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ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

「・・・奈緒」と・小平物語

2018-05-28 19:17:20 | ひとりごと

「・・・奈緒」と・小平物語


小平奈緒は、旬な話題の人・・「オリンピックのゴールドメダリスト・スピードスケート選手」。
何故あんなに強いのか!・なぜあんなにストイックなのか!なぜ氷上の詩人と呼ばれているのか?などなど・・・は、興味はあるのだが、僕の関心の範疇から外して他に任せておこうと思っている。
しかし、とりわけて気になている「文武両道」の意識、、それも選択肢の一義の優先の強烈さを、何故かと問わずにはいられない。もちろん「文武」の武は旧来の武道の「武」ではなく、今日的な「スポーツ」という意味に置き換えて考えているのだが・・あるいは旧来の武道の魂を、脈々と受け継いでいたのかもしれぬ・・という旧家の伝統があったかも知れぬという・・まさかの話である。


「小平物語」という古書がある。
この本は、信玄が甲斐の国を膨張し、信野の諏訪や伊那に攻め入った初期の頃の、信濃の豪族・小平氏の戦記物語である。信玄の戦争の真実は、甲陽軍鑑などの筋が信濃側の反証があってこそ担保されるもので、「小平物語」はその第一義であるという。

「小平物語」には、一族の起源と経緯・戦記が描かれている。

---- そもそも、我らが先祖は当国 (信濃国)佐久郡の住人 望月城主 左衛門尉信永 と申すなり。同国 平賀四郎義信 末孫なり。
祖父は信永三男 源三郎信正。道三、是なり。末流の小平を相続す。
それ以前より数代、諏訪に居住す。-----


◇:信濃・甲斐源氏の平賀氏は、信濃佐久地方の有力な豪族であった。佐久地方は、平安期に有力な「牧」(=官製牧場)をいくつも抱えていた。平賀氏は、その有力な「牧」の牧監を足掛かりに、佐久に勢力を築いていたらしい。この平賀氏の武力の証としては、頼朝葬儀の時、「源氏門葉として御家人筆頭の座」にあったことが吾妻鑑に記されており、また北条時政に潰されたが、頼朝後の幕府の政権の座に名乗りを上げたことも、状況証拠として当時を詳らかにしそうである。少なくとも頼朝挙兵から承久の乱までの間は、武田・小笠原はもとより関東武家の筆頭の力を誇示していたのではないかと、・・資料は示している。
◇:平賀氏の没落の切っ掛けは、「頼朝の後釜を狙ったこと」とその後の「承久の乱」のとき、京都・朝廷側に与力して、結局負けたことが原因となった。承久の乱の後、小笠原が、その戦功褒賞で平賀を追い出して、小笠原長清の子息・伴野氏と大井氏を佐久に入れて、平賀氏の勢力を削いでいったとみてよい。
◇:小平氏は、・・「望月城主 左衛門尉信永 」であることが「小平物語」に記されている。そして、小平信永の祖父が、平賀信正であるという。ちなみに、佐久・望月は全国最優秀の牧場であったことが古書の各書から明かされている。

◇:望月を追われて落ちた先は・諏訪地方とあるが・「小平物語」の中に、南大塩:山浦とある。ここは、現在茅野市の地籍で、諏訪中央病院近くの山寄の場所で豊平とも言い、小平姓が集積しているところをみると一族であろうと推測するが、証があるわけでもなく、違うのかもしれないが、ここは深く調べることはしない。この小平一族の一部が、伊那・箕輪の小河内にも移り住み、そもそもののこの「小平物語」を記した。

「・・・奈緒」の出身地は、どうやら茅野市南大塩らしい。そして選んだ高校は伊那にあるという。
選んだ高校も、選んだ大学も、スポーツが盛んだということもなく、スケート部すらないという、スケート選手にとって最悪の環境のところで、敢て最悪を選んだのではなくて、「文武」の文を優先した意識がどこから来たものか、多少興味をそそられて、・・・あるいは出自の環境が影響あるのかもと思って調べてみたが・・あえてこれ以上の深堀は差し控える。

 

 

後記:40年の間隙があっても、学び舎を共にしたかもしれない、と根拠のない仲間意識があって・愛おしく


アイコス。参上!

2016-11-19 16:38:29 | ひとりごと

 

  アイコス。参上

”煙の出ないたばこ”の謳い文句だが、全然煙が出ないわけではない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
IQOSは、
 ・たばこ葉を燃やさずに過熱する次世代のたばこ。
 ・火を使わないから、灰が出ない。
 ・たばこの煙のニオイもない

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
ヘビースモーカーの自分がIQOSに切り替えた。
 ・切り替える際に、「たばこの風味があるのだろうか?」の懸念があった。
 ・物足りなさが感じられれば、切り替えはうまくいかない。
 ・そんな懸念は、ギリギリ・クリヤー。
  ・・・「たばこの風味はある」-・つまり、たばこの喫煙の満足感は、ギリギリ残るのである。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  

街中では、「喫煙者」に冷たい。
  家族からは”嫌われ者”。
    喫煙の場所と時間を限定され、まるで”煙の放浪者”・・・
      この”煙の放浪者”に対して、政府は、罰金の如く「たばこ代」を吊上げていく ・・・
        俺らは、犯罪者なのか。ただの「たばこの嗜好家」にすぎないのに ・・・曰く、不条理

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  


IQOS:アイコス

   ・外形

  ・チャージャー

  ・ホルダー

  ・・ホルダーをチャージャーで充電して使う・

 ・アイコスたばこのことを「ヒートスティック」といいます。

  ・・>ヒートスティックをホルダーに差し込んで,
  過熱ボタンを押して、ヒートスティックを過熱します。
  ・・>すると、多少ニコチンを含んだ水蒸気が発生するようです。
  ・・>これが、たばこの風味。
 
 ・確かに灰は出ません。
 ・確かに煙は出ません(水蒸気)。
 ・確かにタールはありません。
 ・・ニコチンはごく少量のようです。
 ・・匂いは、かすかに残りますが、気にならない程度(家族談)。
 
 ・時々神経がとがっている時など、連続で2,3本続けて灰にすることがあったが、、、
  IQOSだと、一々充電が必要なので、チェーンスモークはなくなった。 かなりグー!

*セブンイレブンで予約して、待つこと1っヶ月 ・・・ようやく届きました。


永六輔さんが亡くなりました

2016-07-17 23:50:39 | ひとりごと

永六輔さんが亡くなりました

こちらが一方的に知っているだけで面識があるわけではありません。
友人のツイッターで、永さんのことが書かれていました。ちょっと紹介 ・・・
 ・・・ 「永六輔さんが亡くなった。永家は三河から家康について江戸に出てきたお家だそうで、徳川びいきでした。徳川昭武の記念館の準備で夢中だった頃、羽田空港で突然声をかけさせていただいたら、しばらくして戸定歴史館を訪ねてくださいました。」 ・・・
 * 戸定歴史館は、松戸にあります。徳川昭武は、最後の将軍・徳川慶喜の弟で最後の水戸藩主、戸定は水戸藩別邸、戸定歴史館は大名屋敷を再現したものです。
 
甲高い声で物腰は柔らかいが、戦争を嫌悪することを体臭として発散していた人でした。
江戸文化や古き物への愛着や憧憬が深く、その知識が豊富だったことも記憶しています。
今このブログにたびたび登場する神社のことは、かって自分は、神社の社叢の薄暗さや陰湿さが嫌いだったのですが、ある切っ掛けでたびたび訪れるようになり、その価値観を変えるのに、永さんの神社の知識に助けられた部分があると思っています。

足立神社があります。安達も安立も足達も阿達も同類です。かつて武蔵野に足立郡なるものがありました。その範囲は広大で、中心は武蔵一之宮です。武蔵一之宮は現・大宮氷川神社のことです。この足立郡の一帯に村社を建てる必要があったとき、氷川神社と祭神を同じくしながら、同名を憚って、郷名をつけた”足立神社”が各地にできました。ですから、旧名を異にしながら明治期に改名されたものが多い。その頃の足立郡の名残は、東京の足立区と足立神社だそうです。この知識は、永さんのラジオ放送からです。知れば、永さんは仏門の住職の息子であったそうです。

戦中の永さんの疎開先は、信州・小諸の三岡というところのようです・・・(小諸から小海綿に乗り換えて三岡駅からはリヤカーを借りて……。)。そこで幼年を過ごし、当時の上田中学(現・上田高校)の一年の時東京へ戻ったということです。
この、信州・佐久は、早稲田高校の同級生で仲間だった渥美清が、仕事の疲れたとき誰にも告げずに訪れていた第二の故郷だったそうです。
このきっかけは、永さんと渥美さんの二人だけのエピソードかもしれません。

後日訂正:
高校の同級生ではありませんでした。
永さんの高校生時代、「ラジオつくり」に熱中していたことがあり、入り浸っていた秋葉原で顔なじみになった違うグループの「ラジオつくり」の仲間、だったそうです。訂正します。

昭和を駆け抜けた骨っぽい人が、また逝ってしまいました。
今日は、「水原ひろしの”黒い花びら”」でも聞きましょうか。

  

 


マルタの「ヘイジュード」

2015-09-19 19:17:11 | ひとりごと

マルタの「ヘイジュード」

マルタ・クビショヴァー(Marta 、1942年11月1日 - )はチェコのチェスケー・ブジェヨヴィツェ出身の歌手。
1960年代から音楽活動を開始する。プラハの春およびワルシャワ条約機構軍による軍事侵攻があった1968年に、ズデニェック・リティーシュ作詞によるチェコ語でカヴァーしたビートルズの"Hey Jude"で知られる。

 ・・・これに対する抵抗運動として、チェコの歌手、マルタ・クビショバ(Marta , 1942年~)は、ビートルズの名曲 「ヘイ・ジュード」を、チェコ語の歌詞に置き換えて歌いました。・・・「人生は素晴らしいけれど、残酷なもの。 私たちは人生にあやつられるけれども、どうか悲しまないで・・・」 といった歌詞の中に、祖国の自由への思いが込められたもの・・・まもなく、彼女は共産党政府の弾圧を受け、回収されたレコードは街頭で割られ、ファンが隠していたレコードも、密告により壊されてしまいます・・

いま日本では・・・

日本の国会の周辺を埋め尽くす群衆の波は深夜になっても引くどころか増え続けています。
シュプレヒコールは絶え間なく流れています。
「安全保障関連法」の成立阻止に向けた「民衆」の意思表示です。
・・・民意の無視だ」、「憲法守れ」、「戦争法制、絶対廃止」・・・は手つくりのプラカードやシュプレヒコールで表現されています。やがて・・・参加者はスマートフォンで国会中継を見守っていたが「成立した」、誰かが力なくつぶやく。・・・直後に「採決撤回」「選挙に行こう」と、怒りの大合唱が起きました。

「安全保障関連法」の反対の論理には様々な人がいます。
 ・法案そのものが憲法違反である、という立場の学者を中心とする知識人
 ・法案成立へ、前のめりの安倍晋三一派(自民党)の先例・ルール違反の強引さへの反発。
 ・平和主義の立場から、国際紛争を武力でない平和的(話し合い)で解決を望む平和主義者。
 ・戦争の悲惨さを体験した、厭戦的戦争反対者。
 ・などなど

確かに、戦後70年も経つと、実際に戦争の悲惨さを体験した人達は退場し始めました。この人達は、国家という訳が分からないものに強制動員されたのにも拘わらず、直接的に加害者でもあり被害者でもあったわけです。
そして、変わって台頭してきたのが「戦争を知らない子供たち」なわけで、戦後生まれの自分もその一人です。
かつて、日本の大多数を占めた厭戦的戦争反対者は時が経るとともに退潮を重ね、戦争を”観念”の中だけで考える人が多くなった結果 ・・・

自分が、「戦争のない世界」を理想とするとき、「戦争がある世界」への流れが確実に始まっているのを実感します。
この間の安倍政権のやり方は、”次世代の子供達”にまねをして欲しくない”本音を隠した”欺瞞の多い強引なやり方で”気持ちのよくない方法”です。
 ・ひとつは、悲惨な戦争の体験者が居なくなっていき、厭戦感が退潮していること
  -・これでひとつ歯止めとなっているものが無くなりました。
 ・「安全保障関連法」の成立も、戦争への歯止めを無くす法案です。

”プラハ”が、ソ連軍に蹂躙されて状況が絶望的になったとき、プラハ市民を鼓舞し、深く潜行しながら愛された”マルタ”の歌です。ビートルズのもいいのだけれど、マルタのも擦れた哀愁があり好きです。

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頭の体操をかねて

2015-08-27 21:58:17 | ひとりごと

頭の体操をかねて

ここしばらく、「ときどりの鳴く喫茶店」は休業ぎみ。
マスターは、惰眠をむさぼって、遊びほうけているなどと噂もちらほら・・・
だが実は、マスターは”頭の体操”で大忙しです。

それは、”頭の体操”をかねて開発を続けているStrategyなるものが、完成に近づいているからです。
それはもう、努力を重ね、血と汗と涙はさすがに流しませんが、慎重に注意力を研ぎ澄ましながらの発想と検証の積み重ねなのです。この年になると、アイデアは、泉のようには湧いてきません。脳が、さすがに硬くなっているのでしょう。そんな老化を始めた頭脳を叱咤激励しながらのStrategyの開発だった訳です。

さて、ここで普段の日常会話には登場しないStrategyって一体何だろうと訝しげる人も多いと思います。もともとStrategyは軍事上の戦術とか戦略とかに訳される言葉で、ビジネスとか経営の方針立案の時に、経済的な用語としても使われ始めました。意味は、当初と同じで、経済競争上の”戦略”、”戦術”であります。更に、2002年頃から、金融相場の世界で「システムトレード」というプログラムが開発・発表されました。それから以後に、株、FX、金、商品、為替などの相場に導入されて、今では、Strategyは、株やFXの世界では、当たり前の言葉となりました。

8/21日前後の日経平均のグラフ

ここで、昨今に戻ると、8月20日から8月25日までの株の暴落は凄まじいものがありました。
株を所有している人は気が気ではなかったかと思います。僅か数日で自分の財産が15~20%ぐらい無くなってしまうのですから、ある種の恐怖です。それも底なし沼に落ちるような恐怖です。

コーヒーブレイク

こんな状況下でも、ごく一部の人はこの状況を喜んで・・というと語弊がありますが、チャンスと待っているのも確かです。
このごく一部の人は、逆張りのStrategyを持っているのです。
その「逆張りのStrategy」とは、こんな内容です。
 ----------------------
 買いルール And
  ・終値と25日平均線の乖離率が-25.00%以下
  ・終値と5日平均線の乖離率が-10.00%以下
  ・***
  ・***
  ・***
 売りルール Or
  ・含み益が10.00%以上
  ・エントリーしてから15日以上経過
 ----------------------
このStrategyが使い物になるかどうかは、その「システムトレード」によって検証されています。検証のことを”バックテスト”とも言います。
「システムトレード」で使える過去の株価データは、1990年3月1日から準備されています。これだけの暴落は、一年か二年に一度あるかないかの出来事だそうです。
上のStrategyをバックテストすると、8割の勝利と出てきます。かなりいい勝率です。2割の負け方も見えてきます。
この場合、勝ちより負けの方が大きい金額が普通なので(これも検証結果)、投資の時銘柄を絞ることは危険で、分散型に分配して勝率8割に近づけることが肝心です。
あるいは、もう少しだけ株価が下がる場合がありますが、底値付近ですから直ぐにリバウンドしています(過去の例)。
勝ち方と負け方が分かるということは、底なし沼の恐怖ともおさらばです。
この売買ルール(Strategy)は再現性が確認されており、今回も同じになると信じることが科学的思考法です。

お酒ブレイク

こんな説明で、Strategyがどんなものかお分かり戴けたでしょうか。
「システムトレード」のStrategyは、指標を使って売買ルールを作り、買いと売りが完結する形で優位性が機能する戦略である。この優位性は、株相場の如何なる状況下でも担保されなければならない。ある状況下、ある期間だけ優位性を発揮することを”カーブフィッティング”という。ある変数にだけ異常に反応することを”オーバーフィッティング”という。この両方を回避できたとき、実用に耐えるStrategyとなる。

・・とまあ、こんな訳で、Strategy開発は終局に到達しており、忙しかったわけである。
普段使い慣れない脳みそも酷使して、体は疲れていないが頭は疲れたようである。
それで出来たのが、「強力:3点チャージ」と「BB-out:MM500」の2本のStrategy。
どうも自分は、株取引よりも、Strategy開発の方が楽しいようです。
それで、脳は若返ったでしょうか?少々疑問です。

この2本は、この分野の業界大手「テラス」の厳格な審査に合格し、「テラス」で販売中です。

   クイックすると「テラス」へ飛びます。 → : テラス: FX 日経225 株 システムトレード


ご褒美


京の地図

2015-03-23 00:55:01 | ひとりごと

 :京の地図 

写・京の地図 平安京

京の葬送の地

最近、明の「西行」を読み、また峯八幡の由来で「新羅三郎源義光」を調べて、鳥部野と新羅神社が頭に残っており気にかかっていた。

ある時、京の地図を見ていた。なんとわなしに、‘ボー’と地図を眺めるのはかなり好きである。調べようと思ったわけではない。ただ、鳥部野と新羅神社の位置を確認したかっただけである。

鳥部野は京の葬送の地である。鎌倉、室町の戦乱を思い浮かべて、単純にその頃からの葬送の地であると思い込んでいた。思い込みも激しいが、だが違った。もっと前、平安京の頃かららしい。
京都には、葬送の地は三カ所あるという。

鳥部野(鳥辺野・とりべの)
化野(あだしの)
蓮台野(紫野・れんだいの)

*化野など、地元の人か京都の歴史に詳しい人でしか、読み方を知らない。

鳥部野は、京都東山に位置し、清水寺の背景の山野。
化野は西山・・、蓮台野は北山・・
今でこそ、墓地の体裁を整えているが、鎌倉期までは戦乱の死者や窮乏の餓死者が京中の街角に溢れ、屍が通行のじゃまになるからと捨て置かれた場所なのだ。屍は土を被せるでもなく山積みに置かれ、土に還るのを待つのみ・、肉食・雑食の鳥たちの啄みの対象でもあった。風葬のことである。

写・清水の舞台

清水の舞台は、屍を谷へ投げ込む場所であった。その谷は鳥部野である。時が経ち、清水の舞台は”投げ落とす”から”飛び降りる”という表現に変わった。
その頃、天台宗や真言宗に弔いの思いはあったが教義はなかった。
・・・ 救い難い世相を救済する、は ・・まず埋葬から始まる。衆の安心は、来世は極楽であると言うこと。念仏をひたすら唱えれば、衆すべからく極楽に行ける、と ・・・

化野の入口に念仏寺がある。京都嵯峨野に当たる。法然が念仏道場としたのが発祥である。


京の不思議

京の地図を見ていると不思議なことに気がつく。

写・左京区右京区・京の図

右が左で、左が右なのだ。
地図は、上を北に置くのが約束。
京の中心から右側が左京(区)、左側が右京(区)。逆さまなのだ。
そもそも、平安京を作った人は誰であろうか?その人は、なにを考えていたのだろうか。
平安京は、中国の、唐の都市を模して造られたことで知られる。してみれば唐人が設計したとする可能性が高い。中華思想は中国が中心だとする考え方である。そうすると玄関口は日本海になる。
日本海側から京都を見れば、右は右、左は左 ・・・と言うことになる。

圧倒的に

写・日本海流・半島

古来からの渡来人の日本へのルートは、島伝いに九州へ来るルートと、半島から島伝いに出雲へ来るルートと半島から海流を利用して出雲から若狭までの海岸線にたどり着くルートが考えられる。大量の日本への渡来は、技術文化の伝達のためなどは意外と少なく、主に勢力争いの果て敗残した氏族が、生命の危機を覚えて、丸ごと日本に逃避してきたほうが圧倒的に多いと見る方が合理的だ。その場合、最後のルート、海流を利用したと見ることが一番正確だろう。

兎に角、文明・文化の玄関口は日本海側であることは間違いない。平安京時代以後、京都北に位置する小浜あたりが一番適しているとおもえる。

 

新羅善神堂(新羅神社)

新羅三郎源義光が元服の儀式を行った新羅神社は、滋賀・大津の三井寺の中にあった。新羅神社は”新羅善神堂”という。

三井寺
 ・・・ 天台寺宗総本山三井寺(園城寺):所在地: 滋賀県大津市園城寺町246

写・新羅神社

写・三井寺(園城寺)

新羅神社は、そんなに珍しいものではないが、京都に求めると、やや困難である。それも、神社と言うより三井寺の一社格・仏閣としてあるので、人を惑わす。
これは、神仏習合のなせる所なのだが、なぜに廃仏毀釈を生き延びたのか、その経緯に詳しくない。建築様式的には流造の神社本殿。何故にこのように複雑かは不明。
三井寺の由来を見て見ると、源氏の源流が少しだけ垣間見えてくる。

 


猪瀬直樹が再び作家として ・・

2014-12-18 11:34:46 | ひとりごと

猪瀬直樹が再び作家として ・・

「さよならと言ってなかった  ・・わが愛 わが罪」マガジンハウス・\1300+税;10月30日刊

 

その前に、メールマガジンを配信して頂き、「断章 妻ゆり子の思い出」を全20章、自分としては、かなり丹念に丁寧に読んだつもりである。
発刊本は、「断章 妻ゆり子の思いで」に、「第三章 走り抜けて」を追加して構成し直している。

猪瀬の若い頃を知っている自分としては、道路公団民営化の辺りからマスコミに登場するようになるが、この間が自分には空白であった。この空白の期間の瀬の生き様を、メールマガジンと今回の発刊本は空白の穴を埋めてくれるようであった。そこには、自分の知らなかった”瀬”の生活があった。

いい内容である。

いくぶん傲慢であると見られていた”瀬”の、心情の吐露の様子は、あの時の周囲からの全面砲火に耐えて、無二の理解者への思いに馳せていく。
そして、ゆり子さんと歩いた足跡を辿り、苦楽を共にした記録を思い起こしながら記述していく。 ・・・ここには、あの”傲慢”も”高飛車”もない。マスコミに露出していた“瀬”とは別物のようだ。
 ・・・ 実は、この”傲慢”でも”高飛車”でもない、“瀬”の側面は、むかし知っていたような気がする。何時の頃からか、突っ張って”ディベート”をするようになっていった。 ・・・そうか、奥さんのことを書く時に、鎧は要らない、鎧を脱いだのか ・・?

ただ、”傲慢”でも”高飛車”という評価は、多くは部下である都庁職員とか、出版社の直接担当者の具体的イメージのようである。このことは、余りいい事ではない。いい事ではないにしても、瀬が行った業績のへの評価とは関係が無い。”傲慢”と”高飛車”という一般的には負の人格評価へのマスコミのミスリードが、瀬の行った業績の評価を汚していったように思う。

そして ・・・
「第三章 走り抜けて」
この章は、メールマガジンの「断章 妻ゆり子の思い出」に、追加された章 ・・・
この章には、徳州会病院の徳田虎雄理事長からの献金問題の経緯が詳細に記されている。あの時、疑問に思っていたことを答えてくれているだろうか、と気に掛かり、読みました。

というのは、1月の始めに瀬の5000万円疑惑について”ブログ”にアップしている。
以下がその時のブログ ・・・
○猪瀬直樹 ism      2014/01/07
○猪瀬直樹 ism 最後に・・ 2014/01/15
この二つの間にもブログの書き込みはあるが、それは瀬の著作から、瀬の考え方の骨組みを考察してみた内容で、疑問に思うことは最初と最後に集約させてある。
その時の疑問と疑惑は、解消できたのであろうか。

その時の疑問・疑惑に対して ・順不同

*1:「・・・初めての選挙と言うこともあり、資金面で不安もあり、5000万の金を借りました・・・使った言葉は、正確には覚えていないが、要旨はこの通りだったように覚えています。
・・このことは、正しいか否か別にして、納得出来る説明でした。
要するに、あまり金の掛かるような選挙はしてこなかった。
・・そうすると5000万の金は使わずに済みます。準備した3000万の金も余ったのかも知れません。猪瀬氏の最初の会見を思い出します。」
 ==>概ね、想像した通りの内容でした。違和感はありません。それで罪状があれば甘受すればヨシ。特に瀬に”聖人君子”を望んではいません。

*2:「猪瀬氏支持の関係者に挨拶回りの時、徳田虎雄に挨拶に行った・・何故?」
 ==>徳田虎雄との、利権がらみの”贈収賄”なんて、当初から瀬がマスコミに登場してきた経緯をみれば、あり得ないことだと思っていました。”贈収賄”は、瀬の生き様と合いませんし似合いません。

*3:「猪瀬直樹の判断基準は、ウェットな面を持った近代合理主義者」
 ==>この判断は昔も今も変わりません。

*4:「未だよく分からないのが、彼の政治的主張のスタンス。少なくとも石原慎太郎のもとで副知事をして、そこから政治家猪瀬直樹が生まれたこと。こうしたエッセーへの、いくつかの共感と石原慎太郎は、どうも結びつかない」
 ==>この部分は、いまだによく分かりません。たぶん”ナショナリズム”のとらえ方の部分だと思いますが、石原慎太郎と瀬では、でてくる決断が違ってくるように思えます。石原を評価している部分と違う部分を、どこかの機会に顕かにして欲しいものだと思います。
 ・・・瀬の方が、もう少し合理主義的かな ・・。その意味で、橋川文三はよく分かります。

*5:「時折走ることのある高速道路の、最近のサービスエリアは、昔のと全く違ってきました。場所により”コンビニ”もあります。おいしい”パン”も焼きたてです。この頃は、ドライブ疲れの”休憩所”から、エリア内のしゃれたショップ目的の方も多いと訊きます。道路公団民営化のあとの競争の原理が働いて進化しているように思えます。恐らく、経済的規模も、昔とは比較にならないくらい大きくなっているのでしょう。これは、明らかに猪瀬直樹のお陰でしょう。猪瀬氏本人が言えば、自慢話で嫌みになりますが、ほとんどの人がそう感じていると思います。」
 ==>最近、地下鉄で携帯が使えるようになって、大学生や高校生が喜んでいます。例えばこれも瀬の功績なんでしょうが、これは時代の流れなので、他の人が知事でも同じことをやったのかも知れません。しかし、東京都の発電所の計画は、”瀬的発想”の賜のようにも思えるのですが ・・・。他にもあるが割愛 ・・


瀬が、5000万円で知事を辞めて、50億の費用をかけて選挙を行い、新しい都政になりました ・・・。
上記では、5000万円が”たわいもない”単純ミスで、褒められたことではないのは確かですが、”鬼の首”でもなさそうです。そして ・・・・・都政は良くなったのでしょうか。
”鋭い切り込み方”のない、この歯がゆい現実を見ていると、もどかしさを感じて複雑な心境です。
 ・・と言っても小生は都民ではありません。

読み通してみると、あの時の疑問に、ほぼ答えてくれているようです。

もとに戻って ・・・
「さよならと言ってなかった  ・・わが愛 わが罪」 再び言います。いい内容です。
「ゆりこさん」へ、冥福を祈ります。


追跡 ・・・その後の○○

2014-11-22 13:59:52 | ひとりごと

追跡 ・・・その後の○○

1:坂戸市・「島田橋」が復旧の目途

越辺川は、度々氾濫するのだろう。荒ぶる「水神」を鎮撫するための石碑なのだろう ・・・。

類する石碑の中に、庚申塔の碑は存在しない。この地方の、かっての最大の関心事は水害であったようだ。

 

6月の流失以来、冠水橋(=沈下橋)の残骸は、今日も骨組みだけを晒していた。

 

  ・・・ 2014/9/13 日本経済新聞Web刊より抜粋
 「地元の人々の尽力で以前と同様の姿に決まり、関係者は『風景に溶け込み、江戸の趣を伝える橋。スクリーンで再び輝いてほしい』と期待している。 ・・・ 再建費は約6800万円。年内に着工し、来春完成の予定。再び流されないようワイヤを通して強化するなどの対策も検討されているという」

これを読むと、一番の渇水期の12月に工事を始めて、来年の2,3月頃完成の予定と読み取ることが出来る。

橋の姿は、”以前と同様で、風景に溶け込み、江戸の趣を伝える橋”と言うことになっているらしい。


2:”たたら”の痕跡 ・・・砂鉄はあるのか

砂鉄の存在 
  ・・・ 越辺川と原市沼川の場合

越辺川沿いに、坂戸市赤尾という場所があり、赤尾に金山彦神社がある。以前からこの場所は、”砂鉄”の採取場ではなかろうか、という仮説を立てていた。
伊奈町・小室の県立がんセンターの敷地内に”大山遺跡”があり、ここで県内最大の”たたら”が発見された。”たたら”は、昔の「製鉄所」であり、たたらの近くに砂鉄の河床があったのではないかと仮説を立てた。もっと大規模に、鉄の鉱床かも知れないと・・・。大山遺跡の近くの川は、原市沼川である。

そこで、機会があれば、この二つの川から、砂鉄が採取できるかどうかである。
砂鉄の採取には、簡単には磁石にくっつけてとる方法がある。

方法:
1:磁石を用意する。
2:磁石に、直に砂鉄が付かないように工夫する。
3:磁石に、ビニール袋を2重に用意して、
4:河原の砂場(なければ砂利場)を地面に付けて引きずる。
5:この際、やり過ぎは袋を擦り切り破れるので、10mぐらいか、引きずってみる。
6:採取した砂鉄を、袋を裏返して収納する。


この方法で採取した砂鉄?
A:越辺川・赤尾付近
B:原市沼川・大山遺跡付近

越辺川の場合:-----------------------------------

 

金山彦神社 周辺 ・・・

越辺川

砂鉄?

原市沼川の場合:-----------------------------------

 

遠くに新幹線が見える。 原市沼川

砂鉄?

磁石に付くのだから、鉄成分であることは確かだが、砂鉄なんだろうか。
鉄鉱石の砕粉瓦礫のような ・・・

これを、”砂鉄”の採取場とか”たたら”と結びつけるには、コストパフォーマンスの問題を解決しなければならない。
水流比重選別法 ・・・鉄の重さで、より上流に鉄は沈殿し、それより軽いごみや岩石などは下流に流れる。
これが、自然の川では、砂鉄の河床として積み上がり、純度90%の砂鉄鉱床となる。
出雲・斐伊川では、白茶けた河原と黒ずんだ砂鉄鉱床は、一目瞭然であることを写真で見たことがある。
水流比重選別法を使えば、越辺川と原市沼川はどの程度鉄分が取れるのだろうか。興味はあるが、そこまでの実験はしない。

 


浦和レッズ 大原サッカー場&酒蔵”力”

2014-11-03 19:37:31 | ひとりごと

浦和レッズ 大原サッカー場&酒蔵”力”


Jリーグ ・・・ 今年の”浦和レッズ”は、現在一位。優勝できるかも知れない位置にいる。
久しぶりに、レッズの大原の練習場まで、散歩の足を伸ばした。
あの時は、福田が引退前の現役で、小野もいた。練習場には、高校生らしき乙女達が屯し、
小野の練習の”一擧一動”に、”きゃっきゃ”騒いでいたのを思い出す。
あの時、福田や岡部は、練習場にはいなかったように思う。
大原サッカー場は、あれから、暫くぶりである。今の選手は余り知らない。


大原サッカー場


残念ながら、本日は、練習場に人影はなく、”close”状態。


大原サッカー場は、見沼用水東縁水路に面し、見沼たんぼが隣である。

 

 
大原の地籍は浦和だが、大宮との境界に位置し、大宮に出島のように突き出た場所。
勿論本拠地は、駒場スタジアムだが、埼玉スタジアムでの試合が多い。
浦和レッズの前身は、三菱レッズダイアモンド、・・三つの赤いダイヤが名称の起源。

酒蔵”力”

この写真は、酒蔵”力”の倉庫兼仕込み作業所のシャッターに写真です。

酒蔵”力”の浦和(本)店は、有名な、”レッズファン”の集う酒場です。


たぶん、他の居酒屋・”力”もレッズファンの店でしょう。

まだ、Jリーグが出来る前は、確か居酒屋”力”の”お通し”は大量のキャベツであったような?とにかく安く飲めるので混んでいた!
昔は、浦和伊勢丹の裏に一店舗だけ有ったが、つの間にか、八店舗に増えている。
居酒屋”力”の営業努力の結果なのか、それともレッズとレッズファンの力なのか。

今年は、優勝できるかも知れない ・・・ 昔のレッズファンは気に掛かる ・・・


飯田線 慕情 6  Ω・・オメガ・・の路線

2014-09-03 15:55:52 | ひとりごと

飯田線 慕情 6  Ω・・オメガ・・の路線

Ω・・オメガ・・の路線 下山ダッシュ

飯田線は、隣接駅間の間隔が短い。およそ2Kmが普通。首都圏の山手線や京浜東北線、あるいは私鉄線鈍行の駅の間隔をイメージすると分かりやすい。普通の中距離線・地方線は、大宮・浦和・赤羽ぐらいの間隔であるそうだ。それに加えて、山中を走行するので、カーブ、勾配がきついと来ている。特に飯田市を走行する時、大きなΩ・・オメガ・・カーブというのもある。

Ω・・オメガ・・カーブ

伊那上郷←→桜町←→飯田←→切石←→鼎←→下山村←→伊那八幡←→

伊那上郷-.-.-.-.下山村の路線距離:約6Km
伊那上郷-下山村の直線距離:約2Km
この伊那上郷・下山村間の電車の所用時間は約18分かかる。さらに飯田駅では待ち合わせで、2分から8分ぐらい停車している。

  

下山村駅        飯田駅       伊那上郷駅

*下山村 ・・・明治・大正時代に存在した村。その後鼎町と合併、鼎町は飯田市に併合される。駅名は、鉄道敷設当時の駅名がそのまま存続した。 ・・・らしい。

伊那上郷駅を最寄りの駅にする高校の生徒で、伊那八幡駅以南に住む韋駄天野郎は、寝坊して通学電車を一本遅れてしまった。そのまま、いつものように伊那上郷まで行って登校すれば5分の遅れになってしまう。韋駄天野郎は、ここで考えた。足には自信がある。下山村で降りて、直線に高校へ向かって走って行けば、遅れずに間に合うのではないか。そこで実行してみた。間に合ったのだ。遅れずに登校できたのだ。
なお、この高校と伊那上郷駅は走って5分ぐらいである。理論上は、韋駄天男子が、下山村駅で降りた電車に、走って行けば、伊那上郷駅で再乗車が可能である。
このルートは、自転車通学の時時々使っていたので馴染みがあります。流石に、走った経験はないのですが、地理を熟知しておれば、珍しくも何ともありません。松川という川を、永代橋で渡るのか、新飯田橋で渡るのか、で多少ルートが異なりますが、所要時間の差は大してありません。自分が多く使った御殿山坂ルートは永代橋ルートの方ですが、バスを使って新飯田橋を渡ったところで降りて、上郷にある高校や駅に向かうという方法もあります。

「下山ダッシュ」という言葉が、一部で急に流行始めました。
「下山ダッシュ」は、一種のエクストリームスポーツで、「エクストリームスポーツ」と は、速さや高さ、危険さや華麗さなどの「過激な(extreme)」要素を持った、離れ業を売りとするスポーツで、下山駅を出発点とし、伊那上郷駅が着地・終点で、下山駅を降りた時の電車に、再度乗り込むことが出来るか、という、飯田線の、Ωルートのトリックを使った
遊び要素のスポーツ?です。本当はトリックでも何でもないのですが・・・
坂道で、目的地まで高低差が約70mあります。長距離陸上選手なら、2000mの距離は10分以内で楽々でしょう。しかし凡人には、間に合うかどうか微妙なところが受けて、挑戦する人が増えたと言います。

「究極超人あ~る」・ギャグマンガ

”激闘!飯田線 ―電車に勝負を挑んでみる”
「下山ダッシュ」の言葉を生み、はやらせた初見は、「少年サンデー」という漫画雑誌らしい。ある時期、少年サンデーに「究極超人あ~る」という漫画が掲載され、究極超人あ~るのOVA版であ~る達が下山村駅で下車して、伊那上郷目指して走り、追いついたというストーリーであった、という。 後に鉄道誌「旅と鉄道」や関西の人気番組「探偵ナイトスクープ」でも取り上げられ、「下山ダッシュ」は漫画愛好家の中で全国区になった、という経緯である。

勿論、地元では、「エクストリームスポーツ」でもなんでもなく、日常の出来事の一つである。

飯田線は、ますます通学電車化が進んでいます。長閑な田園風景が車窓に広がりますが、通勤で使う人は、ますます少なくなってきています。まして、用事で遠方に出かける時に、飯田線を利用する人は、ほとんどいません。
リニア新幹線乗り入れの効果で、飯田線の乗客が増えるといいですね。