聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び 創世記1章~2章3節

2024-11-24 15:36:05 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

「初めに、神は天地を創造された。 」 創世記 1章1節 

 旧約聖書の最初に、神様は天と地を無から創造されたことが記されています。「光あれ」との言葉から始まり、神様が言葉を発すると、その通りに造られていきます。その文体は一定の形式:「神は言われた。~となれ。」、そのようになり、神はそれを見て「良しとされ」、夕べがあり朝があり、第一日目である、という文体が第一の日から第六の日まで続きます。  

 最初に光を創り、光と闇に分けて昼と夜という一日の単位を創られました。そして、大空(水)を上と下に分け、地と海を分け、そして植物、天体、水中生物・鳥、その他すべての生き物、最後に人間を創られました。神様は人間だけを神様に似せて、かたどって創造されたとあり、自然界の他の造られたものを治めるように命令。そして、7日目に神様は創造の仕事を離れて、安息なさり、この日を祝福し、聖別されます。これが安息日の規定として、必ず7日目に仕事を休むよう、またこの日を神様のために他の日から取り分けるよう、後に十戒の規定の一つとなり、守られています。また、キリスト教ではキリストが復活された日曜日を安息日として礼拝の日とし、現代でも世界的に週に一度休みの日というのはここから由来しています。

 人が他の生き物を支配するように命じられましたが、それは神が創られた天地とその命あるものを大切に管理するよう、神から委託された働き、責任であって、人間が好き勝手に枯渇するまで資源を採掘し、動植物を乱伐、乱獲することではないはずです。人が創造主である神から離れ、自分が神のようになろうとしたとき(これが罪の始まり)、神との関係も、人との関係も、自然と他の生き物とのかかわり方も全て破壊的になってしまったのではないでしょうか。地球温暖化、自然災害の増大と無関係とは思えません。

 しかし、この創世記を通して、神様の創造の秩序から始まり、それが人によって損なわれてしまっても、失われた人間の救い、被造物全ての回復、新しい創造をすでに神様は計画されていたということを、新約聖書に照らされた光によって、私たちは部分的に理解することが出来るのが幸いです。その新しい創造がなされるのは、神の御子イエス・キリストによってであり、人がその罪を認め、神様を信れば救われるように、キリストが十字架にかかって下さりました。キリストこそ神の似姿であり、キリストを信じた者はの霊の働きにより、主イエス・キリストと同じ姿に造り変えられていくと使徒パウロが記しています*。人はあくまでも人であり、神にはなれません。それでも、人がキリストの十字架の救いを通して救われ、新しくされ、キリストの愛の性質を持つように変えられていく、キリストが復活されたように私たちも復活の体が与えられるという希望があります。神はなぜ天地を創造されたのか。なぜ神は人だけ、ご自分に似せて造られたのか?この問いに対する答えのヒントは、最終的に、今のこの壊れてしまっている世界が新しくされ、永遠に続く愛と平和の神の秩序の世界がもたされることを、最後の書簡、黙示録にいたる聖書全体を通して示されている神の御言葉から得られるのではないでしょうか。神様の大きな計画を信じ、神の御心がなることを祈っていきたいと思います。

*コリントの信徒への手紙2 3章18節、4章4節

 


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水紋、波紋、投石し続けること

2024-11-20 14:51:31 | 日記

 京都の日本庭園を訪ねたことがあります。いわゆる枯山水と呼ばれ、水を使わず、砂や石で、水紋等を表現している情景の美しさに、その場にいて心が落ち着くようでした。一方、先月福島県の五色沼を訪れましたが、その各沼ごとに水の色が違い、その周りの山々との情景の美しさに驚かされました。やはり自然そのものの美や力が放つ効果は、枯山水もかなわないでしょう。

 水紋は水に小さな石を投げ込むと生じ、その波紋、波の和が徐々に幾十にも外側へ広がっていき、波は岸に着くまで、一方が他方を駆り立てながら延々と押し寄せます。小さな石の効果は大きいものです。ただ、しばらくすると水紋はなくなります。また次の石を投じない限り。

 キリスト教の宗教改革を起こしたルターは、「(キリストの)福音宣教は、水に投げ込まれた石のようなものである」*1と例えたそうです。当時、復活された主イエス様が、上記のみことば「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と弟子たちに言われました。そして使徒と呼ばれる弟子たち、また彼らから聞いて信じた信徒たちによって宣教が初められ、当時のローマ帝国内に急激にキリストの福音が宣べ伝えられ、クリスチャンが増えました。その過程で、迫害や、キリスト教国教化、形骸化そして宗教改革など様々な波乱万丈の出来事がありましたが、キリストの福音は説教者たちによって遠く世界のあちらこちらへと駆り立てられように広められ、福音を聞いたことのない人々へ知らされて、現代に至っています。

 しかし、重要なことはこの宣教活動は人だけの働きでは到底成し遂げられるものではなく、神様ご自身が宣教の業を共に成してくださるから、絶えず聖霊が働かれているから起こっていることです。神様は、私たちに宣教の業に参与するよう呼ばれ、そして私たちは各々の場所へ派遣され(海外とは限らず、国内の、つまり自分の周りの人間関係のあるところへ)、そして良い知らせ(福音)を伝えていくのに、主キリストが共にいて働いて下さっていることは大きな励ましです。マタイの福音書でのイエス様の宣教命令には「いつもあなたがたと共にいる。」とあり、伝道、宣教の働きは世の終わりまで続き、どの時代にも主イエスが私たちと共にいるという約束があります*2。

 この御言葉より、わたしたちが何かしていなくても、していても、うまくいかなくとも、神様は働き続けて下さることを改めて感謝する機会となりました。すぐに結果がでなくとも、私は小さな石を水に投げ続けるよう励ましを受け、さらなる神様の業がなされることを祈り求めていきたいと思います。

「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコによる福音書16章15節

*1 参照  Luther, Martin, and John Sander. Devotional Readings from Luther’s Works for Every Day of the Year. Augustana Book Concern, 1915, pp. 149–150(PDF).

*2「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書28章19-20節


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礼拝メッセージ 「将来と希望を与える神の計画」

2024-11-17 13:39:17 | 日記

益子教会礼拝 メッセージ  聖書箇所   エレミヤ書 29章10-14節  タイトル  「将来と希望を与える神の計画」

 エレミヤ書とは、古代ユダ王国の最後の時期に、約40年活躍した預言者エレミヤが口述したものをバルクという書記により書物(巻物)に記させた書物です。エレミヤは北のイスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされる前から、イスラエル・ユダの民が偶像崇拝をやめ、神へ立ち帰らなければ裁きが下り国が亡びるという神様からの警告の預言をしました。しかし人々は耳をかさず、かえって自分たちの王国はダビデ王朝が永遠に続くという神の約束に基づき、エルサレム神殿は神が守られるという確信を持っていました。そのため、エレミヤは偽預言者・反逆者として王、高官、民たちから迫害を受け、牢に何度も入れられ殺されそうになりましたが、神様が彼を守られました。エレミヤは涙の預言者と呼ばれ、続く哀歌の作者でもあります。

 本日の箇所は、エレミヤからバビロンの地で捕囚となっているユダの共同体の人々宛ての手紙です。神様が選んだ民ユダ国はバビロニア帝国に包囲され、BC597年に第一回捕囚(3023人)が行われました。その捕囚の地で偽預言者が人々に、「バビロニアの勢力が衰えて、すぐにも捕囚民が故国に帰還できる」と予告しているという消息がエレミヤのところに届き、それに対するエレミヤの捕囚の民への手紙です。当時、ユダ王国でバビロニア帝国により、ゼデキヤ王が傀儡政権として立てられていました。このゼデキヤ王や高官とバビロンの捕囚の民の間に書簡が取り交わされ、それをバビロニア帝国が容認していたようです。

 エレミヤは偽預言者が言うように、すぐに捕囚は終わらないこと、つまり本当の神様の言葉を捕囚の民に伝えました。10節「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」70年間の忍耐の時となるので、捕囚の地で普通の生活をし、悔い改め、捕囚生活が長く続いても神による解放を待つようにと手紙に書きました。ユダの民の絶望と苦悩のただ中にあって、預言者エレミヤは神の将来と希望を与える平和の計画を(11節)、つまり、70年後の祖国帰還の恵みの約束として人々に伝えます。

 また、12-14節「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 わたしに出会うであろう、と主は言われ」ました。心を尽くして神を求める者は神を見出すと、悔い改めて神を求める道を人々に指し示します。バビロニアで捕囚となったユダの人々は、以前のように神殿で礼拝ができませんでしたが、彼らは捕囚の身であっても比較的自由に普通に生活が継続できたので、安息日に集まって共に礼拝をすることを始めたのです。安息日に集まることで、彼らがどこにいても、捕囚の地であっても神が共にいて下さるという信仰が強められ、後に会堂という場所に集まるようになって、現代の世界中で散らされて住んでいるユダヤ人の生活に今でも引き継がれています。

 そしてこの捕囚の時期に、今の旧約聖書の編集がなされていったと言われます。彼らは祖先から伝えらえてきた伝承や記録から、なぜ今自分たちがこのような苦しい目に遭っているのか、過去を振り返る時となりました。すると、神様がモーセを通してイスラエルの民に与えた律法をイスラエルの民が守ることで祝福があり、守らなければ呪いとなるという神との契約が記されていることを知りました。彼らにふりかかった禍いは、イスラエルの民が偶像崇拝を行い、神との契約を破った結果であることをようやく自覚したのです。

 こうして彼らは、エレミヤを通して告げられた神様の言葉や、同時期に捕囚の地で活躍した預言者エゼキエルの預言を聞き、神様を求め、悔い改めたのでしょう。ユダの人たちは、このバビロニア捕囚以降、律法を守り、偶像崇拝は一切しなくなりました。しかし、彼らはまだ古い契約の下にとどまっていたので、律法を守ることで自分の救いを達成する律法を守るという教義に発展し、たくさんの生活上の規則をこの時期以降作り上げていき、律法主義が形成されていきました。表面上律法を守っているから自分は正しいと自負し、心は神様から離れ、そして他人を裁き、律法を守ることを他人に強制しました。イエス様は、このような律法主義に対してファリサイ派や律法学者と対決されたのです。どんなにうわべだけ律法を守っていても、心が神様に真剣に向いていなければ、結局神様から離れていきます。キリスト教であってもその後、その歴史において、何度人間は、形だけの礼拝・宗教に陥り、それに対して神様から示された人々が宗教改革や、原点回帰を求めて霊的覚醒運動が起こってきたことでしょうか。

 現代に生きる私たちは心を尽くして神様を求めているでしょうか?イエス様は、マタイによる福音書7:7-8で「求めなさい・・・ 誰でも求める者は与えられ、探すものはみつかり、門をたたく者は明けられる。」と言われています。誰でもと言われているので、イスラエルの民だけでなくどの人種でも民族でも、心を尽くして神様を求めれば神様は答えて下さる方であるから、求めなさいとイエス様は私たちにも言って下さっています。私たちは、心を尽く、想いを尽くし、力を尽くして主なる神様を愛し、そして、神様を見出す、つまり日々神様と新たな出会いが、御言葉を通して与えられます。そのために、常に聖霊の助けを頂いて、神様に祈り続け、悔い改めるべきことが示されたら素直に悔い改め、赦しを受け取り、また仕切り直して神様の導きを求めていきましょう。

 では、このエレミヤを通して示された神様の平和の計画、将来と希望を与える計画とは、ユダの民のためだけの計画なのでしょうか?この預言の言葉は、さらにもっと大きな、民族を超えた計画の一部分であることが、この後のエレミヤ書の31章31-34節の預言を通して私たちに理解を与えます。それは神様が新しい契約を全ての人に与えるという計画です。新しい契約があるということは、古い契約が存在するということで、それは神様とイスラエルとのシナイ契約です。それは、神様がモーセを通して民に与えた律法(十戒とその他の神の戒め)をイスラエルの民が守ることで祝福があり、守らなければ呪いとなるという内容で、民が守らなければこの契約は破棄となります。しかし、神は守れない民を見捨てず、憐れみの慈愛を持って、ユダの人々をエルサレムに帰還させ、神殿や町の城壁を再建することができるように、導かれました。ユダヤ人はその後、何度も困難な歴史が続き、現在イスラエル国はあっても、周辺国との戦争が続き、全世界に散らされている離散のユダの民はまだ一つに集められていません。神が遣わされた救い主、イエス・キリストを彼らがメシアとして信じていません。しかし神は彼らを神の民として選ばれたゆえに見捨てず、いつかメシアを信じて救われる時がくることが預言されています。

 新しい契約は十戒のように石の板に書かれた文字でなく、イスラエルの人々の心に深く記され、強制でなく、自由意志の選択によって神に従えるように、神様の側がしてくださるのです。この新しい契約はイエス・キリストの十字架の御業によってなしとげられました。イエス様は十字架にかかる前に、弟子たちと最後の食事の時に、「これは罪が赦されるように、多くのひとのために流される私の血、契約の血である」(マタイ26:28)「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)と言われました。神様が私たちの心に、神様の律法を書きつけ、わたしたち個々人がこの神様の愛と赦しの契約に、自発的に応答するかが問われます。古い契約のように民族や血筋で自動的に契約が成立するのではなく、イエス・キリストの贖いを信じる信仰によって、信じるすべての人が新しい契約に入ることができます。これが新約聖書の、新しい契約の意義です。

 へブライ人への手紙9:15ではキリストは新しい契約の仲介者であると記しています。

「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、すでに約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」

 私たちは、イエス様の十字架の救いの御業を信じることで、エレミヤが預言していたこの新しい契約、 神様の愛と赦しの契約を神様と結ぶことができるのです。その新しい契約では、わたしたちが良い行いをすること、律法を守ることが要件はなく、一方的に神様の恵みとして与えられます。またさらに神の子供として永遠の財産を受け継がせてくださるとの約束が与えられています。

神様の御心、ご計画はヨハネによる福音書6章39-40節にこう記されています。

「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 わたしたちはこの地上の生活において、与えられた聖霊の助けによって、神様に心を尽くして、神様の御心を祈り求めることができます。この神様の恵みに感謝しつつ、神様の最終的に将来実現される、神様の御心、平和の計画、将来と希望を与える計画を信じ、委ねて歩んで行きましょう。


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礼拝メッセージ 「万事が益となるように共に働く」

2024-11-09 12:43:48 | 日記

聖書箇所   ローマの信徒への手紙8章26-30節 

 本日は、ローマの信徒への手紙8章より「万事が益となるように共に働く」と題してメッセージをさせていただきます。このタイトルだけをみますと、すべてのことが自分の益になってくれれば、なんと都合のよい話ではと思うかもしれません。私たちは、日々生活している中で、世の中の不条理なこと、戦争、犯罪の横行、災害、自分自身や家族の病、家族を失うこと、これらは辛いことであり、恐ろしいことでもあり、起こってほしくないと願い、よくないことが益になるとは考えにくいと思います。一方、人々が自分中心で考え、動いているため、これらの不条理は解決に至りませんし、またこの体はいつか衰え、死は避けられません。

 多くの人々は自分の思う通りになるように、様々なその国の土着の神々に祈願します。しかしそれぞれの個々人の利益が相反するので、結果はどうなるのでしょうか?誰の願いだけかなえ、他の誰の願いをかなえないのか、どのような基準なのか、日頃の行いによるのか、と不明であるなかで、信頼する・よりどころにする神として真剣に信じているのでしょうか。ある人は結局自分しか信じられるものはいないと。しかし、どんなに優秀な強い人でも、自分はそんなに強く、万能ではないことを薄々気が付いているでしょう。また神を信じていても「神がいるなら、なぜこんなことが起こるのを許すのか?」といわれる方がおられます。突然の災害・事故で家族や家を失ったり、酷いことが起こればそうつぶやきたくなるのも理解できます。責める相手がいないので、神にその怒りを、悲しみをぶつけたくなるかもしれません。もちろん、神様はその思いを受け止めて下さる方であります。しかしまず認識しなければならないのは犯罪、戦争、環境破壊を起因とする自然災害は神様が起こしたのではなく、人間の自己中心的な利益追求のために引き起こしたことで人間の責任です。それでも、「なぜこのことが起こるのか?」という疑問に対して、私たちは「わからない」としか答えられません。一つだけわかることは、聖書で記される神様は愛と平和の神であり、悪の横行や、人間の病や死を望まれていないことは確かであります。

 星野富弘さんというクリスチャンの方がおられますが、彼は中学校の体育の教師として赴任したばかりで、事故で頸椎損傷し、首から下はまったく四肢が全く動けなくなり、寝たきりとなりました。絶望の内にいる彼のところへクリスチャンの友人が聖書と、クリスチャン作家の三浦綾子さんの小説「塩狩峠」を持ってきたそうです。その小説を読んでから聖書も読む気になり、そして神様を信じ人生が変わったそうです。彼が口に筆をはさんで絵を書き、詩を詠み、多くの作品を作りました。この4月に78歳で天に召されたそうですが、彼の作品により、どれ程多くの人が励まされ、慰めをうけたことか彼には知る由もありませんが、他者の益となるように神様が彼を用いたことがわかります。私たちは、彼のような障害をもっていないし、彼のような才能がないかもしれません。自分の人生は、他の人にとって何の益にもならないだろうと思う方もいるかもしれません。しかし、それは自分だけの狭い視野でみているからわからないのです。神様の大きな視野では、本人がわからないところで、神様のご計画の中で総合的に共に働かせてくださっています。また、神様が一人一人にこの世での役割、計画を持っておられるので、人と比較することは意味がないことであります。

 キリスト教でいう、福音(ゴスペル)とは善い知らせの意味です。聖書には、御子イエス・キリストの命を犠牲にするほど、私たち人間一人一人を大切に思っている唯一の、本当の神様のことが記されています。その神様は、人間を愛するために造り、自然も造りましたが、人間が神様から離れて、神を信じず自分中心の生き方を始めました。それを聖書では罪といいます。神様は、その人間の罪を赦し、神様と人間が一緒に、自然と調和して、平和に永遠に暮らせるようにするために、救いの計画を立てられました。それがイエス・キリストが人となって、この世にこられ、十字架で私たちの罪が赦されるために、代わりに罰せられ死なれました。しかし、3日後によみがえられ、弟子たちと会い、神の救いの計画を全世界の人々に伝えるようにと命じられて、天に戻られたのです。これがゴスペル、キリストの福音で、全ての人に知らされて、それを受け取ってほしいと神様は願われています。星野さんは、病床にあって、このキリストの福音を受け取り、信じたので人生が変えられたのです。

 この福音は神様の恵みであり、全ての人へ与えられています。その恵を受け取るには、自分を創られた本当の神様を信じず、自分の思い描く神々(これを偶像とよびます)に祈願して神様から離れ、自己中心的に生きてきたことに気づき、「ごめんなさい、神様を信じます、キリストを私の救い主として信じます。」と、キリストを信じることを決めて口に出して言うことで、救われると聖書に示されています。この信仰を持って歩む者は今日のタイトルにあります、全てが共に働いて益となることを知ることができ、生きる希望が与えられます。

 信仰とは希望をもつことでもあります。ヘブライ人への手紙11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあるように、望んでいる事柄を確信するとは、神様の取り計らいですべてのことを共に働いて益となるという、希望を確信することです。また見えない事実とは、希望は目には見えないけれども、キリストにある希望を聖書に記される御言葉で、それが事実であることを確認すること、これが信仰です。この信仰によってこの世を生きる者は、神様が私たちを愛していることを知っているので、たとえ、生きている間に困難や試練があっても、また祈ってもすぐに助けが与えられなくとも、自分の想像を超えた方法で、それも私たちが考える助け以上に良い方向に導かれると、神様に委ねることができます。

 この信仰を保ち続けるために、必要な助けがあることが8章26節以下に記されています。つまり祈ることです。ではどのように神様に祈ったらよいのでしょうか。イエス様は、「私の名で、天の父なる神に祈りなさい」と言われましたので、形式はなんでもよいですが、「主イエスキリストの名で祈ります、アーメン」と私たちは祈りの中で言います。また、イエス様は主の祈りを、祈りの手本として教えてくださったので、どう祈ったらわからない時は主の祈りを祈るが一番よいでしょう。もちろん、祈りは自分の言葉で、子どもが自分の親に信頼してお願いするように、自由に自分の必要、他の人のためにも祈ってよいのです。神様は天のお父さんのような、親しく呼べる方だからです。今はイエス様は天において、私たちの祈りを、神様にとりなしてくださっていると記されています。ですから、イエス様の名で祈るのです。

 困難な状況があまりにも複雑ですと、混乱し、何をどう祈ったらよいかわからない時があり、また祈ることもできないほど落ち込んでいる時があります。そんな時、内に住む聖霊が私たちの代わりに、神様の御心にそって神様へ祈って下さると、27節は記します。この聖霊は、キリストを信じると私たちの心の深いところに与えられ、同じ神の霊である聖霊は、私たちの心にすみ、私たちの代わりに、神さまに祈ってくれる方です。私たちの側にたって、私たちの思いを代弁して、うめいて、天の父なる神様にとりなしてくれます。。だから、「私は祈っていないから、神様は私のことを気にかけていない、ほおっておいているに違いない」と思う必要はないのです。聖霊が、私たちが意識していないところで、私の心の内を神様に祈り、とりなしてくれているというのは、なんという励ましでしょうか。

 キリストを信じる者は、神様をその大きな愛と憐み、恵みに感謝し、何もできなくとも神様を愛そうと、つまり神様の計画に従おうと決めて、新しいあゆみを始めます。そのような人が、28節の「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」であり、それらの人びとの為には「万事が益となるように共に働くということ」の聖書の言葉の約束により知り、またその通りになったことの自分自身の体験より「知る」ことができるのです。神を信じていない人には、そのような楽観的な予測の根拠がないため、万事が益と働くとは思えないかもしれません。しかし、キリストを通して神を信じる者は、聖書に示される神様の約束に支えられ、励まされ、神様とのコミュニケーションである、祈りさえも聖霊のサポートを得て、様々な状況を乗り越えられ、希望を持って歩むことができます。

 タペストリー(絨毯のような、色付きの糸が折り合わされている絵画)をご存じでしょうか。壁に飾ってありますと、見事な美しい絵として見えます。しかし、裏側はどうでしょうか。縫い糸が複雑に絡み合い、とても美しい絵とは見えません。今わたしたちの周りに起こっている出来事は、タペストリーの一部分、それも裏の部分しか見えなくて、完成に向けての過程にいる状態と例えられます。神様はこの人類と世界を創造された時に、完成の絵柄、つまり計画を持っておられます。その計画の過程で人間がその長い歴史の間に、自分たちの意思で様々なことがおこし、自分たちの意思で複雑にしたり、状況を絶望的にしたりしても、神様は最終的にいつか完成される絵柄を知っておられる、つまりタぺストリーの表面と裏面、両側の完成品を見ることが出来る方なのです。

 私たちは、本日の聖書の約束、万事を共に働かせて、益となるようにして下さる神様に全てを委ね、将来の救いの完成の希望(29節「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」とあるように、将来体が贖われる、つまり復活の体が与えられること)を持ちつつ、聖霊の助けを得て、互いに励ましあい、祈り合い今週も歩んで参りましょう。


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使命を果たす言葉

2024-10-20 17:11:35 | 日記

 今年は秋でも夏日が続くという、秋らしからぬ気候が続いたゆえに、秋の冷たい雨が降ると、ようやく例年並みの気温となったと感じます。神様は天から恵の雨を降らせ、冬には雪を降らせるように地球を創られました。雨と雪が、全ての人に(ある人の上だけ降らないということはなく)降り注ぐのは、それらが大地を潤し、植物の芽を出させ、生い茂って、人間と動物の食べ物を備える為であり、神様はそのように自然の循環を設定されました。与えられた自然の恵みを感謝しつつ、創世記に記されているように人は自然を守る、管理する役目を神様から与えられていることを、現代において警鐘的にも覚えておかなければならないと思います。

 神様は自然の営みだけでなく、神様の言われた言葉(御言葉)は、神様の計画されたことを成し遂げ、使命を必ず果たすと下記の箇所で言われています。神様は、神様の言われた言葉を聖書という形で目に見える、理解できる形で私たちに残してくれました。その聖書の中に記されている預言の言葉を読むと、まだ成し遂げられていない預言もたくさんありますが、昔神様の言われた言葉がその後その通りになっていると確認する箇所もたくさんあります。聖書は科学の記録ではなく、神の言葉として読む者が信じる、信仰の書です。神の御言葉には力があります。なぜならいつの時代に聖書の言葉を読んでも、読む一人一人の時期にかなって、その人に必要な神様のメッセージが伝えられ、希望・励ましとなり、慰めとなり、戒めとなり、信仰生活で必要な生きた言葉としてわたしたちの心に与えられるからです。

 また、イエス様の弟子のヨハネは、言(ことば)が人(肉)となって、わたしたちの間に宿られたと記しています。つまり言は神であり、神が人の形をとられこの世へ遣わされたイエス・キリストご自身であると聖書は記しています*。言であるイエス様は、私たち人間を救う神様のご計画のもとに、この世へ送られ、神様の与えたその使命を十字架の死と復活により果たされたからです。上記の箇所は預言者イザヤが、イエス様がこの世に人として生まれる約500年前に、イエス様の使命を預言していると言えるでしょう。

 神様の考えられること、神様の思いは、わたしたちの想像をはるかに超えます。神様の救いの計画を、全て相手が納得できるよう説明するのは困難です。しかしながら、私の力や説得力ではなく、御言葉自体に神様の力があり、影響力があることに希望があります。そしてはっきり御言葉が示している神様の計画は、イエス・キリストの命を犠牲にしてまで、何の働きもない小さな存在の私を救おうとし、神様を信じない罪を赦し、罪の縄目から解放し、神様の子供として天に迎えようと、また地上での生活をイエス・キリストの愛に倣って生きるように、聖霊が導いてくださるという救いの恵みです。私たちキリスト者は、この力ある御言葉をもっと多くの人に分かち合えればと願います。

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブル人への手紙11章1節)とあるように、希望とは望んでいる事柄です。見えない事実は、神様が見えなくとも、神様の計画が全て把握できなくとも、神様が全てを治めておられるという事実ではないでしょうか。この希望を毎回、御言葉で確信し、神様の真実を確認していきたいと思わされます。

「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」 イザヤ書55章11節

*ヨハネによる福音書1章1-5,14節


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