聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び 創世記11章

2025-01-09 14:42:18 | 日記

〇1月9日(木) 創世記11章 バベルの塔 (益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」の概要を掲載しています)

 洪水後のノアの子孫たちは当初同じ言葉を使って話していましたが(1節).それがどのようにして、これ程多様に異なる言語を世界の人々が話すようになっていったかが、11章に記されています。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地(バビロニア)に平野を見つけて住み始めました。人間は昔から変わらず権力を誇示するため、高い建物を造る傾向があったのでしょうか。この当時の人々も、4節「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と塔のある町を建て始めました。そう動機は「有名になろう」つまり名をあげたいという欲求です。大概、町の名前はそれを建てた人もしくは、建造物にさえも何か功績があった人を記念してその人の名前が付けられます。人に栄光を返すためです。その塔の使用目的は聖書に記されていませんが、宗教的施設ではないかという説があります。実際、イラクには「ジグラッド」と呼ばれる螺旋階段をつけた全八層からなる巨大建造物の遺跡があり、宗教的建物として立てられていたことが聖書以外の歴史書、考古学的書類からも分かり、そこは「天と地の会う所」と記されていますので、バベルの塔の伝承と関連がありそうです。人間の高慢は危険であり、歴史的にも自分が偉くなると自分を神であるかのように錯覚し、権力をふるう権力者たちが過去大勢いましたし、そこには民衆の搾取、しいたげ、戦争と暴虐と不条理の世界が拡大していきます。そこで神は、6-7節「…これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ(原語:バ-ラル)、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」とされ、彼らの計画を阻止されました。この建設中止になったものがバベルの塔です。結果彼らは「散らされることのないように」と町を建てようと試みたのに、全地へ散らされ、様々な言語が発生していったのです。

 人は一人で生きられない存在であり、神様は人を他者と共に社会を作り、人間関係の中で生きるように創造されました。ですから、町を作って一つになろうということ自体は人間の自然な社会的欲求として問題ないのですが、問題は神様を抜き抜きにして追求することです。神様ぬきだと、結局自己中心的な「有名になろう」の方向、つまり高慢と虚栄心が暴走していく危険があります。悲しいことに、バベルの塔以降も、有名になろう、権力を誇示しようという思いを持つ権力者と戦争は続けられています。

 10-26節の系図は、12章のアブラハムにつながるセムの系図です。創世記の1-11章は原初史と呼ばれ、神の天地創造から、最初の人間たちの堕落と罪の拡大、カインの殺人、洪水前の暴虐、塔の建設と人間が絶えず神から遠ざかってきた道のりを示してきました。同時に、それらに対する神の処罰、エデンの園からの追放、カインの呪い、洪水、そして離散(諸民族、諸言語の発生)と、神はその裁きの中でその都度人間たちを保護し、赦そうとされてきた、神の憐み深さ、人間に対する愛が記されています。原初史はバラバラに散らされた人類で終わるのではなく、諸民族に分かれた反抗的な人間に対する神の救いの計画がいよいよ、アブラハムという一個人への約束をもって始められることを、アブラハムへの系図でもって予告されているのです。つまり、アブラハムを通してなされた神の約束により、神から離れてしまった全人類を再びキリストにおいて一つにし、神の祝福が及ぶという救いの計画が展開されていくことになります。そういう意味で、パウロが「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマ5:20)と言ったように、原初史は繰り返される人間の罪に対する神の処罰と同時に、神の恵み深さの歴史も示しているのではないでしょうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つながり

2025-01-04 17:14:09 | 日記

 先日、私たちはドキュメンタリー映画を観ました。この映画は都内にある児童養護施設が舞台で、施設という血のつながらない職員と子ども達の共同生活において、家族とも他人ともいえない微妙な「つながり」を持つ中で、成長していく子供たちの一年を追った内容です。「人のつながり」について考えさせられる作品でした。日本には施設等で暮らす社会的養護が必要とされる子どもたちが、約4万2千人(2024年時点)もいるとの心が痛む現実を知りました。

 ある教会の礼拝にメッセージをしに行った時、礼拝前のこどものための教会学校にも参加しました。そこには児童養護施設の小学生の子供たちが職員と一緒に参加し、子どもの礼拝をしていました。施設の中で自発的に教会に行きたいという子ども達だけが、この教会学校に来ているそうです。私は子ども達が聖書に触れ、イエス様のお話を聞き、讃美歌を歌っている様子を見るにつけ、子ども達が施設を出てから大人になっても神様が共にいることを思い出してほしい、辛い時神様に祈って助けを求められること、独りでがんばらなくてもよいことを思い出してほしいと願っています。

 つながりは大切です。自分が誰とつながっているかで安心感を持てますし、自分が何者なのかというアイデンティティの認識とも関連します。家族がいても、つながりを持つのが困難である関係も残念ながらあります。家族とは、必ずしも血のつながった親族の集まりだけでなく、安心してつながりを持てる共同体をも指すのではないかと思います。クリスチャンにとって、教会という共同体が家族のようなつながりを持っています。そのつながりは、聖書では「交わり」と記され、自分たちを造られた神様を信じ、神様が天の父であり、わたしたちは神のこどもであるという神の家族として交わりを持つことができます。この交わりは、神の家族として互いに自分たちを認識し、互いに愛し合う、お互いをケアし、支え合い、共に祈り、お互い赦し合う、また聖書に記される希望を持ってこの困難な世の中を生きることを励ましあえます。

 イエス様はぶどうの木と枝の譬えから「木であるわたしに枝としてつながっていなさい」と弟子たちに言われました。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」この「実を結ぶ」とは、愛の実を結ぶ、つまり互いに愛し合うことだと言えます。イエス様は、イエス様の喜びが私たちの心に満ち溢れるために、このことを弟子たちに言われています*2。

 私たちは神の御子イエス様を信じることで、イエス様とつながることが出来ます。このつながりでは、自身を取り巻く状況が厳しくとも、状況に左右されない神様から与えられる愛と喜びを共有できます。神様は、この神様との交わりをイエス・キリストを通してすべての人に受け取ってほしいと願われています。この神様の愛を恵みとして体験させてもらっている者として、多くの方々に、特につながりを求めている方々に伝えていきたいと願っています。

 

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 ヨハネによる福音書 15章5節

*1 ヨハネの手紙 1 1章3-4節

*2 ヨハネによる福音書 15章11節


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする