大桑城は古城山の頂上付近にあった山城で、美濃守護の土岐氏が何代も住んだ城です。
古城山の山頂付近が本丸であり、その南に二の丸・三の丸が続き、400メートルにわたって曲輪が連なっていたと推定されています。現在も曲輪、土塁、猿馬場等の遺構が残る。南麓(現在の市場、椿野、市洞)には城下町があって栄えたという。承久3年(1221年)逸見義重がの承久の乱での功績によって大桑郷を領地とし、子の大桑又三郎が大桑城を築いたとされる(1250年頃)。また、守護・土岐成頼の3男の土岐定頼が明応5年(1496年)に改築し、大桑兵部大輔と名乗って一代限りで住んだともいう(後に大畑と改姓)。その後は土岐頼純・頼芸の兄弟が居城とした。1509年(永正6年)には守護代の斎藤氏が台頭してきた事もあり、土岐氏は拠点を川手城から福光館(現岐阜市福光)に移し、さらに1532年(天文元年)に枝広館(現岐阜県立長良高等学校付近)に移す。
1542年(天文11年)に斎藤道三に攻められ頼芸は城を出たが、尾張国の織田信秀の仲介で和睦し帰城した。しかし1547年に道三が再び侵攻すると落城して頼純は討死し、頼芸も本巣郡河内(現・本巣市)に逃れ、大桑城は道三によって焼かれた。以上wikipediaより
城山展望台
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