醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  762号  谺して山ほととぎすほしいまま 久女   白井一道

2018-06-16 11:26:41 | 日記


  谺して山ほととぎすほしいまま 久女


  久女の有名な句ね。私は三十年も前から知っているわよ。
 華女(はなこ)さんは昔、俳句をしていたからね。句労は最近知ったんだ。
 句会に入って知ったのね。
 そうなんだ。
 その句がどうしたというの。
 この間、読んだ久女について書いた本の最後に「この句は文学になっている」と述べてあった。これを読んで気づいたんだ。俳句にも文学になっている俳句と文学とはいえないような俳句があるということにね。
 そんなこと当たり前じゃないの。句労君の俳句が文学だって自信をもっていえないでしょ。
 そりゃそうだね。
 隣のA子ちゃんがショパンのピアノ曲を弾いていたけど、その演奏が音楽だといえるかどうか、疑問でしょ。A子ちゃんのショパン演奏は練習であってそれ以上のものではないでしょ。
句労君言っていたじゃない。テレビで森進一の歌を聴いて胸に沁みるねと、けれどこれが音楽だと言われるとちょっと抵抗があると。
 確かにね、演歌だって立派な音楽だとは思うけれどもモーツアルトやベートーベンの音楽とは比べられないよね。
 俳句は大衆文芸だと朝日カルチャーセンターの先生が言ってたけど、そうなんじゃないの。
 俳句は演歌と同じようなものだと言うの。
 そうは思わないけれども俳句は上品なものだと取り
澄ますほどのものではないとは思うの。
 なるほどね。
 俳句もお茶や生け花の世界と同じみたいで私はやめちゃったのよ。
 それで華女さんは辞めちゃったの。
 そうよ。一度、茶会に行って嫌だと感じたのよ。その雰囲気を俳句にも感じたのよね。だから俳句を作るのは楽しいんだけれども、先生の所に習いに行くのは嫌なのよね。
 お茶を飲むのは好きだけれども茶会は嫌よ。
俳句を文学まで高めるには大きな障害が立ちはだかっているようだね。
 芭蕉の時代だって同じようなものだったと思うわよ。商売としての俳句があったというじゃない。
 そうだね。正岡子規の頃も月並み俳諧では文学ではないと考え新しい俳句観を打ち立てて行く中で蕪村を再発見したらしいからね。
 蕪村の句は本当に素晴らしいと思う。立派な文学になっていると私は思うわ。
 君あしたに去りぬ
 ゆうべの心千々に
何ぞ遙かなる
 君を思うて岡の辺に
       行きつ遊ぶ
 岡の辺なんぞかく悲しき
 この詩、誰の詩か、知っている。
 島崎藤村のような詩だね。
 そう思うでしょ。この詩は蕪村の詩なのよ。萩原朔太郎が「郷愁の詩人・与謝蕪村」で紹介しているのよ。この詩を読んだだけで蕪村が如何に近代的な詩人だったがわかるでしょ。
 だから正岡子規は近代文学の基礎を築いたと言えるのかな。たしかに正岡子規の文章は今読んでみても古くなっていないよね。永遠に新しい。不易流行ということなんだろうね。

醸楽庵だより  761号  「第二芸術論」桑原武夫著について  白井一道  

2018-06-15 11:55:43 | 日記


  俳句は二級品の芸術?


 華女(はなこ)さん、桑原武夫という人知っている。
 知らないわ。何をした人なの。
 ぼくが初めて知ったのは、高校生の頃、スタンダールの「赤と黒」を読んだときだ。その本の翻訳者が桑原武夫だった。
 翻訳者なの。
 もちろん翻訳者でもあるけれども京都大学人文科学研究所の所長さんとして日本の言論界に大きな影響を与えた人なんだ。
 その桑原武夫がどうかしたの。
 うん、この間、句会が終わってから師匠と話していて桑原武夫のことを思い出したんだ。
 何か、桑原武夫が俳句について言っていたの。
 桑原武夫は昭和二十年代の初めころ、岩波が出している雑誌「世界」に俳句を貶めるような論文を書いたんだ。もう六十年も昔の話だけれどもね。
 そんな昔の話、どうでもいいじゃないの。俳句は作る楽しみを味わうことができて、読む楽しみを味わうことができればそれでいいじゃないの。それ以上のものじゃないわ。
 確かに、句労もそう思うけどね。
 俳句を貶めるとは、どんな事を桑原武夫は言ったの。
 文学には一級品のものと二級品のものがあるというようなことを言ったたんだ。
 なるほどね。それで俳句は二級品の文学だとでも言ったわけね。
 そうなんだ。「赤と黒」のような小説は一級品の文学だけれども俳句は「第二芸術」だと言ったんだ。
 どうして桑原武夫はそんなことを言ったのかしら。何か、俳句について面白くないと感じることがあった
のかしらね。
 当時、俳句界の頂点に君臨していた高浜虚子のあり方について批判したいと思うことがあったのじゃないかと思うんだ。
 それは高浜虚子が俳句を「お俳句」、習い事、お稽古ごとにしていることに文学の堕落を感じたからではないかと思うんだけどね。
 そんなことを言っても俳句は習わなくちゃ、上達しないじゃないの。絵だって、歌うのだって、習って初めて人前に出られるようになるのじゃないの。
 確かにそうだよね。問題はそこにあると思う。俳句が商売になっているような状況があったのかもしれない。俳句を金儲けの手段にしている。これは文学を堕落させると警告したのが「第二芸術論」だったのかもしれない。
 生け花・お茶・踊り・ピアノ。みんなお稽古ごとね。
音楽大学のピアノ科を出ても、ピアノ奏者になれる人なんて極々少数でしょうよ。句労君が言っていたじゃない。東京芸大の入学式に学長が三・四年に一人作家がでたら万々歳だと言ったと言うじゃない。
 日本画科に入ったA君の話かな。
 もう、昔の話ね。
 習うにはお金がかかるよね。だからお金を取ることが当たり前になる。だからお金儲けをしようとする商売人が出てくる。当然といえば当然の話だね。
 それで桑原武夫は高浜虚子を俳句の商売人だと断罪したの。
 そうじゃないんだ。俳句
という文芸そのものに一級の芸術になり得ない制約があるのではないかと、指摘したんだ。
 ふぅーん。そんなこと、どうでもいいことよ。

醸楽庵だより  760号  760号  自分の体に聞く  白井一道

2018-06-14 11:12:47 | 日記


  自分の体からの情報に耳を澄ます


 年取ると病気の自慢をするという。私たちもそのような歳になったのかもしれない。
 元気にテレビに出ていた俳優の藤田まことが大動脈瘤破裂でなくなった。立松和平も新聞に発表された死因は多臓器不全であったが、本当の死因は大動脈瘤破裂であったという。昨日まで元気に動き回っていた人が突然亡くなる。そのような激烈な死因となる病が大動脈瘤破裂というものである。古くは司馬遼太郎、河野一郎の死因が大動脈瘤破裂であった。
 野手さんは同じ疾患を持っていた。野手さんは七・八年位前健康診断で動脈に小さな瘤ができていることを医者から告げられた。当分特に治療の必要はないが、経過を見てくださいと言われた。半年にいっぺん通院し、瘤の経過を観察した。瘤は年々大きくなった。一年で数ミリ大きくなる。瘤の直径が5センチ以上の大きさになると破裂の危険性があるといわれている。Nさんの大動脈の瘤の大きさが去年の暮れに危険域に達した。手術が必要だと忠告された。現在手術の成功確立は100%だという。
手術の心配はないが、いつ破裂しても不思議はない状態だといわれた時は幾分嫌な気持ちがしたという。痛くも痒くもない。何の自覚症状もない。突然ある日、爆発が起きる。そのような病なのだ。「沈黙の殺人者、サイレントキラー」といわれる所以である。動脈からの大量出血が死に至る。藤田まことは体型から見るとメタボじゃなかった。体の動きは若々しかった。しかし体の中は老いていたのかもしれない。この病の原因は動脈の血管が硬くなり、伸び縮みしなくなる。血管
が血圧に耐え切れなくなり
からの出血が直接的な死因である。
 立松和平は六二歳で亡くなった。元気そのもののように見えた。腹部の動脈に瘤ができていた。それに気がつかなかった。それが命取りになった。
年を取り血管の中にゴミがたまる。そのゴミが堅くなる。血管が細くなる。血液を体の隅々まで送り出すためには血液を送り出す圧力を強くしなければならない。血液が体の途中で詰まってしまうと手が痺れたり、足の先が痺れたりする。すぐまた血が流れてきて痺れは瞬間的なもので終わる。。だから気にしない。そのようなちょっとした体からの情報に重大な情報があるのかもしれない。Nさんは体に気をつけ、注意を払っていたので、無事だった。手術も今は足の付け根にある動脈から道具を入れ瘤の根本を切り、そこに蓋をする。カテーテルとおなじような手術のようだ。このような治療をステントグラフト療法という。Nさんはこのような手術をした。切り取った瘤はそのまま放置する。数日間の入院で退院できる。Nさんは無事退院し、数日間傷口が痛んだが、元気を回復した。Nさんは自分の体の中の状況を知っていた。だから助かった。私たちは病気の自慢をするよりも自分の体からの情報を受け取る能力を身につけることが元気・長生き・ポックリの人生を送ることができるのかもしれない。自分の体を知ることによって残された人生を知ることができればきっと命は輝くに違いない。
 余命を健康に過ごすためには精神的に元気であることが体の健康をもたらすという。それには適度なお酒を楽しむことが一番ではないかと思うがいかが。

醸楽庵だより  759号  『ロシアのユーモア-機知と笑いの歴史』を読む  白井一道

2018-06-13 11:34:55 | 日記


『ロシアのユーモア―機知と笑いの歴史 ―』川崎浹著 講談社〈選書メチエ〉を読む


 ほろ苦き青春の日や蕗の薹  白井一道


 そろそろ蕗の薹が芽を出す季節になりました。蕗の薹を焼いて食べるとほろ苦い春の味が口の中いっぱいに広がります。人肌の燗で日本酒をいただくと「蕗の薹新酒の酔いに恵比須顔」こんな感じになります。私が高校を卒業したころはほろ苦い青春を望みもしないのにいやおうなく味あわせられていたように思います。大学受験には失敗、好きだった女の子には受け入れてもらえなかった。学んだ語学は身につきませんでした。ロシア語文化の教養を持たない私には先生の著書「ロシアのユーモア」を半分も理解できませんでした。その面白さを味わうことができない哀しみを覚えました。
 1960年、フルシチョフはアメリカに行きました。空港から出て行くと西側の記者たちに囲まれ矢継ぎ早にインタビューを受けました。あなたの国には言論の自由がありますか。「フルシチョフの馬鹿野郎」という言論の自由はありますか。そのようなことを言う人間は直ちに逮捕され刑務所にいれられるだろう。国家の最高機密を漏洩したのだから、とフルシチョフが言うと西側記者団たちの間に爆笑の渦が巻き起こった。このような話を私は高校生のころ、世界史の先生から聞いたことがあります。フルシチョフは凄い、さすがソ連共産党の第一書記だと思ったことを覚えています。先生の著書164ページに同じような話が載っています。「ソ連市民が赤の広場で「ブレジネフの馬鹿野郎」と呼ばわった。早速逮捕され、裁判にかけられ、十五日と十五年の刑を宣告された。国家機密の漏洩罪で」。このアネクドートに現実性のある社会がソ連社会だったら、怖い社会だと思います。共産党独裁の社会は闇と沈黙が支配したと先生は述べています。ソ連社会には幻滅していますのでショックはおぼえませんが、この闇と沈黙が支配したソ連社会、その為政者を民衆は笑った。民衆はいつの時代でも、どの地域でも逞しい。笑いは民衆の抵抗精神の表れだと感じました。笑いには、は、ひ、ふ、へ、ほ、の笑いがあると聞いたことがあります。アネクドートにも「はひふへほ」の笑いがあるなと思いました。54ページの「鞭をくらうだろうよ」というアネクドートには「ふふふふふ」なんていう笑いがあるように感じました。ピョートル大帝は抜歯の技術を身につけると臣下の歯を全部抜いてしまったと聞いています。その抜いた歯が今も博物館に展示してあるといいます。私はロシアに行ったことがないので確認したわけではありません。本当ですか。抜歯の技術という啓蒙は皇帝の臣下に専制という不幸を与えました。先生の著書からこんなことを思い出しながら読ませていただきました。
 今から三百年前、松尾芭蕉は「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」と詠いました。殺生を行う鵜匠さんは被差別民だった。夏の夜、灯火を吊るした竿の先に咽を縛った鵜を離す。灯火を求め、集まってくる鮎を鵜は捕まえ、飲み込むが咽から先に落ちていかない。鮎を捕まえた鵜を舟に上げ、鮎を吐き出させる。鵜にとってはなんとも残酷な漁である。このような残酷なことを行う鵜匠は、農民たちから恐れられ差別された。鵜飼いという命に生きる鵜匠の哀しみを芭蕉は詠った。先生の著書104ページに「おもしろうてやがて哀しき祭りかな」という項目があります。芭蕉の俳諧は現代日本語の慣用句の一つになっていると思いました。芭蕉の言語活動が普遍性を得たものの一つではないかと思いながら読ませていただきました。
 もう一つ、芭蕉から、「秋深き隣はなにをする人ぞ」という俳諧があります。この俳諧を島崎藤村は「秋深し隣はなにをする人ぞ」と紹介しているという。「き」と「し」の違いです。芭蕉学者は「き」と「し」を藤村が間違えていることを発見し、間違えやすいことを述べていました。しかし「き」と「し」で意味がどう違うのか納得する説明はしていませんでした。読者に自分で考えてもらいたいと言っているのかもしれません。「秋深き渓谷」というように「き」の後ろには体言がきます。この体言を芭蕉は省略しています。だから余韻がでるということでしようか。それに対して「秋深し」というとそれで終わってしまいます。だから余韻がでないということでしょう。余韻は出なくとも「秋深し」と言ったほうが落ち着きます。だから散文に近づく。私はこんなふうに理解したのですが、間違ってはいないでしようか。
日本文学を研究する外国人はこのようなことを学び、きっと「き」と「し」の違いを理解することでしよう。私たちが外国語文化を学ぶということはこのようなことかなと思いながら読み進みました。日本人がロシア語を発音するとどうしても母音が入ってしまうため間延びしたように感じると書かれています。外国語文化を身につけていない者にはだから分からないということが分るだけなのかもしれません。
 「看板、かんばん」と「蒟蒻、こんにゃく」、「本、ほん」、「年金、ねんきん」。「ん」の発音が少しずつ、後ろにくる言葉によって違うということを外国人に日本語を教えている先生から教わりました。私たちが何不自由なく日本語を話しているから外国人に日本語を教えられるというものではないことを理解しました。早稲田の大学院でニーチェを読んでいたとき、佐藤先生はよく言っていました。ドイツ人よりドイツ語ができるようにならなければ一人前ではないと。きっとそうなのでしよう。
 分からないながらいろいろなことを思いながら読み進みました。「人間の意識は客観世界を反映するのみならず、世界を創造する」。この言葉が波紋を起こした。このような言葉はマルクスにもあるし、レーニンにもあったように思いながら読み進むとそうだと先生は書いておられました。唯物論の皮相な理解が問題を起こした。人間の愚かさを笑う小話として理解しました。このように理解できたところも多々ありました。全般的にソ連社会の一面を学ぶことはできたと思っています。ありがとうございました。
気づいたことを一つ、136ページに「1941年から1945年までの第二次世界大戦でソ連は700万人の死者をだした。」と記していますが、私が世界史の授業で教えているソ連の死者数は、二千万人です。今、インターネットで調べてみても二千万人となっていました。41年から45年という期間に限定すると700万人ということになるのかもしれません。具体的な死者数をソ連政府は公表していないと聞いていますから私の間違いかもしれません。失礼をお許しください。
私の能力的な限界はありますが、先生のお仕事の一端をこれからも学んでいきたいと思っています。

醸楽庵だより  758号  権利としての教育   白井一道

2018-06-12 11:33:40 | 日記


  権利としての教育


 教育は権利だ。学校制度が始まる前から教育は権利だった。人間の歴史が始まって以来、教育は権利だった。しかし人類誕生以来、現代社会に到るまで権利としての教育は実現していない。
 日本にあっては明治五年学制が発布され、教育の対象を「子供」とした。このことは日本の歴史における「子供」の発見であった。教育の対象として子供が「子供」になった。それまでの江戸時代にあって教育は私事であった。武家は武家として私事として行われていた。公家の場合も町人の場合も同じだった。公共のものとしての教育は存在しなかった。 
 日本にあっては明治維新によって法治主義による政治が行われるようになった。明治期の法治主義はまだまだ法の支配としては不十分なものであったが、それまでの人による支配から法が支配する社会に向かって歩み始めたことは事実である。
 公共のものとしての空間が実現したのだ。
 国民を対象とした公共のものとしての教育、公教育制度が実現した。この公教育制度の始まりは、また権
利としての教育の始まりでもあった。しかしまだまだ権利としての教育は潜在的に可能態として存在しているに過ぎなかった。
 本来教育は権利であるはずなのに明治時代に実現した教育は義務であった。法治主義が阻んだのだ。法律が教育を義務と定めたのだ。これは教育を歪めるものであった。本来権利であるものを義務とするのだから本末が転倒することになる。
 第二次世界大戦後、全世界の大勢に従って自然なものが自然なものとして認められる世界になった。教育
が権利であることが誰でもの常識として憲法の中に規定された。さらに教育基本法において権利としての教育が実現した。法の支配が前進したのだ。潜在的に可能態として存在していたに過ぎない権利としての教育が現実態に向かって大きく前進したのだ。しかしここでもまた権利としての教育実現を阻んだのは法治主義だった。細かな法律を制定しては義務としての教育の延命を図ったのだ。
 敗戦後一九五〇年代くらいまでは権利としての教育実現運動が実を結んでいっ
たが一九六〇年代になると徐々に権利としての教育を阻む勢力が力をつけ、教育を歪め始める。
 具体的にいうなら学習指導要領の法的拘束性であろう。具体的に実現不可能なことを強制する。これは教育を歪める。なぜなら教育ではないものを教育しようというのだから教育を教育ではないものにしてしまう。
たとえば二〇〇二年に改定された新学習指導要領では「国を愛する心情」の育成が小学六年生・社会科における学年目標の一つに加わった。「国を愛する心情」の育成など教育ではない。なぜなら「国」とは何か。これが不明である。その「国を愛する心情を育成」するとは具体的にどのようなことを意味するのか、不明である。そもそも教育ではないものを教育しようというのだから教育を歪めることになる。法治主義によって教育を歪める。教育を教育ではないものにしてしまう。はっきり言うなら権力機構を国と言い、その権力機構を愛するとは権力者の言うことを何でも素直に聞くということか。そんなものが教育なのだろうか。そんなはずはなかろう。