」とされ、スサノウは、「牛頭天王」と同一人物とされている。スサノウは朝鮮北部の「牛頭山」の生まれで、日本に来たとされる。・・・この伝承が正しいとすれば、、「古来の神々」も、外来である」という推論が成り立つ。しかも、こう考える方が合理的である。


 

御社宮司(ミサグジ)と御射山とキリスト教の「ミサ」と関係があるかどうかわかりません。思わせぶりな「語彙」の共通に興味はありありですが・・・

この「解」を求めてみても、「せんなきこと」かもしれません。

 

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11:むかしの「松本」? :11-1:茶屋明延?

2025-02-09 20:09:29 | ひとりごと

11:むかしの「松本」?

「松本」学、あるいは「松本」考:9

11:むかしの「松本」?

:11-1:茶屋明延?  ・・・

没年:天正19.5.25(1591.7.15)   生年:生年不詳

 

戦国時代の武士,豪商。信濃守護小笠原長時の家臣中島宗延の子。通称は四郎左衛門尉。明延もはじめ武士で小笠原長時に仕えていたが負傷して武士をやめ,天文(1532~55)末年ごろから京都に住んで商人になった。茶屋は屋号。ただし茶を商っていたわけではなく,呉服商であった。茶屋を称するようになった由来は,旧主小笠原長時が武田信玄に信濃を逐われ,一時,上杉謙信の保護を受けたあと,三好長慶を頼って京都に逃れ,将軍足利義輝の弓馬の師範となったことと密接に関係する。そのころ,明延は自分の屋敷に茶屋を作り,茶の湯三昧の生活を楽しんでいたが,長時に伴われた義輝がしばしば茶を飲みに立ち寄ったところから,いつしか「茶屋」と呼ばれるようになったという。明延の子清延が四郎次郎を名乗って,徳川家康の御用商人(呉服商,朱印船貿易家)となり,以後代々四郎次郎を称して発展する。
(小和田哲男)・・ 出典 朝日日本歴史人物事典


・・ カラー文字(アンダーライン)の部分は、間違いである。小笠原長時が、父・小笠原長棟から家督を継いだのが、天文10年(1541年)のことであり、長棟が退役した時に、同時に、臣下を辞した」とする方が合理的である。また、明延は、豪商ではなく、子息・清延以降から、呉服屋を営み、「茶屋四郎次郎」を屋号としたようである。明延が京へ上る際、三河の「伴野小笠原」を出自とする小笠原家に世話になり、その頃既に、家康の家臣になっていたも三河・小笠原家の関係で、茶屋四郎家は、「徳川家」の御用商人となったのだろう。茶屋家」から時々「家康」への武家家臣が出ているし、茶屋家」が、後継ぎ問題が発生した時、家康から、「中島某」が武士から商人へ戻ることを要請された」とある。


さて、「中島明延」は松本・松本周辺に出自の爪痕はあるのか?
といっても、調べる術を知らない。術を知らないまま、「中島」姓の旧家・豪農辺りがあるのかどうか調べる。


ここからは、多分に、推論が入る。


歴史、とりわけ日本史の場合、実証的検証の積み重ねの歴史事実確認が、つまりーー帰納的論理方法が主流であり、そのため、時間経過が過ぎればすぎるほど、古くなるほど、資料は散逸し、時には焼失し、時には流失し、時には盗難し、辿ることが不可能になる。こんな時に「有効」な方法が、推論が先にあり、あとで証左を探るという方法・・歴史のダイナミズムな「ストーリー性」は、こちらの方の方法論からのようで、司馬遼太郎の史学は、これに近い。


松本で、中島」という姓には、「中島 治康(なかじま はるやす)」を思いつく。
・・・
<写真>


中島 治康(なかじま はるやす、1909年〈明治42年〉6月28日 - 1987年〈昭和62年〉4月21日)は、長野県東筑摩郡中山村(現:松本市)出身のプロ野球選手(外野手)・監督、スポーツライター。
来歴 ・・松本商業(現:松商学園高)でエース・4番、1928年の夏の甲子園で優勝]。早稲田大学で野手に転向。藤倉電線を経て1934年に大日本東京野球倶楽部に入団。そのまま巨人軍結成に参加。 1935年に一度退団するが、翌1936年より春季リーグから右翼手のレギュラーとしてクリーンナップを打ち、7月15日には球団第1号の本塁打を放っている。秋季リーグからは主に4番打者を務め、この年の春・夏・秋通算でチームトップの打率.267を記録。1937年春は本塁打王(4本)、秋は打点王(37打点)[5]、1938年春は首位打者(打率.345)と次々と打撃タイトルを獲得。NPB史上初の三冠王となり、最高殊勲選手にも選ばれた。その後も、1940年まで四番打者を1941年以降は川上哲治に続く五番打者を務める傍ら、1940年(67打点)・1942年(60打点)と二度の打点王を獲得するなど、1939年から1943年までの巨人の第一次黄金時代に主軸打者として大きく貢献。(1943年)に監督を辞任した藤本定義に替わって、1943年には選手兼任監督を務めて54勝27敗(勝率.667)で五連覇を達成。1963年に野球殿堂入り。


中島」姓を名乗る家が、「中島 治康」出生地近辺に、複数あることが確認できた。そのうち数軒は、旧家でそこそこ古いことも確認できたが・・・

こんな記事も見つけました。・・・内田のカキ  今もたわわに実をつける老木  内田地区中村の中島家の庭に成育しています。市内最大のカキで、幹囲は根元で2.9m、目通り2.3m、太さは70cm程度で、高さは15mを測ります。富山という品種の渋柿の老木で、現在も実をつけています。-----なお、中島家の母屋は安永7年(1778年)に火災のため焼失し、・・・・・


それが・・どうした! ともいえます。


馬場家住宅
<写真>

馬場家住宅は、松本市郊外内田の鉢伏山の西麓にある本棟造り(ほんむねづくり)の住宅です。馬場家の伝承によれば、先祖は武田信玄の家臣・馬場美濃守信春の縁者とされ、天正10年(1582年)頃、武田氏の滅亡を機に、内田のこの地を開発し、この住宅の原初を築造したとされています。

馬場美濃守信春 ・・・馬場 信春 / 馬場 信房(ばば のぶはる / ばば のぶふさ)は、戦国時代の武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。文献によっては房信とも。武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた歴戦の重臣だったが、長篠の戦いで討ち死にした。
・・・

馬場美濃守信春」と松本との関係は、信玄が小笠原長時を信濃府中から追放して、深志・信濃府中を武田家の支配下に置いた時の「深志城」城代で、築城と河川工事を行ったと知られる。さらに嫡子・民部少輔は、織田の軍勢が武田攻めで侵攻した時に、織田方へ深志城を明け渡した」と文献にある。

ここからが、想像・構想であるが・・・

まず、内田・中山の関係は・・・謂わば、隣接又は大字小字の関係で、ほぼ同地区と思ってよい。かって古代は、この地区の近くに「植原牧」という官制牧場があった。また付近には、馬具や土器の産出する古墳も複数存在する歴史に深い地帯である。

もし、中島明延が、この地の出身で、「小笠原家」を辞して京に上るとき、明延の居館・住居と領地が空いていたとすれば、その後どうなったのであろうか?・・・

ここに、甲斐・教来石(北杜市)から「馬場家」が移り住んだという経緯が詳らかになれば、・・・

時間的、空間(地理)的条件は、暗示をするのだが?!

信濃府中・小笠原時代は植原城が置かれてこの城の管轄内で、小笠原の臣・村井氏が治めていたようだ。小笠原長時追放後は、この地の領土、内田・中山は、松本藩から分割されて、諏訪・高島藩に譲られて、馬場家」が、松本藩とトラブルルを避けるために「諏訪・高島藩」をひたすら頼ったとすれば、・・・

「小笠原貞慶」が松本城に復帰した時も、報復の危機を回避できたのではないか!・・・

この移住の経緯を暗示させるのは、馬場家と内田の大柿(中島家)は道を挟んだ隣という位置。

中島家の痕跡が辿れるとしたら、近在の寺にある「過去帳」か、係累の「中島家」に残っている(かもしれない)系図か、墓が残って居れば、墓石の刻印の生没年と戒名・本名か」、あるいは、馬場家に、移住の経緯を記した古文書がないのか?

・・だが、手足が多少不自由になった自分には、調査は無理かもしれない。

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10-2:会田、会田宿、交通の要所?

2025-01-18 15:16:57 | ひとりごと

10:むかしの「松本」?


:10-2:会田、会田宿、交通の要所?

:会田、会田宿?


・会田は、交通の要所である。
・会田は、「四つの峠」に囲まれている。


・「四つの峠」・・「青木峠」、「保福寺峠」、「立峠」、「刈谷原峠」
「青木峠」、「保福寺峠」を下ると青木村。ここは上田藩領域だが、青木峠の先は「上田」、保福寺峠の先は佐久である。

・会田は宿場町でもあった。「会田宿」。

--この宿場町を「柘植義春」(=漫画家)が愛した。


善光寺街道


正式には、北国西脇往還という。現在、国土交通省では北国西往還とされている。善光寺街道、善光寺西街道などの別名を持つ。また善光寺とは逆方向に進み、中山道から西の伊勢や京に行く用途(伊勢参りなど)では西京街道の名が使われ、稲荷山宿にその名が刻まれた道標が残されている。
洗馬で中山道と分かれた後、松本城下を経て山間地に入り、街道最大の難所である猿ヶ馬場峠を超えて善光寺平の南端(稲荷山宿・桑原宿)に至り、丹波島で北国街道に合流するのが北国西街道の正式なルートであるが、実際に西国から善光寺に参詣する際には、十返舎一九の『続膝栗毛』に見られるように、中山道塩尻宿から千国街道沿いに安曇野を経て、大町宿から西山地域を超えて善光寺平の西端に至る経路も頻繁に利用された。


宿駅
洗馬宿(長野県塩尻市)
郷原宿(長野県塩尻市)
村井宿(長野県松本市)
松本宿(長野県松本市)
岡田宿(長野県松本市)
刈谷原宿(長野県松本市)
会田宿(長野県松本市)
青柳宿(長野県東筑摩郡筑北村)
麻績宿(長野県東筑摩郡麻績村)
桑原宿(長野県千曲市、間の宿)
稲荷山宿(長野県千曲市)
篠ノ井追分宿(長野県長野市、間の宿)
丹波島宿(長野県長野市)
・・


いわゆる「善光寺街道」といわれる道は、三つある。善光寺西街道の他、北国街道(軽井沢追分宿で分岐して善行寺に向かう街道)、十日町街道・谷街道(小千谷宿(新潟県小千谷市)から長野県飯山市で谷街道に接続して、松代城下を経由して善行寺に至る街道。)しかして、北国街道と十日町街道は、二義的に「善光寺街道」ともいわれ、一義的に善光寺街道といわれるのは、この「善光寺西街道」以外にはない。つまり、善光寺街道といわれるのは「ここ」。


「善光寺西街道」は、一里塚の設置位置から推測すると中山道の洗馬宿(せばじゅく) が起点で、北国街道の篠ノ井追分までの、十五里参十二町(約62km)です。

なお、「洗馬」は「せば」と読む。義経が、兄:頼朝から疎まれて、「東北」への逃避行の途中、ここに立ち寄り、休憩して馬を洗ったという」逸話が残っており、洗馬(せば)と名付けられたという。初見では、正解の読みができないという難読漢字・・・


「善光寺西街道」は、それ程「善光寺」への参詣者が多かったのであろうか?


これから以降は、多分に推理が混じります。


善光寺縁起」・・・異説もあるが、善光寺では、この縁起説をとっている


本多善光は、信濃国で貧しい暮らしをしていたが、600年に信濃国司の供として都(大和国)に上った際、難波の堀江でかつて物部守屋によって打ち捨てられた百済から渡来した阿弥陀如来像と出会う。肩におぶさって来た如来に喜び、善光は家に連れて帰って臼の上に祀ったところ、光ったことから坐光寺(元善光寺)の由来となった。
642年には如来のお告げにより、信濃国水内郡芋井の郷(現在の善光寺の所在地)に御堂を建てて如来を移動することとなったが、途中の諏訪郡で6年間安置された。これが 善光寺 (諏訪市)の由来である。
643年、亡くなった善光の子・善佐を如来が地獄に救いに行ったところ、なんと当時の皇極天皇に会う。善佐の願いから、如来は皇極天皇も生き返らせてあげた。皇極天皇はこのことを感謝し、善佐と善光にそれぞれ信濃と甲斐を与えることにした。そして皇極天皇は如来のために立派な御堂を建て、善光の名をとって善光寺と名付けられた。
『伊呂波字類抄』では若麻績東人(わかをみ の あずまんど)とも称される。長野市の善光寺には現在でも、開山像を安置する「御三卿の間」があり、善光と妻の弥生御前、子の善佐の像が安置されている。


・・ 善光寺は、この「本多善光」の名に由来しています。


創建が、飛鳥時代ですから、天平の「天台宗」や「真言宗」よりも古く、従って、「宗派」はありません。事実、善光寺を「賄って」いるのは、天台宗と浄土宗であり、大勧進貫主は天台宗から派遣されています。
では、本多善光とその末裔はどうなったのでしょうか?


善光は、信濃国水内郡芋井の郷(今の長野市)で善光寺を創建の後、朝廷から、甲斐の国に行くことを命じられ、そのあと末裔は、京都に呼ばれ、後に九州へ行くことを命じられたそうです。
時がたち、「建武の新政」のとき、初期は同盟した、後醍醐天皇と足利尊氏は反目して、尊氏は、九州まで敗走し、九州から反転して、京都に攻めあがります。こと反転攻勢の与力の部隊の主力となったのが、本多善光の末裔を名乗った「本多」系譜の諸流で、足利尊氏が幕府を開くときに、矢作川両岸に散在した」と謂われています。
この、三河・矢作川流域の「本多の由来」は、各本多家に伝わる伝承で、本多家以外での「古文書」的証左はないそうですが、従って、推理・推論の域をでないわけで・・・

 


ただ、家紋を確認すると、善光寺の寺紋が、「立葵」であり、本多家の家紋が「葵」紋であることから、幾分の客観的な「状況証拠」になる可能性もあり・・・

 


三河の一向一揆のことと三河の本多家・一族のことを調べると、「一向一揆の起こった愛知県の三河の農家には、「聖徳太子絵伝」「善光寺如来絵伝」が飾られ、宗派は浄土真宗だという家がかなり多いらしいが、これは何を意味しているのだろうかと昔考えた。その時の疑問の収斂は、仏教信仰という巾の広い概念の中に、その時代の流行の”浄土真宗”があり、あるいは浄土宗があり、一般的には矛盾がなく信仰が同居していたのではないだろうか。浄土宗や浄土真宗と禅宗二派(臨済宗や曹洞宗)とは対立関係にあったのだが、善光寺は包括的前提であるがゆえに、矛盾ではなく受け入れられていたのではないだろうか。これが当時の庶民の感覚であり、今に続いているのである。」


本多家は、出自が「坐光寺」(=座光寺:昔は麻績といった)であり、ここには「元善光寺」があり、長野の「善光寺」の創設にも関り、三河一帯の民は、「伊那」と「善光寺」に対して憧憬や愛情が深く、「阿弥陀如来」は、時々里帰りをする」ということが信じられて、「元善光寺」と「善光寺」の二か所を参詣する「二度参り」は流行ったという。


この三河からの「善光寺参り」が、実は本流で、三州街道を経て、「村井宿」で追分合流し善光寺街道から善光寺に向かったのではないか」と。・・・


勿論、江戸時代には「伊勢参り」の帰りに、中山道を通って、洗馬で善光寺街道に入り、善光寺も参詣したという記述も多く見かける。

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:10-1:会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?

2025-01-12 13:51:44 | ひとりごと

10:むかしの「松本」?


:10-1:会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?


・松本から北方、会田という所がある。街道筋は、古い町並みが残る。
・・1955年4月1日 - 嶺間4箇村と呼ばれた錦部村・中川村・五常村・会田村が合併して発足。
・・2005年4月1日 - 松本市に編入。同日四賀村廃止。

保福寺峠


長野県松本市と上田市の境にある、松本盆地と上田盆地を隔てる峠。律令時代の東山道が通る、重要な交通ポイントであった。 なお、近隣の地籍である保福寺は「ほふくじ」と読むが、峠の名前は「ほうふくじとうげ」であり、誤って「ほふくじとうげ」と読まれることが多い。
峠の南東側の小丘には、「ウォルター ウェストン 日本アルプス絶賛の地」の石碑がある。


 

 つまり・・飛騨山脈を「北アルプス」と命名した「言われ」の場所なのだ。
お陰で、「アルプス」的でない(と私は思っている)南アルプスと中央アルプスが、相対的位置関係の理由で、名付られてしまった。赤石山脈と木曽山脈は、隆起型で、つまり左右から圧力がかかり、山谷山谷山と皴のように凸凹し、赤石山脈、谷(川:小渋川と三峰川)伊那山脈、天竜川、木曽山脈と連続するわけで・・・山脈は、大概急峻でもなく、深くて長い山林を頂上付近で抜けると、つまり森林限界を越すと、お花畑と雷鳥に出くわすわけで・・・この森林限界の標高は、美ヶ原や霧ヶ峰や菅平と比べて極めて高いわけで、「赤石山は巍巍として」とは、到底思えない。さすがに頂上付近は、風雪で、岩肌の様だが・・山脈は、南北に連なるが、北端に、糸魚川−静岡構造線断層帯が、直角に遮るように走る。断層帯は、仁科三湖、諏訪湖、富士川と連続して、山脈の北端近辺の山容風景を険しく変容させる。「鳳凰三山」だ。この山は、若干岩肌が激しい。


 
さて、この山脈と構造線断層帯が交わる付近の特色は、古代地層を「露頭」するという。花崗岩地層は、積年の酸性雨と劣化で、ひび割れ・雨の浸透、氷結により割れ目の拡大、劣化を繰り返し、川が山肌を削っていく。「釜無川」はそのいい例で、削り取られた砂岩が川底を厚くして、洪水氾濫が起きやすい地域に変えていく。「白洲松原」は、花崗岩の石英部分が白浜を形成する。
露頭が多い」ということは、信玄の「金山」がこの地に集中しているということと無関係ではなさそうだと判断する。
そういえば、「安部川もち」の語源となった「砂金」もあながち「うそ」でもなさそうな気がする。源流は、この山脈の北端・・・.


 さて、題材が、「会田・保福寺」から離れて、「アルプス」の逸れたので戻す。「アルプス」は、まあ・私の感性の話なので、他人が「南アルプス」というのを拒否するつもりもないが・・
少し話がそれたので、もとへ・
保福寺川は、断層沿って流れる。断層は、古代の地層を「露頭」する。この古代の地層から、「シガマッコウクジラの化石」の骨が発見される。

 

会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?

「会田御厨」


・厨・・調理をする場所」新見
・御厨・・神饌を調進する場所のこと:神の台所
   ・・伊勢神宮の「食物」等を調達する荘園を意味する場合が多い
・「会田御厨」会田盆地に存在した伊勢神宮の荘園。中心に、伊勢神宮系の神社「神明社」が存在する。伊勢神宮系の神社・神明社は「農耕の神を祀る。


歴史


古代の筑摩郡錦服郷の地にあたる。鎌倉時代の嘉暦4年(1329年)の「諏訪上社頭役注文」が初出で、通常は伊勢神宮の神領が諏訪大社の祭礼に勤仕することはないが、会田御厨では信濃国の諸荘と同様、地頭の海野信濃守入道が頭役を務めている。また『神鳳鈔』には「会田御厨70町」とあり、鎮守の会田御厨神明宮もこの時期に創建されたとされる。
戦国時代には武田氏の支配の下、青柳頼長の所領となっており、永禄9年(1566年)の『諏訪社上社造営再興次第』には「会田御厨五ケ条」として刈谷原、明科、塔原、会田、多沢(田沢)の5か村が挙げられている。天正7年(15年)の『上諏訪造営清書帳』では「会田之郷」として造営役500貫文を負担している。同9年(1581年)には内宮御師の宇治久家が訪問(『信濃国道者之御祓くばり日記』)、武田氏滅亡後の同10年(1582)年には、頼長によって伊勢神宮に寄進された.

 


・・
村の西端に伊勢神宮内宮御厨の会田神明宮が鎮座している。この地は古代の錦服にしごり郷、中世の会田郷、近世の会田宿のあった所で、松本藩領会田組の中心地である。
会田御厨の成立は鎌倉時代初期とみられるが、「神鳳鈔」に「内宮、麻績御厨八ケ条、内宮、会田御厨七十町」とあるところから麻績おみ御厨の後の成立とみられ、鎌倉時代の初期に小県ちいさがた郡の海野氏が地頭としてはいってからと思われる。「神鳳鈔」記載例や、両者が内宮の神官荒木田家の所領となっていることなどから、麻績御厨とは深いかかわりをもっていたと考えられる。
荘園」なので、伊勢神宮への「奉納・貢物」が何かと興味がわきます。


「神鳳鈔」(=伊勢神宮の御厨のことを記載した記録帳)に、麻績御厨のことの記載があり、『神鳳鈔』には「麻績御厨八ケ条」とあり、本家の内宮への神貢(供祭上分料)として、「鮭150隻、同児1桶、搗栗1斗、干棗1斗」等を納入し、領家の内宮禰宜荒木田元雅には口入料として、「六丈布60端、四丈布16疋、鮭30隻、同児1桶」を負担していたことがわかる。」とあります。


恐らく、麻績御厨と会田御厨は、近在で、犀川右岸も同じであり、禰宜・荒木田氏も同じであることから、量(規模)こそ違えども、上記同様の神貢(供祭上分料)が想像できます。


つまり、室町時代以前には、犀川に「鮭」が上ってきており、麻績川や会田川・保福寺川では鮭の捕獲が一般的であっただろうということです。


旧地名や、残存の地名の錦織」とか錦部」をみたり、麻績」の謂れを考えると、この地方は,麻の栽培が盛んであり、麻布の機織りの帰化人がいた可能性があります。
それにしても、どうやって、伊勢神宮まで運んだのでしょうか・・・興味があります。

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「松本」学、あるいは「松本」考:9 :9-3:「武田」が「信長」に敗れたとき・・

2024-09-17 19:47:35 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?

:9-3:「武田」が「信長」に敗れたとき・

井深氏・・

『信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏.井深氏らが小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている。

上の文章は、松本市の公式な見解の記述であるのだが・・・
なんか変である。


普通、戦に負けて降参すると、領土を保全されて安堵され、「先方衆」として勝者の軍に配されるのが、戦国時代の一般的な習いである。なのに、以後に「井深氏=(後丁氏)」の名前は当時の府中から消えているのだ。

「謎」を深堀してみると、「信府統記」という古書があり。ここに「赤沢氏」の記述がある。
信府統記・赤沢氏・『後ニ井深ノ城主後庁大蔵ヲ攻落シ、彼領地ヲ以テ是ヲ武田家ヘノ忠節トセリ』赤沢氏が伊深城を攻め落としたとの事。だから『赤沢ガ為ニ没落セリ』
とある。


『信府統記』(しんぷとうき)は、信濃国(長野県)松本藩主・水野忠幹の命によって、家臣で学究の武士であった鈴木重武と三井弘篤が著述・編纂され、1724年(享保9年)12月に完成した、同藩内および信濃国内の地理・歴史を記述した書籍(地誌)である。

この書の「記述」を確認すると、全般に「精緻」であり「客観的」であり、ほぼ信頼に耐えうるものとしてみることができる。ただし、松本・水野藩についてだけは多少疑いを持つことにしている。学究の武士であった鈴木重武と三井弘篤が清廉潔白な人であったことは、疑うべくもないので「フェイク」は無かったにしろ、不都合は書かなかったかもしれない、という疑念が多少残る。これが、古書に対する態度である。「信長公記」や「太閤記」や「東鑑」は、疑念の多いことが多々ある。


この、一見矛盾しているように思える二つの文章は、本当に矛盾しているのか?


武田信玄が信濃に進出し,天文 19 (1550) 年諸城を攻めるに及んで林城を捨て,村上義清と同盟して平瀬城に拠った。翌年,信玄が深志城に進出,平瀬城を落し,さらに長時方の中塔城,小岩岳城,苅屋城などを攻略したため,同 21年 12月,越後の上杉謙信のもとに逃れた。

上記の文章は、塩尻峠で「信玄」に敗北して以来の、「小笠原長時」を詳細している。つまり、「小笠原家臣団」すべてが、「塩尻峠の戦い」で敗れて、自落している訳ではないということ。長時に味方して、擁護した豪族は、平瀬城主:平瀬氏、中塔城:二木氏、など複数いたのだが、再度信玄が出陣すると聞き、支援していた村上氏が軍勢を引き上げるのに臨んで、落城を決意したと思われる。
1552年、中塔城:二木氏とともにあった「井深氏」は、「赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている」に繋がるわけで、時系列的解釈では、早々と自落した稲倉城:赤沢氏に、手薄を好機とされて、侵略されたと解するのが合理的と思う。


以後の「井深氏」については、武田勝頼が信長に負けて新府(韮崎)を逃亡するとき、井深宅右衛門(重吉)に人質の身であった「保科正光」を保科陣まで救出した」という記録まで動静は不明である。
恐らくは、「大日方家」の家中として過ごし、武田家へも奉公したものと思う。

保科正俊・・


ここで何故槍弾正か?
武田氏の信濃先方衆(120騎持)。特に槍に優れた使い手であった。三弾正:高坂昌信「逃げ弾正」、真田幸綱「攻め弾正」、保科正俊「槍弾正」。高遠城城主


「保科正俊」の違う角度の見方・・「大日方氏」は正俊の娘婿、後に、孫の「保科正光」は真田昌綱の娘婿、さらに「川中島の戦い」で「真田昌綱」の窮地を救ったのが「保科正俊」という関係が見えてくる。ここには、信玄の先方衆同士の信頼関係が見えてくるのは私だけか?さらに、「保科正光」には息子がなく、養子を「大日方氏」から迎えていたが、将軍:家光の弟・正之を養子に迎えるという皮肉が起こった」という事実もある。


「井深氏」は、「赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている」と前章で書いたが、大日方氏傘下になった「井深氏」は、当然ながら「大日方氏」と「保科氏」の関係を知るわけで、「井深宅右衛門(重吉)に人質の身であった「保科正光」を保科陣まで救出した」という経緯に至り、その後「保科正光」の側近となり、やがて会津:保科/松平藩の家老に至る道筋を見ることができる。
とにかく、「信濃府中」消滅の因に、「赤沢氏」が関わっていることは確認できたわけで・・


topix -----
この「井深氏」の末裔に連なる、「ソニー」創始者:井深大氏は、松本・岡田で、自らの出自に関して、スタッフを動員して調査を行った。その調査結果を、地元・岡田公民館で行ったようだが、「調査結果」は封印して、「社外秘」とした

何故だろう・・
私が考察した以外に、まだ何かがあるような気がする。・・・知りたい。

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「松本」学、あるいは「松本」考:9 :9-2:「信玄」の松本支配まで

2024-08-31 18:27:08 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?

:9-2:「信玄」の松本支配まで


信玄は、「塩嶺峠」で「小笠原」を破り、松本平を支配するに至った。支配する拠点は、小笠原家の陣屋のある「井川」でも「林城」でもなく、支城の一つであった「深志」城であった。


松本平は、盆地である。

三才山を発祥とする「女鳥羽川」は、まず「田川」と合流し、次いで、木曽を源流とする「奈良井川」と合流する。美ヶ原を源流とする「薄川」も「奈良井川」と落合する。その「奈良井川」は飛騨山系を下流とする「梓川」と合流して、「犀川」を名前を変え善光寺平へと繋ぎ、千曲川と合流して、「信濃川」という大河に名称が変わる。この奈良井川と梓川の合流地点は、昔は「深瀬」と呼ばれる湿地地帯であった。「深瀬」は、いつの間にか、なまりで「深志」と呼ばれるようになった。

「深瀬」は、島状な状態の台地を有し、この場所は「犬飼島」と呼ばれ、平安末期に、朝廷より「国衙」を仰せつかった「犬甘氏」が陣屋を作った。この「犬甘氏」(いぬかいし)は、「山家氏」(やまべし)と同様に、予備知識がなければ、到底正解に至らない「難読文字」の例である。


この府中に、建武の新制に、なびかぬ者として、北条得宗家の御身内とされる「諏訪神族」と北条得宗家の「「村上一族」を筆頭とする「御家人」衆があった。これらの反旗をなびかせる者たちの「鎮撫」に足利尊氏から「小笠原貞宗」が信濃守護として宛がわれたのである。


府中は、なびかぬ者たちの橋頭保であった。そこの相対的首位の豪族は、国衙でもあった「犬甘氏」であったが、従順に受け入れたようである。「小笠原貞宗」は、当初蟻ケ崎の脇の城山に「陣屋」を構え、三男で、名跡:継がせた坂西氏を深志支城に置いた。後に、自らを「井川」に移し、城山を「犬甘氏」に返したようだ。深志城は、水運の集結地で経済の要地なっていった。


こうして、「犬甘氏」と「井深氏」を自軍の中に取り込んで、わずかに機能する国府を残滓として、名ばかりの「府中」を存続させた。名ばかりの・・・というのは、この地方の治安の面は、確かに府中「小笠原家」だが、貞宗の後は、連続しての「守護職」を外されているのだ。ここに、「小笠原家」の三家抗争・内訌が潜んでいる。


このようにして、府中は、小笠原貞宗の武力をバックに、後丁氏の存在を、かすかな機能の証として、地名としての担保を得ていたのであったが、・・・


ついには、隣国の、巨大化する甲斐「武田」信玄に、小笠原長時が敗れ、府中を追放されたのであった。居城の林城を取り囲むような家臣の「山城」群は、ほとんどが戦わずして自落し、長時は、自分の城にたどり着くことも能わず追放されたのであった。


「府中」の名実の喪失である。その後、多少期間、「府中」の呼び名が続いたとしても、それは悲しい残滓の記憶である。


当然ながら、「信玄」は、松本平(その時は、この名称はない)の経営の中心を「深志城」において、馬場長春に「縄張り」をまかせ、後に、松本平の経営を「工藤源左衛門尉」が引き継ぎ、後に、工藤は「内藤修理亮昌秀」と改名している。

深志城の「石垣」や「天守閣」は次の時代の産で、ここでは、度々水害を起こす河川の治水が主で、女鳥羽川、薄川、田川、奈良井川、梓川の治水に「甲州流」がもち入れられたという説があるが・・・確かではない。

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9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか? :9-1:府中消滅の因

2024-08-18 16:48:43 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?


:9-1:府中消滅の因


『仮説ですが、井深氏の祖先:井深勘解由左衛門は、国府の「文官」だった可能性が高く、井深氏の屋号が「後庁氏」だという説も可能性が高い。』-----


国府の役割は?-----奈良時代から平安時代に、令制国の国司が地方統治のための役所として拠点とした建物。国庁(政務・儀礼を行う政庁)。


時がたち、甲斐の信玄が、膨張政策を極めてくると、当然に府中・小笠原家と衝突するようになる。.


『天文14年(1545年)に晴信は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、高遠城を陥落させ、福与城の頼親を、龍ヶ崎城を陥落させる。武田勢は伊那を制圧すると、小笠原長時は村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡へ侵攻するが、塩尻峠で武田勢に敗退している(塩尻峠の戦い)。』
『林城の戦いは、武田晴信と小笠原長時の戦 ---天文17年(1548年)塩尻峠の戦いで小笠原軍に大勝した晴信は、天文19年(1550年)信濃国の松本平に侵攻。遂に長時の居城である林城の攻略に乗り出した。支城の犬甘城が落ちると、深志城、岡田城、桐原城、山家城の将兵は雪崩をうって逃亡。長時はこれを知ると、林城を捨て平瀬城に移り、その後信濃国の豪族村上義清を頼って落ち延びた。一連の戦いにより、晴信は筑摩郡を平定した。』


上記は、府中小笠原家・当主小笠原長時の、府中追放の過程であるが、追放の過程を、ことさら追うのが本意ではない。長時の居城・林城を、防衛線の如く取り囲む山城がいとも簡単に落ちたかが肝要である。それも、塩嶺峠の戦いの後、瞬く間の出来事であったようだ。しかして、長時は、居城・林城に戻ることできずに追放、落ちていった。
それは、防御線を構成する山城(林城の支城)の幾つかが「調略」により信玄の側のついたのではないか、と仮設される。


:保科正俊のこと


保科正俊の三代前・易正は、熊倉と関係があった、という説がある。熊倉は、生坂村の隣村である。春日神社の神官をしていた「熊倉」(藤原)家だそうである。また、生坂の大日方氏は、当時「武田」の側にあり、保科氏や真田素と同様に、武田軍の「先方衆」と呼ばれていた。大日向氏は、保科正俊の娘婿の関係、保科正光の妻は真田昌幸の娘という関係・・・
『信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏.井深氏らが小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている。』

「調略」---

もし、「調略」があったとしたら、調略した方・保科正俊、された方・井深氏 ・・・大日向氏はそれに噛んでいた・・  なんて」仮設。

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何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?

2024-08-04 17:58:14 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9

9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?


松本に関わったものは、「何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?」と疑問に思うことが多い。殊更に、「長野市」と対抗意識が強いわけでもなく、不満不平があるという訳でもないのだが・・・ 人口の規模」、歴史的背景」、県内のほぼ中央という地理的条件」など、「県庁所在地」たるに足る条件をそろえているように思えるのだが・・・なぜなのだろうか?


疑問である。
歴史を振り返ってみよう・・・


『1871年(明治4年)、廃藩置県により松本藩は松本県になった。その後、松本を県庁所在地とする筑摩県が成立。1876年(明治9年)には、筑摩県庁の焼失により、長野県に編入された。』
なんか、成行ですね。


歴史は繰り返すというか!、過去にはこんなことがありました。
-----、松本が「府中」と呼ばれていたころ、国府は女鳥羽川沿いにありました。今の「サッカー場」と「総社」の間辺り・・・ところが洪水で、国府は水没してしまいます。時期は、鎌倉期初期とされています。その時、緊急避難ということで、善光寺脇に、「後丁」として「国府」を避難させました。長野市に、後丁(後町)という町が今でも残っています。
ただし、善光寺後丁(後町)を国府として、無理やり機能させたのは、大塔合戦(大文字一揆)の前の短期間だったとされています。それ以前も以後にも「機能」の実績がありません。


大塔合戦 -----


『大塔合戦とは、応永7年に信濃守護小笠原長秀が、村上氏・井上氏・高梨氏・仁科氏ら有力国人領主及び、それらと結んだ中小国人領主の連合軍と善光寺平南部で争った合戦。守護側が大敗し、以後も信濃国は中小の有力国人領主たちが割拠する時代が続くことになる』
『室町時代初期に信濃国で起きた大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁ー御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。』


鎌倉初期、緊急避難した「後丁」は、府中へ戻っています。「井深後丁」です。


松本にあった県庁は、また戻ってくる日があるのでしょうか?


仮説ですが、井深氏の祖先:井深勘解由左衛門は、国府の「文官」だった可能性が高く、井深氏の屋号が「後庁氏」だという説も可能性が高い。

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ひとりごと・・

2024-08-03 10:20:27 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:8

8 再開に向かって 

 

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「松本」学、あるいは「松本」考:7  トピックス2

2023-09-04 14:08:21 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:7

7:トピックス2

古(いにしえ)は神社由来より・・・

浅間温泉の温泉街の上の方に神社がある。国道254号線の三才山トンネルの手前にも神社がある。また、美鈴湖を少し上った、美ヶ原の高原の中にも神社はある。御射神社という、・・らしい。

名前が「みさじんじゃ」といい、祭祀の様式が、キリスト教の「ミサ」に似ていることから、一説に「大陸高原の遊牧民」からの伝承の神社という説も、秘かに受け継がれているが・・・確証に乏しい。

正式名称を見てみよう。浅間温泉の上にある神社は、「御射神社春宮」、三才山トンネル近くの神社は、「御謝神社秋宮」、美鈴湖上の美ヶ原にあるのは「御謝神社奥宮」と呼ぶらしい。松本・岡田の地方誌の伝承によれば、鎌倉初期に、浅間郷の地頭であった「赤沢氏(=小笠原氏の傍流)」が稲倉城にいたころ諏訪から勧請したという記録が残るという。

だが、源氏の流派を標榜する赤沢氏が、独特な祭祀の様式をもつ御謝神社とは、どうも馴染まない。源氏であれば、「八幡神社」がほぼ氏神のようで、戦の神:諏訪神社でもいささか都合が悪い。

それでは、御謝神社の御神体を見てみよう・・・・・

御祭神・・諏訪明神(建御名方神・大己貴神・高志沼河姫神) 国常立命

建御名方神 ---・たけみなかたのかみ / 大己貴神 ---・おおなむちのみこと

そして、御謝神社は、諏訪神社のお狩場でもあるそうで・・・

御謝神社のある山は、所を変えることにより、御社山・御斎山・三才山とも呼ばれるが、「言い」のもとは、どこも「ミサ」であることは間違いなく、このことが美ヶ原や霧ヶ峰を「神の高原」とかんじさせる「ロマン」の源と思わせる。そういえば、連続性だけは認識しているのだが、美ヶ原や霧ヶ峰の境界は、いままで全く意識していたことはなく、ヴィーナスラインのカーブラインだけを覚えている。七島八島湿地は、諏訪大社の「お狩場」の聖地・・・

御謝神社の御謝は、どうやら「ミシャグジ」信仰が由来のような気がする。

ミシャグジ信仰の淵源は、

・・・・・柳田國男はこう書いている。・・・「荒神・山神・地ノ神・道祖神は、西部の諸県にもあるが、伊勢から紀州の一部を止まりにして東にしかないのは社宮司しゃぐじという神である。これについて二十年余りも前に、私は小さな本を一冊書いている。それから後に判ったことは、信州の諏訪が根源で、今は衰えてしまった土地の神の信仰ではないかということである」。つまり、もともとその土地に固有した在来神ということ」・・・

これが後からやってきた諏訪神と抗争したが敗れ、やがて同化して祭神事を共有化していった」とみるのが一番合理性があるように思う。

さて、諏訪社の祭事の中で、最も神秘的な・・というか、不思議的な「御頭祭」は、生贄の祭祀である。

「御頭祭」は、別名「酉の祭」とも言われ、正式名称「大御立座(おおみたてまし)神事」です。この行事の最大の見所は、鹿の首75頭をはじめ猪の首や魚、雉などを生贄として供えるという ------

「鹿の頭」の剥製:写真

 -----・ なんともはや・・上記は旧約聖書の言葉とほぼ同じ、、「羊」を「鹿」に置き換えれば、、「ほぼ」も無くなるし・・

上記の真偽は、よくわからないが、、--こんな神秘的な祭祀が行われていたのは確かなようで、、最近では、鹿の頭は、さすがに残酷なさまなので、生身を「剥製」に取り換えているそうだ。

美ヶ原は、文字通り「美しい高原」であるが、神々の舞台でもあったようで・・・

 

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