10:むかしの「松本」?
:10-1:会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?
・松本から北方、会田という所がある。街道筋は、古い町並みが残る。
・・1955年4月1日 - 嶺間4箇村と呼ばれた錦部村・中川村・五常村・会田村が合併して発足。
・・2005年4月1日 - 松本市に編入。同日四賀村廃止。
保福寺峠
長野県松本市と上田市の境にある、松本盆地と上田盆地を隔てる峠。律令時代の東山道が通る、重要な交通ポイントであった。 なお、近隣の地籍である保福寺は「ほふくじ」と読むが、峠の名前は「ほうふくじとうげ」であり、誤って「ほふくじとうげ」と読まれることが多い。
峠の南東側の小丘には、「ウォルター ウェストン 日本アルプス絶賛の地」の石碑がある。
つまり・・飛騨山脈を「北アルプス」と命名した「言われ」の場所なのだ。
お陰で、「アルプス」的でない(と私は思っている)南アルプスと中央アルプスが、相対的位置関係の理由で、名付られてしまった。赤石山脈と木曽山脈は、隆起型で、つまり左右から圧力がかかり、山谷山谷山と皴のように凸凹し、赤石山脈、谷(川:小渋川と三峰川)伊那山脈、天竜川、木曽山脈と連続するわけで・・・山脈は、大概急峻でもなく、深くて長い山林を頂上付近で抜けると、つまり森林限界を越すと、お花畑と雷鳥に出くわすわけで・・・この森林限界の標高は、美ヶ原や霧ヶ峰や菅平と比べて極めて高いわけで、「赤石山は巍巍として」とは、到底思えない。さすがに頂上付近は、風雪で、岩肌の様だが・・山脈は、南北に連なるが、北端に、糸魚川−静岡構造線断層帯が、直角に遮るように走る。断層帯は、仁科三湖、諏訪湖、富士川と連続して、山脈の北端近辺の山容風景を険しく変容させる。「鳳凰三山」だ。この山は、若干岩肌が激しい。
さて、この山脈と構造線断層帯が交わる付近の特色は、古代地層を「露頭」するという。花崗岩地層は、積年の酸性雨と劣化で、ひび割れ・雨の浸透、氷結により割れ目の拡大、劣化を繰り返し、川が山肌を削っていく。「釜無川」はそのいい例で、削り取られた砂岩が川底を厚くして、洪水氾濫が起きやすい地域に変えていく。「白洲松原」は、花崗岩の石英部分が白浜を形成する。
露頭が多い」ということは、信玄の「金山」がこの地に集中しているということと無関係ではなさそうだと判断する。
そういえば、「安部川もち」の語源となった「砂金」もあながち「うそ」でもなさそうな気がする。源流は、この山脈の北端・・・.
さて、題材が、「会田・保福寺」から離れて、「アルプス」の逸れたので戻す。「アルプス」は、まあ・私の感性の話なので、他人が「南アルプス」というのを拒否するつもりもないが・・
少し話がそれたので、もとへ・
保福寺川は、断層沿って流れる。断層は、古代の地層を「露頭」する。この古代の地層から、「シガマッコウクジラの化石」の骨が発見される。
会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?
「会田御厨」
・厨・・調理をする場所」新見
・御厨・・神饌を調進する場所のこと:神の台所
・・伊勢神宮の「食物」等を調達する荘園を意味する場合が多い
・「会田御厨」会田盆地に存在した伊勢神宮の荘園。中心に、伊勢神宮系の神社「神明社」が存在する。伊勢神宮系の神社・神明社は「農耕の神を祀る。
歴史
古代の筑摩郡錦服郷の地にあたる。鎌倉時代の嘉暦4年(1329年)の「諏訪上社頭役注文」が初出で、通常は伊勢神宮の神領が諏訪大社の祭礼に勤仕することはないが、会田御厨では信濃国の諸荘と同様、地頭の海野信濃守入道が頭役を務めている。また『神鳳鈔』には「会田御厨70町」とあり、鎮守の会田御厨神明宮もこの時期に創建されたとされる。
戦国時代には武田氏の支配の下、青柳頼長の所領となっており、永禄9年(1566年)の『諏訪社上社造営再興次第』には「会田御厨五ケ条」として刈谷原、明科、塔原、会田、多沢(田沢)の5か村が挙げられている。天正7年(15年)の『上諏訪造営清書帳』では「会田之郷」として造営役500貫文を負担している。同9年(1581年)には内宮御師の宇治久家が訪問(『信濃国道者之御祓くばり日記』)、武田氏滅亡後の同10年(1582)年には、頼長によって伊勢神宮に寄進された.
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村の西端に伊勢神宮内宮御厨の会田神明宮が鎮座している。この地は古代の錦服にしごり郷、中世の会田郷、近世の会田宿のあった所で、松本藩領会田組の中心地である。
会田御厨の成立は鎌倉時代初期とみられるが、「神鳳鈔」に「内宮、麻績御厨八ケ条、内宮、会田御厨七十町」とあるところから麻績おみ御厨の後の成立とみられ、鎌倉時代の初期に小県ちいさがた郡の海野氏が地頭としてはいってからと思われる。「神鳳鈔」記載例や、両者が内宮の神官荒木田家の所領となっていることなどから、麻績御厨とは深いかかわりをもっていたと考えられる。
荘園」なので、伊勢神宮への「奉納・貢物」が何かと興味がわきます。
「神鳳鈔」(=伊勢神宮の御厨のことを記載した記録帳)に、麻績御厨のことの記載があり、『神鳳鈔』には「麻績御厨八ケ条」とあり、本家の内宮への神貢(供祭上分料)として、「鮭150隻、同児1桶、搗栗1斗、干棗1斗」等を納入し、領家の内宮禰宜荒木田元雅には口入料として、「六丈布60端、四丈布16疋、鮭30隻、同児1桶」を負担していたことがわかる。」とあります。
恐らく、麻績御厨と会田御厨は、近在で、犀川右岸も同じであり、禰宜・荒木田氏も同じであることから、量(規模)こそ違えども、上記同様の神貢(供祭上分料)が想像できます。
つまり、室町時代以前には、犀川に「鮭」が上ってきており、麻績川や会田川・保福寺川では鮭の捕獲が一般的であっただろうということです。
旧地名や、残存の地名の錦織」とか錦部」をみたり、麻績」の謂れを考えると、この地方は,麻の栽培が盛んであり、麻布の機織りの帰化人がいた可能性があります。
それにしても、どうやって、伊勢神宮まで運んだのでしょうか・・・興味があります。