[ 小魔人の小部屋 ] 枚方市の学習塾“ベスト学習会”の別宮利彦の一昔前の回顧録

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別宮利彦の『小魔人の小部屋』
こっそり垣間見てにんまり微笑んでください

日本サッカーリーグ

2006-06-06 | 小魔人が歩んできた歴史

いよいよサッカーのワールドカップが近づいてきたが、

1965年の今日、6月6日はJリーグの前身となる
日本サッカーリーグが誕生した日である。

当時、全国的規模のリーグ戦はプロ野球以外にはなく、
日本アマチュアスポーツとしては初の全国リーグとなった。

サッカーの黄金時代の幕開けとなる1964年、東京オリンピックが開催され、
中でもチケットの取りやすかった(試合数が多くかつマイナーだったので)
サッカーを見る人が多く、そして、7位と好成績を収めた日本代表の影響もあり
サッカーブームが到来したのである。

そして、その時のコーチであるクラマーさんの助言によって、
1965年にいつかはプロに・・・という願いを込めて、日本サッカーリーグが誕生した。

これが1968年のメキシコオリンピック 銅メダルの原動力となったのだった。

1960年代から1970年代にかけては東洋工業、ヤンマーが実力的な中心的存在で、
釜本邦茂選手はリーグを代表するストライカーだった。

私、小魔人はずっとサッカー少年だったのだが、
少年時代には今とは違って、サッカーをテレビで放送していたのを
見た記憶はほとんどなく、釜本・奥寺(ドイツに移籍)くらいは選手も知ってはいたが、
~選手に憧れてというようなこともあまりなかったと思う。

やはり、プロ組織があるとないとでは全く世界が違うのだろう。

学生時代、クラブ活動でずっとサッカーをやってきた。大学を出て、
ベスト学習会で教鞭を執るようになってからも、サッカーが恋しくなり、
高校時代のクラブの仲間を集めてオッサンチームをつくった。

草野球みたいな「草サッカー」といったところであろうか…。

そして、本格的に公式のリーグに参加しようと、
この、日本サッカーリーグ、いわゆる社会人リーグに加盟したのだ。

ピラミッド型になっている組織の頂点にJリーグが君臨し、その下にJFLから5部までの
下部組織の広がりとなっていた。

もちろん5部からスタートなのだが、その行く末にはJリーグが存在するという、
万人が夢を見ることのできるような構造になっていた。

別の見方をすれば、その組織のタッカイ会費は、上納されていたのだろう…
と勝手な解釈をし、
「俺らがJリーグを支えてんねや…」などと、好きなように言っていたものだ。

そして、リーグ戦では、第3者チームが持ち回りで審判をするのだが、
そのための審判グッズもきちっと揃えなければならなかった。

あの真っ黒な審判ユニフォームやホイッスル、ラインズマン・フラッグなどを
購入した際には、家で試しに身に付けて、レッドカードとイエローカードを
振り回したものだった…。(「ばっかみたい」、という声が聞こえてきそうだが…)

しかし、残念ながら、実際の試合で審判をしたときには、ついに
レッドカードもイエローカードも使用することはなかった。
私の心の中の悪魔はささやきで、
「いっぺん、軽はずみにでも出してみたいなあ…」
という衝動はあったのだが、もう一つの、心の中の天使が食い止めた。

いろんなグランドで練習し、試合でいい汗を流し、とても充実した
オッサンサッカーチームだった。

しかし、それから数年が経ち、
体力の衰えを感じ始めた頃(今のジダンの心境ってとこか…、(。。;) \(゜o゜#; んなエエもんかッ!)

膝の痛みを感じ出し、精密検査をしてみると関節に腫瘍ができていて、
切開手術をして除去せねばならないと言われた。

というようなわけで、呆気なく終焉の時が訪れたのである。

今も…、ユニフォームやスパイク、審判グッズなどひっそりと眠っている。

「夏草や兵どもが夢のあと」

これからのワールドカップ開幕が楽しみだ。