ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

:10-1:会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?

2025-01-12 13:51:44 | ひとりごと

10:むかしの「松本」?


:10-1:会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?


・松本から北方、会田という所がある。街道筋は、古い町並みが残る。
・・1955年4月1日 - 嶺間4箇村と呼ばれた錦部村・中川村・五常村・会田村が合併して発足。
・・2005年4月1日 - 松本市に編入。同日四賀村廃止。

保福寺峠


長野県松本市と上田市の境にある、松本盆地と上田盆地を隔てる峠。律令時代の東山道が通る、重要な交通ポイントであった。 なお、近隣の地籍である保福寺は「ほふくじ」と読むが、峠の名前は「ほうふくじとうげ」であり、誤って「ほふくじとうげ」と読まれることが多い。
峠の南東側の小丘には、「ウォルター ウェストン 日本アルプス絶賛の地」の石碑がある。


 

 つまり・・飛騨山脈を「北アルプス」と命名した「言われ」の場所なのだ。
お陰で、「アルプス」的でない(と私は思っている)南アルプスと中央アルプスが、相対的位置関係の理由で、名付られてしまった。赤石山脈と木曽山脈は、隆起型で、つまり左右から圧力がかかり、山谷山谷山と皴のように凸凹し、赤石山脈、谷(川:小渋川と三峰川)伊那山脈、天竜川、木曽山脈と連続するわけで・・・山脈は、大概急峻でもなく、深くて長い山林を頂上付近で抜けると、つまり森林限界を越すと、お花畑と雷鳥に出くわすわけで・・・この森林限界の標高は、美ヶ原や霧ヶ峰や菅平と比べて極めて高いわけで、「赤石山は巍巍として」とは、到底思えない。さすがに頂上付近は、風雪で、岩肌の様だが・・山脈は、南北に連なるが、北端に、糸魚川−静岡構造線断層帯が、直角に遮るように走る。断層帯は、仁科三湖、諏訪湖、富士川と連続して、山脈の北端近辺の山容風景を険しく変容させる。「鳳凰三山」だ。この山は、若干岩肌が激しい。


 
さて、この山脈と構造線断層帯が交わる付近の特色は、古代地層を「露頭」するという。花崗岩地層は、積年の酸性雨と劣化で、ひび割れ・雨の浸透、氷結により割れ目の拡大、劣化を繰り返し、川が山肌を削っていく。「釜無川」はそのいい例で、削り取られた砂岩が川底を厚くして、洪水氾濫が起きやすい地域に変えていく。「白洲松原」は、花崗岩の石英部分が白浜を形成する。
露頭が多い」ということは、信玄の「金山」がこの地に集中しているということと無関係ではなさそうだと判断する。
そういえば、「安部川もち」の語源となった「砂金」もあながち「うそ」でもなさそうな気がする。源流は、この山脈の北端・・・.


 さて、題材が、「会田・保福寺」から離れて、「アルプス」の逸れたので戻す。「アルプス」は、まあ・私の感性の話なので、他人が「南アルプス」というのを拒否するつもりもないが・・
少し話がそれたので、もとへ・
保福寺川は、断層沿って流れる。断層は、古代の地層を「露頭」する。この古代の地層から、「シガマッコウクジラの化石」の骨が発見される。

 

会田、会田宿、あるいは「会田御厨」?

「会田御厨」


・厨・・調理をする場所」新見
・御厨・・神饌を調進する場所のこと:神の台所
   ・・伊勢神宮の「食物」等を調達する荘園を意味する場合が多い
・「会田御厨」会田盆地に存在した伊勢神宮の荘園。中心に、伊勢神宮系の神社「神明社」が存在する。伊勢神宮系の神社・神明社は「農耕の神を祀る。


歴史


古代の筑摩郡錦服郷の地にあたる。鎌倉時代の嘉暦4年(1329年)の「諏訪上社頭役注文」が初出で、通常は伊勢神宮の神領が諏訪大社の祭礼に勤仕することはないが、会田御厨では信濃国の諸荘と同様、地頭の海野信濃守入道が頭役を務めている。また『神鳳鈔』には「会田御厨70町」とあり、鎮守の会田御厨神明宮もこの時期に創建されたとされる。
戦国時代には武田氏の支配の下、青柳頼長の所領となっており、永禄9年(1566年)の『諏訪社上社造営再興次第』には「会田御厨五ケ条」として刈谷原、明科、塔原、会田、多沢(田沢)の5か村が挙げられている。天正7年(15年)の『上諏訪造営清書帳』では「会田之郷」として造営役500貫文を負担している。同9年(1581年)には内宮御師の宇治久家が訪問(『信濃国道者之御祓くばり日記』)、武田氏滅亡後の同10年(1582)年には、頼長によって伊勢神宮に寄進された.

 


・・
村の西端に伊勢神宮内宮御厨の会田神明宮が鎮座している。この地は古代の錦服にしごり郷、中世の会田郷、近世の会田宿のあった所で、松本藩領会田組の中心地である。
会田御厨の成立は鎌倉時代初期とみられるが、「神鳳鈔」に「内宮、麻績御厨八ケ条、内宮、会田御厨七十町」とあるところから麻績おみ御厨の後の成立とみられ、鎌倉時代の初期に小県ちいさがた郡の海野氏が地頭としてはいってからと思われる。「神鳳鈔」記載例や、両者が内宮の神官荒木田家の所領となっていることなどから、麻績御厨とは深いかかわりをもっていたと考えられる。
荘園」なので、伊勢神宮への「奉納・貢物」が何かと興味がわきます。


「神鳳鈔」(=伊勢神宮の御厨のことを記載した記録帳)に、麻績御厨のことの記載があり、『神鳳鈔』には「麻績御厨八ケ条」とあり、本家の内宮への神貢(供祭上分料)として、「鮭150隻、同児1桶、搗栗1斗、干棗1斗」等を納入し、領家の内宮禰宜荒木田元雅には口入料として、「六丈布60端、四丈布16疋、鮭30隻、同児1桶」を負担していたことがわかる。」とあります。


恐らく、麻績御厨と会田御厨は、近在で、犀川右岸も同じであり、禰宜・荒木田氏も同じであることから、量(規模)こそ違えども、上記同様の神貢(供祭上分料)が想像できます。


つまり、室町時代以前には、犀川に「鮭」が上ってきており、麻績川や会田川・保福寺川では鮭の捕獲が一般的であっただろうということです。


旧地名や、残存の地名の錦織」とか錦部」をみたり、麻績」の謂れを考えると、この地方は,麻の栽培が盛んであり、麻布の機織りの帰化人がいた可能性があります。
それにしても、どうやって、伊勢神宮まで運んだのでしょうか・・・興味があります。

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「松本」学、あるいは「松本」考:9 :9-3:「武田」が「信長」に敗れたとき・・

2024-09-17 19:47:35 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?

:9-3:「武田」が「信長」に敗れたとき・

井深氏・・

『信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏.井深氏らが小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている。

上の文章は、松本市の公式な見解の記述であるのだが・・・
なんか変である。


普通、戦に負けて降参すると、領土を保全されて安堵され、「先方衆」として勝者の軍に配されるのが、戦国時代の一般的な習いである。なのに、以後に「井深氏=(後丁氏)」の名前は当時の府中から消えているのだ。

「謎」を深堀してみると、「信府統記」という古書があり。ここに「赤沢氏」の記述がある。
信府統記・赤沢氏・『後ニ井深ノ城主後庁大蔵ヲ攻落シ、彼領地ヲ以テ是ヲ武田家ヘノ忠節トセリ』赤沢氏が伊深城を攻め落としたとの事。だから『赤沢ガ為ニ没落セリ』
とある。


『信府統記』(しんぷとうき)は、信濃国(長野県)松本藩主・水野忠幹の命によって、家臣で学究の武士であった鈴木重武と三井弘篤が著述・編纂され、1724年(享保9年)12月に完成した、同藩内および信濃国内の地理・歴史を記述した書籍(地誌)である。

この書の「記述」を確認すると、全般に「精緻」であり「客観的」であり、ほぼ信頼に耐えうるものとしてみることができる。ただし、松本・水野藩についてだけは多少疑いを持つことにしている。学究の武士であった鈴木重武と三井弘篤が清廉潔白な人であったことは、疑うべくもないので「フェイク」は無かったにしろ、不都合は書かなかったかもしれない、という疑念が多少残る。これが、古書に対する態度である。「信長公記」や「太閤記」や「東鑑」は、疑念の多いことが多々ある。


この、一見矛盾しているように思える二つの文章は、本当に矛盾しているのか?


武田信玄が信濃に進出し,天文 19 (1550) 年諸城を攻めるに及んで林城を捨て,村上義清と同盟して平瀬城に拠った。翌年,信玄が深志城に進出,平瀬城を落し,さらに長時方の中塔城,小岩岳城,苅屋城などを攻略したため,同 21年 12月,越後の上杉謙信のもとに逃れた。

上記の文章は、塩尻峠で「信玄」に敗北して以来の、「小笠原長時」を詳細している。つまり、「小笠原家臣団」すべてが、「塩尻峠の戦い」で敗れて、自落している訳ではないということ。長時に味方して、擁護した豪族は、平瀬城主:平瀬氏、中塔城:二木氏、など複数いたのだが、再度信玄が出陣すると聞き、支援していた村上氏が軍勢を引き上げるのに臨んで、落城を決意したと思われる。
1552年、中塔城:二木氏とともにあった「井深氏」は、「赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている」に繋がるわけで、時系列的解釈では、早々と自落した稲倉城:赤沢氏に、手薄を好機とされて、侵略されたと解するのが合理的と思う。


以後の「井深氏」については、武田勝頼が信長に負けて新府(韮崎)を逃亡するとき、井深宅右衛門(重吉)に人質の身であった「保科正光」を保科陣まで救出した」という記録まで動静は不明である。
恐らくは、「大日方家」の家中として過ごし、武田家へも奉公したものと思う。

保科正俊・・


ここで何故槍弾正か?
武田氏の信濃先方衆(120騎持)。特に槍に優れた使い手であった。三弾正:高坂昌信「逃げ弾正」、真田幸綱「攻め弾正」、保科正俊「槍弾正」。高遠城城主


「保科正俊」の違う角度の見方・・「大日方氏」は正俊の娘婿、後に、孫の「保科正光」は真田昌綱の娘婿、さらに「川中島の戦い」で「真田昌綱」の窮地を救ったのが「保科正俊」という関係が見えてくる。ここには、信玄の先方衆同士の信頼関係が見えてくるのは私だけか?さらに、「保科正光」には息子がなく、養子を「大日方氏」から迎えていたが、将軍:家光の弟・正之を養子に迎えるという皮肉が起こった」という事実もある。


「井深氏」は、「赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている」と前章で書いたが、大日方氏傘下になった「井深氏」は、当然ながら「大日方氏」と「保科氏」の関係を知るわけで、「井深宅右衛門(重吉)に人質の身であった「保科正光」を保科陣まで救出した」という経緯に至り、その後「保科正光」の側近となり、やがて会津:保科/松平藩の家老に至る道筋を見ることができる。
とにかく、「信濃府中」消滅の因に、「赤沢氏」が関わっていることは確認できたわけで・・


topix -----
この「井深氏」の末裔に連なる、「ソニー」創始者:井深大氏は、松本・岡田で、自らの出自に関して、スタッフを動員して調査を行った。その調査結果を、地元・岡田公民館で行ったようだが、「調査結果」は封印して、「社外秘」とした

何故だろう・・
私が考察した以外に、まだ何かがあるような気がする。・・・知りたい。

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「松本」学、あるいは「松本」考:9 :9-2:「信玄」の松本支配まで

2024-08-31 18:27:08 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?

:9-2:「信玄」の松本支配まで


信玄は、「塩嶺峠」で「小笠原」を破り、松本平を支配するに至った。支配する拠点は、小笠原家の陣屋のある「井川」でも「林城」でもなく、支城の一つであった「深志」城であった。


松本平は、盆地である。

三才山を発祥とする「女鳥羽川」は、まず「田川」と合流し、次いで、木曽を源流とする「奈良井川」と合流する。美ヶ原を源流とする「薄川」も「奈良井川」と落合する。その「奈良井川」は飛騨山系を下流とする「梓川」と合流して、「犀川」を名前を変え善光寺平へと繋ぎ、千曲川と合流して、「信濃川」という大河に名称が変わる。この奈良井川と梓川の合流地点は、昔は「深瀬」と呼ばれる湿地地帯であった。「深瀬」は、いつの間にか、なまりで「深志」と呼ばれるようになった。

「深瀬」は、島状な状態の台地を有し、この場所は「犬飼島」と呼ばれ、平安末期に、朝廷より「国衙」を仰せつかった「犬甘氏」が陣屋を作った。この「犬甘氏」(いぬかいし)は、「山家氏」(やまべし)と同様に、予備知識がなければ、到底正解に至らない「難読文字」の例である。


この府中に、建武の新制に、なびかぬ者として、北条得宗家の御身内とされる「諏訪神族」と北条得宗家の「「村上一族」を筆頭とする「御家人」衆があった。これらの反旗をなびかせる者たちの「鎮撫」に足利尊氏から「小笠原貞宗」が信濃守護として宛がわれたのである。


府中は、なびかぬ者たちの橋頭保であった。そこの相対的首位の豪族は、国衙でもあった「犬甘氏」であったが、従順に受け入れたようである。「小笠原貞宗」は、当初蟻ケ崎の脇の城山に「陣屋」を構え、三男で、名跡:継がせた坂西氏を深志支城に置いた。後に、自らを「井川」に移し、城山を「犬甘氏」に返したようだ。深志城は、水運の集結地で経済の要地なっていった。


こうして、「犬甘氏」と「井深氏」を自軍の中に取り込んで、わずかに機能する国府を残滓として、名ばかりの「府中」を存続させた。名ばかりの・・・というのは、この地方の治安の面は、確かに府中「小笠原家」だが、貞宗の後は、連続しての「守護職」を外されているのだ。ここに、「小笠原家」の三家抗争・内訌が潜んでいる。


このようにして、府中は、小笠原貞宗の武力をバックに、後丁氏の存在を、かすかな機能の証として、地名としての担保を得ていたのであったが、・・・


ついには、隣国の、巨大化する甲斐「武田」信玄に、小笠原長時が敗れ、府中を追放されたのであった。居城の林城を取り囲むような家臣の「山城」群は、ほとんどが戦わずして自落し、長時は、自分の城にたどり着くことも能わず追放されたのであった。


「府中」の名実の喪失である。その後、多少期間、「府中」の呼び名が続いたとしても、それは悲しい残滓の記憶である。


当然ながら、「信玄」は、松本平(その時は、この名称はない)の経営の中心を「深志城」において、馬場長春に「縄張り」をまかせ、後に、松本平の経営を「工藤源左衛門尉」が引き継ぎ、後に、工藤は「内藤修理亮昌秀」と改名している。

深志城の「石垣」や「天守閣」は次の時代の産で、ここでは、度々水害を起こす河川の治水が主で、女鳥羽川、薄川、田川、奈良井川、梓川の治水に「甲州流」がもち入れられたという説があるが・・・確かではない。

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9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか? :9-1:府中消滅の因

2024-08-18 16:48:43 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?


:9-1:府中消滅の因


『仮説ですが、井深氏の祖先:井深勘解由左衛門は、国府の「文官」だった可能性が高く、井深氏の屋号が「後庁氏」だという説も可能性が高い。』-----


国府の役割は?-----奈良時代から平安時代に、令制国の国司が地方統治のための役所として拠点とした建物。国庁(政務・儀礼を行う政庁)。


時がたち、甲斐の信玄が、膨張政策を極めてくると、当然に府中・小笠原家と衝突するようになる。.


『天文14年(1545年)に晴信は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、高遠城を陥落させ、福与城の頼親を、龍ヶ崎城を陥落させる。武田勢は伊那を制圧すると、小笠原長時は村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡へ侵攻するが、塩尻峠で武田勢に敗退している(塩尻峠の戦い)。』
『林城の戦いは、武田晴信と小笠原長時の戦 ---天文17年(1548年)塩尻峠の戦いで小笠原軍に大勝した晴信は、天文19年(1550年)信濃国の松本平に侵攻。遂に長時の居城である林城の攻略に乗り出した。支城の犬甘城が落ちると、深志城、岡田城、桐原城、山家城の将兵は雪崩をうって逃亡。長時はこれを知ると、林城を捨て平瀬城に移り、その後信濃国の豪族村上義清を頼って落ち延びた。一連の戦いにより、晴信は筑摩郡を平定した。』


上記は、府中小笠原家・当主小笠原長時の、府中追放の過程であるが、追放の過程を、ことさら追うのが本意ではない。長時の居城・林城を、防衛線の如く取り囲む山城がいとも簡単に落ちたかが肝要である。それも、塩嶺峠の戦いの後、瞬く間の出来事であったようだ。しかして、長時は、居城・林城に戻ることできずに追放、落ちていった。
それは、防御線を構成する山城(林城の支城)の幾つかが「調略」により信玄の側のついたのではないか、と仮設される。


:保科正俊のこと


保科正俊の三代前・易正は、熊倉と関係があった、という説がある。熊倉は、生坂村の隣村である。春日神社の神官をしていた「熊倉」(藤原)家だそうである。また、生坂の大日方氏は、当時「武田」の側にあり、保科氏や真田素と同様に、武田軍の「先方衆」と呼ばれていた。大日向氏は、保科正俊の娘婿の関係、保科正光の妻は真田昌幸の娘という関係・・・
『信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏.井深氏らが小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている。』

「調略」---

もし、「調略」があったとしたら、調略した方・保科正俊、された方・井深氏 ・・・大日向氏はそれに噛んでいた・・  なんて」仮設。

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何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?

2024-08-04 17:58:14 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9

9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?


松本に関わったものは、「何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?」と疑問に思うことが多い。殊更に、「長野市」と対抗意識が強いわけでもなく、不満不平があるという訳でもないのだが・・・ 人口の規模」、歴史的背景」、県内のほぼ中央という地理的条件」など、「県庁所在地」たるに足る条件をそろえているように思えるのだが・・・なぜなのだろうか?


疑問である。
歴史を振り返ってみよう・・・


『1871年(明治4年)、廃藩置県により松本藩は松本県になった。その後、松本を県庁所在地とする筑摩県が成立。1876年(明治9年)には、筑摩県庁の焼失により、長野県に編入された。』
なんか、成行ですね。


歴史は繰り返すというか!、過去にはこんなことがありました。
-----、松本が「府中」と呼ばれていたころ、国府は女鳥羽川沿いにありました。今の「サッカー場」と「総社」の間辺り・・・ところが洪水で、国府は水没してしまいます。時期は、鎌倉期初期とされています。その時、緊急避難ということで、善光寺脇に、「後丁」として「国府」を避難させました。長野市に、後丁(後町)という町が今でも残っています。
ただし、善光寺後丁(後町)を国府として、無理やり機能させたのは、大塔合戦(大文字一揆)の前の短期間だったとされています。それ以前も以後にも「機能」の実績がありません。


大塔合戦 -----


『大塔合戦とは、応永7年に信濃守護小笠原長秀が、村上氏・井上氏・高梨氏・仁科氏ら有力国人領主及び、それらと結んだ中小国人領主の連合軍と善光寺平南部で争った合戦。守護側が大敗し、以後も信濃国は中小の有力国人領主たちが割拠する時代が続くことになる』
『室町時代初期に信濃国で起きた大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁ー御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。』


鎌倉初期、緊急避難した「後丁」は、府中へ戻っています。「井深後丁」です。


松本にあった県庁は、また戻ってくる日があるのでしょうか?


仮説ですが、井深氏の祖先:井深勘解由左衛門は、国府の「文官」だった可能性が高く、井深氏の屋号が「後庁氏」だという説も可能性が高い。

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ひとりごと・・

2024-08-03 10:20:27 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:8

8 再開に向かって 

 

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「松本」学、あるいは「松本」考:7  トピックス2

2023-09-04 14:08:21 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:7

7:トピックス2

古(いにしえ)は神社由来より・・・

浅間温泉の温泉街の上の方に神社がある。国道254号線の三才山トンネルの手前にも神社がある。また、美鈴湖を少し上った、美ヶ原の高原の中にも神社はある。御射神社という、・・らしい。

名前が「みさじんじゃ」といい、祭祀の様式が、キリスト教の「ミサ」に似ていることから、一説に「大陸高原の遊牧民」からの伝承の神社という説も、秘かに受け継がれているが・・・確証に乏しい。

正式名称を見てみよう。浅間温泉の上にある神社は、「御射神社春宮」、三才山トンネル近くの神社は、「御謝神社秋宮」、美鈴湖上の美ヶ原にあるのは「御謝神社奥宮」と呼ぶらしい。松本・岡田の地方誌の伝承によれば、鎌倉初期に、浅間郷の地頭であった「赤沢氏(=小笠原氏の傍流)」が稲倉城にいたころ諏訪から勧請したという記録が残るという。

だが、源氏の流派を標榜する赤沢氏が、独特な祭祀の様式をもつ御謝神社とは、どうも馴染まない。源氏であれば、「八幡神社」がほぼ氏神のようで、戦の神:諏訪神社でもいささか都合が悪い。

それでは、御謝神社の御神体を見てみよう・・・・・

御祭神・・諏訪明神(建御名方神・大己貴神・高志沼河姫神) 国常立命

建御名方神 ---・たけみなかたのかみ / 大己貴神 ---・おおなむちのみこと

そして、御謝神社は、諏訪神社のお狩場でもあるそうで・・・

御謝神社のある山は、所を変えることにより、御社山・御斎山・三才山とも呼ばれるが、「言い」のもとは、どこも「ミサ」であることは間違いなく、このことが美ヶ原や霧ヶ峰を「神の高原」とかんじさせる「ロマン」の源と思わせる。そういえば、連続性だけは認識しているのだが、美ヶ原や霧ヶ峰の境界は、いままで全く意識していたことはなく、ヴィーナスラインのカーブラインだけを覚えている。七島八島湿地は、諏訪大社の「お狩場」の聖地・・・

御謝神社の御謝は、どうやら「ミシャグジ」信仰が由来のような気がする。

ミシャグジ信仰の淵源は、

・・・・・柳田國男はこう書いている。・・・「荒神・山神・地ノ神・道祖神は、西部の諸県にもあるが、伊勢から紀州の一部を止まりにして東にしかないのは社宮司しゃぐじという神である。これについて二十年余りも前に、私は小さな本を一冊書いている。それから後に判ったことは、信州の諏訪が根源で、今は衰えてしまった土地の神の信仰ではないかということである」。つまり、もともとその土地に固有した在来神ということ」・・・

これが後からやってきた諏訪神と抗争したが敗れ、やがて同化して祭神事を共有化していった」とみるのが一番合理性があるように思う。

さて、諏訪社の祭事の中で、最も神秘的な・・というか、不思議的な「御頭祭」は、生贄の祭祀である。

「御頭祭」は、別名「酉の祭」とも言われ、正式名称「大御立座(おおみたてまし)神事」です。この行事の最大の見所は、鹿の首75頭をはじめ猪の首や魚、雉などを生贄として供えるという ------

「鹿の頭」の剥製:写真

 -----・ なんともはや・・上記は旧約聖書の言葉とほぼ同じ、、「羊」を「鹿」に置き換えれば、、「ほぼ」も無くなるし・・

上記の真偽は、よくわからないが、、--こんな神秘的な祭祀が行われていたのは確かなようで、、最近では、鹿の頭は、さすがに残酷なさまなので、生身を「剥製」に取り換えているそうだ。

美ヶ原は、文字通り「美しい高原」であるが、神々の舞台でもあったようで・・・

 

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「松本」学、あるいは「松本」考:6  山家」の読み方

2023-08-28 09:33:32 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:6

6:山家」の読み方

山家」の読み方

---・ 三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり
---・上っていくと、「山家城跡」というのがあります。ここらあたりから、入山辺」と言います

と、先に書いた。
この「山家」は、「やまや」と読むとばかりに思っていた。

里山辺を散歩中に、地元の人との会話で、この城跡は「やまべ=山家・城」だと知った。散歩中に、この会話がなければ知りえなかったことである。

山家城跡:写真


「山家」を「やまべ」とは、難読の極みである。松本が、城下町の体裁を整えて、人口を増やしてきた折、新参者は「山家」を「やまや」と読みえず、呼び名は習わしであることから、当て字の方を「山辺」と変えたのであろう。そして「山家城」の主の統治の領域は、里山辺、入山辺、三才山辺りであったのではなかろうか。そういえば、美鈴湖の地籍は、三才山である。

歴史書を読み返していると、小笠原家の内訌、諏訪大社三社(上社・下社・高遠)の内訌、戦国期の初期、‥‥山家城は、度々府中小笠原に攻められた。山辺一族は、諏訪神党であったようで、その度に「諏訪上社」の神党に助けられたが、とうとう小笠原長朝(文明年間)の時に滅ぼされます。以後、山家城は、小笠原の傀儡が城主を継ぎますが、諏訪神党とは関係がありません。

 

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「松本」学、あるいは「松本」考:5

2023-08-19 16:04:38 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:5

5:裏庭・美ヶ原

裏庭・美ヶ原

ルート:2

・・・、 三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり、バス停は「美ヶ原」に通じていた。
美ヶ原温泉郷から、細い道を縫っていくと、美鈴湖に合流する脇道もある。
ここいら一帯は、見渡す限りのブドウ園で「種なしデラウェア」の産地である。ここを、バスでも良し、歩行でもよし、でブドウ畑の間をヒタすら上っていくと、「山家城跡」というのがあります。ここらあたりから、入山辺」と言います。

入山辺のブドウ園:写真

さらに上ると、「三城牧場」に着きます。近くに、扉鉱泉」もあります。

---・なにせ・・五十年プラス前のことゆえ、いまだに牧場をやっているのか、鉱泉が名前をかえたのか、そこらへんはご容赦を・・・
「三城牧場」は、大学の「オリエンテーリング」の時のハイキングの目的地でした、、、それが縁で、美ケ原を裏庭と認識しているのかも知れません。贅沢なことです。

 

で、ルートは複数ながら、どちらも美ヶ原へ通じています。

高原です。そして草原です。山岳は、高度を増していくと、森林限界を超えって、背の高い森林がなくなって、低木や草花に変わります。

横や空が、抜けて、開放感が広がります。美ヶ原高原です。

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「松本」学、あるいは「松本」考:4

2023-08-15 16:07:51 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:4

4:裏庭・美ヶ原

裏庭・美ヶ原

ルート:1

母校(信大)の脇を通って橋を渡ると「浅間温泉にでる。橋を渡った直ぐには、「川島芳子」が住んだ家がある。(----戦中に、渾名 男装の麗人、東洋のマタ・ハリとも呼ばれた人、機会があれば深追いするが・・・) 温泉旅館、温泉ホテルを突き抜けてそのまま上ってゆくと、・・・、 

三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり、バス停は「美ヶ原」に通じていた。ここいら一帯は、見渡す限りのブドウ園で「種なしデラウェア」の産地である。ここを、細い脇道だが、歩行でもよし、でブドウ畑の間をヒタすら上っていくと、・・・、

美鈴湖の手前で合流する。美鈴湖と言えば、50年目r当時、「浅間温泉国際スケートセンター」があった。---・油氷とか言って、好記録続出の「アウトドア・スケートリンク」であったが、今はもう無いそうだ。


写真:美鈴湖

道草・トピックス;

美鈴湖からさらに登っていく。
番所が原スキー場を経て、美ヶ原高原美術館へ着く。

つづく・・

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