雨降りの日曜日 法事に招かれて 行ってきた。
天国に旅立たれて、もう そんなに日が経ったとは・・・。
一時期は大勢の社員さんと一緒に頑張っていた叔父さん。
高齢にもかかわらず、シャキっとして、にこやかな いい雰囲気のお顔で
微笑んでいる 遺影が 懐かしかった。
海外旅行も 忙しい中よく あちこち行かれてたようで
悔いなく過ごされたに違いないと思う。
皆で おじさんの事忍んで お参りののち
マイクロバスで お食事の会場へ。
お世話に なります、と 入っていくと・・・
着物姿の美人が3~4人で迎えてくれて。
ひょうたん、に 絵付け・・・
桜の時期に合わせて、桜のお着物で 歓迎!
あらぁ 凧では・・・
愉快な絵が・・・誰の絵かな?
この部屋で お食事を 頂きました。 吉川英治 どこかで 聞いた覚えが
鯉の煮つけ 久しぶり!
こごみ 、エリンキなどの 天ぷら
エビちゃんでした。
鯉の洗い、など 刺身
なんとか、しんじょ、とか言ってた気が・・・ユリ根が桜の花びらのように入っていて
ゆずの香りと三つ葉が 美味しいお吸い物でした。
もう、充分に ごちそう様でした。
傘をマイクロバスに置き忘れて、
まさか、お墓に行ったときのマイクロバスと
帰りの車、別のマイクロバスとは 知らなくて ビックリ。
参りました!
かなり お気に入りの傘だったので。
ここで 吉川英治 先生について ・・・
『宮本武蔵』の誕生
こうして巨額な印税が入ったが、貧しいときから寄り添っていた妻やすは、この急激な変化についていけず、次第にヒステリーになっていく。これを危惧し、印税を新居に投じ、さらに養女をもらい家庭の安定を図った。こののち、『万花地獄』『花ぐるま』といった伝奇性あふれる小説や、『檜山兄弟』『松のや露八』などの維新ものを書く。しかし妻のヒステリーに耐えかね、1930年(昭和5年)の春に半年ほど家出し、この間『かんかん虫は唄ふ』などが生まれた。このころから服部之総と交友を結ぶ。1933年(昭和8年)、全集の好評を受け、大衆文学の研究誌・衆文を創刊、1年続き純文学に対抗する。松本学の唱える文芸懇談会の設立にも関わり、また青年運動を開始し、白鳥省吾・倉田百三らと東北の農村を回り講演を開いた。1935年(昭和10年)『親鸞』を発表。同年の8月23日から「宮本武蔵」の連載を始め、これが新聞小説史上かつてない人気を得、4年後の1939年(昭和14年)7月21日まで続いた。剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、大衆小説の代表作となる。
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takapon(巷ではホリエモンと呼ばれています)の堀江貴文オフィシャルブログ
「六本木で 働いていた元社長のアメブロ」の記事、鯉の洗いです。